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「はぁ~。朝から幸せねえ~。おいしそ~」
フライパンの上では、卵がじゅうじゅうと音を立てながら湯気をあげている。
御門真実は、そこにチーズをふりかけると手慣れた様子でくるみ、火を通してゆく。
真実はそれを皿に乗せると、テーブルへと運んだ。
「ほら叔母さん、できたよ」
「さっすが真実ぉ~! うまそぉ~!」
真実はそんな叔母の様子に呆れた顔をしながら、自分も出来立ての朝食に箸をつける。
うん、うまい。
真実には、両親がいない。
幼いころに交通事故に遭い、両親と別れることになった真実を、琴音叔母さんは女手一つで育ててくれている。
まあ、家庭科スキルが全くの皆無で、小さい頃から掃除洗濯、料理はすべて真実の担当であるのだが……。
養ってくれているだけでも感謝すべきだろう。
そう思い直し、真実は再び箸を進める。
「叔母さん、それじゃあ、洗い物は流し台に置いといてくれ、帰ってきたらやるから。俺はもう時間もやばいし、家出ないとだから」
真実がそう言うと、琴音叔母さんは窓の外を見ながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「それにしても……あなたも罪作りな男ねぇ。窓の外を見てご覧なさいな。円華ちゃん、今日も外で待ってるわよ? あんまり、待たせちゃダメじゃないのよっ。将来のお嫁さんでしょ〜?」
「うるさいな。変なこと言わないでくれよ叔母さん。円華はただの幼馴染だって」
真実は呆れた表情を浮かべながらいつもの叔母さんの冷やかしを躱し、床に置かれた鞄を拾い上げ、そのまま玄関へと向かった。
「今日は私、夜勤だから家には帰ってこないけど……円華ちゃん、連れ込んだりしちゃダメよ?」
「そ、そんなことしないって! 馬鹿なこというなよな!? ……そ、それじゃあ、今度こそ行くから!」
真実は、朝の登校前に感じる憂鬱な気持ちを、欠伸とともに噛み殺し、玄関を出る。
ドアを開けると、そこには真実と対のデザインの制服に身を包んだ幼馴染の少女、巴円華立っていた。
見れば、塀に背を預け、鏡で確認しながら、しきりに前髪を直している。
真実が家から出て来たことに気づいた円華は、鏡をそっとカバンにしまいこむと、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「真実、おはよっ。今日もいい天気だねー! はいこれ、今日のお弁当」
円華はそう言って、ニコリと微笑みながら手製の弁当箱を真実に渡してくる。
「あ、ああ、おはよう、円華。お弁当……いつもありがとな」
真実は円華に目を合わせず、弁当箱を受け取った。
先ほどの言葉を気にしてか、いつもなら特に意識しないような、円華のふとした仕草にも、ドキリとしてしまうことに真実は気が付いた。
──やばい、俺、どうしたんだ?
「……? 真実? なんか様子がおかしいけど、どうかしたの? 何かあった?」
円華はそんな真実の顔を無邪気に覗き込んでくる。
ち、近い……。
真実は慌ててかぶりを振った。
「べ、別に何でもないよ。ただ、おばさんが朝から冷やかしてきてさ。『円華ちゃんを待たせて罪作りな男ねぇ〜、将来のお嫁さんでしょ~?』だとかなんとか。まったく、あの人にも困ったもんだぜ……」
真実は今朝の叔母さんとの会話の内容を話した。
すると円華は、長く切りそろえられた黒髪の先を指で遊ばせながら、少し照れた様子を見せている。
「そ、そうだったんだ。お、お嫁さんって……。全くもうおばさんはーっ。悪い人じゃないけど、そういう、人をからかって面白がるところはいただけないよね。は、ははは……」
真琴は目の間にいる幼馴染のことを見る。
──円華は同級生の女の子達と比べても、かなり可愛い。
目はぱっちりとしていて大きく、まつ毛も長い。
肌のきめも細かく、白雪のように透き通った肌はシミ一つない。
あごのラインはすっとしていて小顔だし、スタイルもそれなりに良い。
そのぱっちりとした目のせいもあるのか一見幼い印象を受けるが、それが逆に、美人に多く見られる嫌味な印象を打ち消しているようにも思える。
「もう、やっぱり真実おかしいよ? さっきからぼーっとしすぎだって〜!」
ぼーっと円華の顔を眺めていると、円華が恥ずかしそうに顔を赤らめる。
真実は先ほどまでの狼狽を気取られまいと、どうにか思考を切り替え、無理やり話題を変えることにした。
「いや、ちょっと考え事してたからさ。悪い悪い。……ああそうだ、円華。最近気になってたんだけど。……毎朝、わざわざお弁当を持って、家の前まで迎えに来てくれなくても、いいんだぞ?」
真実は円華に対して、何の気なしにそんな言葉をかける。
今までは特に何も考えず円華の好意を受け取ってきていたが、よく考えれば自分も学校があるというのに、二人分のお弁当を用意するということは結構面倒なことなのではないだろうか。
それも、毎日休むことなく。
自分も琴音叔母さんの世話をしているから分かる。
たまには休みたい時だってあるだろう。
そう思い、円華のことを考えて放った一言であった。
しかし、その言葉を聞いた途端、円華は体をわなわなと体を震わせ始めた。
慌てて円華の顔をよく見ると、目に涙を浮かばせて、何やらこの世の終わりに立ち会ったかのような、壮絶な表情を浮かべている。
「ま、真実、そ、それって……もう私とは一緒に登校してくれないってこと? もう、私なんか興味ないってことなのかな? 毎日のお弁当、迷惑だったのかな……?」
円華は制服の袖をキュッとつかみ、声を上ずらせながらそんなことを聞いてきた。
しまった、また円華の地雷を踏んでしまった。
そう思った真実は慌てて自分の失言に説明を付け加える。
「い、いや、違うんだ円華! 別に俺は円華のことが迷惑だとか、そういう意味で言ったんじゃなくて……わざわざ毎朝弁当作って持ってきてくれることには感謝してる。本当に嬉しいんだけど、大変なんじゃないかなって思ってさ。心配になっただけなんだよ。円華には、その……迷惑をかけたくはないんだ……えっと、言葉足らずでごめん!」
真実は、努めて誠実に見える様に、頭を下げる。
円華は真実の言葉を聞くと、目をぱっと見開いた。
しかし、話し終わると同時にまた肩を震わせ、顔を伏せたてしまった。
──どうしたものか。
こうなると円華は機嫌を直してくれるまでに時間がかかることが多い。
これは今日一日、誤解を解くために平謝りか。
真実は改めて、円華に対して言葉を紡ぎ直す。
「円華、違うんだって。ただ、本当に心配だっただけで……」
しかし、円華はそんな真実の様子をちらり確認すると、突然、堪えきれないと言ったように口を手で押さえて笑い始めた。
「あ、あははははっ。もう、真実ってば慌てすぎ。冗談だよ真実ーっ! あはははっ。おもしろいっ。あはははっ。」
円華は肩を震わせ、目に涙を浮かべながら笑っている。
真実は今までのことが全て、真実の慌てる様子を面白がっていた円華の演技だと気付き、慌てて抗議の声を上げる。
「ちょっ、それ酷いだろっ! 俺は円華のことを本当に心配して……っ」
「ごめんごめん。……ぷっ、あはははっ」
しばらく笑い続けると、円華はどうにか笑いを堪え、真実に向きなおった。
「それに……」
と、円華は続ける。
「……真実はそんなひどいこと、私には言わないもんね」
なんてことを言ってくる。
「……そんなに慌てなくても、私は分かってるんだよーっ。もう、真実ってばちょろすぎ!」
真実の慌てる様子が大層面白かったのか、円華はまたもや肩を震わせ、クスクスと笑っている。
「お前な……」
真実は気恥ずかしさに思わず頭を抱える。
円華は楽しそうに真実に向き直る。
すると、今度は優しい微笑みを浮かべていた。
「ふふふ。心配してくれてありがとね、真実。でも、お弁当の事は気にしなくていいよ。いつも自分の分は自分で作ってるから、一人分も二人分も、手間はそんなに変わらないの。それにもう二人分のお弁当を作るの、習慣になっちゃってるから、それがないと逆に物足りないってもんさ!」
円華はそういうと、ポンと胸に手を当て、勝ち誇ったような表情を浮かべている。
──敵わないな。
やれやれとため息をつきながら、真実が改めて腕時計を確認すると、現在の時刻は七時五十分。
あ、時間やばい。
学校までの道のりを考えると、もう中々に際どい時間だった。
「こんなことしてる場合じゃなかった! このままじゃ時間やばいぞ、円華! 早く学校に行かないと遅刻だ!」
「え? ……ほ、本当だ!? 急ごっ、真実!」
いつも通りの日常、そして、いつも通りの光景。
そんな、たわいない会話をしながら急いで真実の家の門を出ると、目の前のコンクリートの道の上をすっと一匹の黒猫が横切った。
「うわ、こんな時に黒猫ちゃんが目の前を横切っていったよ〜。確かこれって、なんか悪いことの予兆じゃなかったっけ? どうしよう真実っ、私達不幸になっちゃうかもだよ〜っ」
円華はそんな、なんでもない日々の一ページにも、目を白黒とさせている。
──泣きそうになったり笑ったり、しかも今度は不安そうになったり、本当に表情豊かなやつだよな。
俺以外の奴にも、もっとこうやって心を開いてくれればいいんだけど……。
「安心しろよ、円華。黒猫が横切ると不幸その日不幸になるだとかそんな迷信、信じる必要はないって。そんなことより、遅刻の方が俺たちにとっては大問題。急いで学校に…………っ!?」
その時、真実の頭に、今まで体験したことのないほどの激痛が走る。
頭を、内側から鈍器で思いきり殴られたかのような、そんな痛み。
真実はその痛みに耐えきれず、思わず頭を抱え込んでしまう。
「真実? ……どうかしたの?」
痛みを耐える真実の様子に気がついたのか、円華は真剣な表情で真実の顔を覗き込んでいる。
痛みは一瞬だった。
今はもう、その頭痛の余韻すら残っていない。
──ああ、いつものアレか。
真実は円華に心配をかけまいと、「なんでもない」と言ってかぶりを振る。
だが、円華は納得がいってないようで、真実の目をじっと見つめたまま黙りこんでしまった。
こうなると、円華は事情を話すまであきらめてはくれないだろう。
真実は、ごまかしきれないと諦め、正直に白状することに決めた。
「……あー。いや、本当になんでもないよ。ちょっと、頭痛がしただけだ。心配いらない」
「本当に? 頭痛って、まさか風邪とかじゃないよね? 大丈夫?」
「風邪じゃ……ないと思う。ほら、俺ってこういうの、昔からあっただろ? いつものヤツだから、問題ないよ。それと…………ほら、危ないぞ」
真実は目の前の円華の腕を掴み、少し強引に自分の方に引き寄せる。
すると、先ほどまで円華のいた場所を、自転車に乗った男がイヤホンをつけたまま、かなりのスピードで通り過ぎる。
「きゃっ!!」
円華は短い悲鳴をあげた。
真実は円華に怪我がないことを確認し、ホッと胸をなでおろした
「さっきのやつ、ぶつかりそうになって何の言葉もなしかよ、マナー悪すぎだろ……でも、円華に怪我が無くて、よかった」
「え? あ、え、えっと。う……うぬ! そ、そゆだよね。あ、ありがられろ……」
円華は何故か顔を真っ赤にして呂律が回らなくなっている。
そこで、真実は胸に何やら柔らかい感触が手のひらに当たっていることに気付く。
──ん? なんだこれ?
しばしその感触を楽しんだ後、今自分がとっている体勢の不審さに気付いた。
まさに、後ろから円華を抱きしめているかのような格好で、手は完全に、円華の胸にセットされている。
「わ、悪い!! 気付かなかった! ご、ごめんっ!」
「も、もう、馬鹿っ、真実の変態っ」
真実が慌てて身体を離すと、円華は少し残念そうな顔をしていたが、そのままふんと顔を背けてしまった。