油断
ガタッ、と席を立った。
「あれ?どこ行くの?」
隣で次の講義の用意をしてた小夏が、不思議そうにこっちを見る。
「マーカーのインク切れたから、ちょっと売店行ってくる」
「……私も一緒に行こうか?」
心配そうに聞いてきた小夏に、笑顔で答えた。
「売店行ってくるだけだし、大丈夫」
透和とは校舎裏で会話したあの日以来、顔も合わせてない。
何でも小夏が友達や知り合いに情報提供を頼んだみたいで、透和が近付いてくると小夏のケータイに連絡が来るようになった。
それで、連絡が来るたびに逃げてたんだけど。
最近では連絡が来る回数も少なくなってきた。
チラッと壁に掛けられた時計を見る。
次の講義まで十五分程度。
わざわざ付き合わすのも悪い。
それに。
この間、後期テストも終わったし、講義も今日が後期授業の最終日だから。
明日からはもう、今までみたいに逃げることもなくなる。
今日は、後二つの講義で終わりだ。
来るとしても、最終講義直後だろう。
(それさえ乗りきれば大丈夫)
そんな変な安心感もあった。
だから。
油断し過ぎていたのかもしれない。
◇◇◇◇◇
売店からの帰り道。
「――なぁ」
声をかけられた。
「あんたが、松本奈夕?」
「え?」
振り返った先にいたのは、一人の男子学生。
透和ほどではないけど、割と整った顔をしてる。
「そうですけど?」
初めて見る人だ。
何なんだろう?
怪訝な顔になった私に気付いているだろうに、男はジロジロと私を見下ろしたまま、口を開かない。
「あの……っ」
痺れを切らして言いかけた言葉は、喉の奥に消えていった。
だって、男の目を見てしまったから。
冷たい、目。
「……っ」
私を軽蔑しきってるとでも言うような、冷たい目をしてた。
「――あんたさァ」
萎縮して言葉を引っ込めた私を見て、男が口を開いた。
低い、声。
ビクッ、と体が強張った。
(怖い……)
「自分のやってること、分かってる?」
ヒュッ。
喉が鳴った。
「な……何です、か?私のしてることが、なんだって……」
「うわ、もしかして自覚なし?最悪」
(何で……、何でそんなこと言われなくちゃいけないの?)
理不尽すぎる物言いに、心の中で反発の言葉が浮かぶ。
でも、男の冷たい眼差しが怖くて。
強く言い切ることが出来ない。
「……っ」
泣きそうだった。
でも。
こんな見ず知らずの男に理不尽に罵られて、泣きたくなんてなかった。
そんなことをすれば、目の前の男はさらに冷たい目でこっちを見てくるだろう。
そんなのは嫌だ。
だから。
歯を食いしばって、恐怖を紛らわした。
その時、
「ちょっとあんた!何してんの!」
少し離れたところから、救いの声が聞こえた。
「っち」
男が舌打ちした。
見れば、階段下から駆けてくる小夏の姿があった。
駆け寄ってきた小夏は、私を背後に庇うようにして身を割り込ませた。
「へぇ、ナイトのご登場ってか?」
皮肉げに言う男に気圧されることなく、小夏は睨み返してた。
「ど……、して」
それを見て、ようやく声が出た。
小夏の登場で気が抜けたからか。
情けないくらい、小さな声だったけど。
「やっぱり心配になって。追いかけて来たの」
小夏はしっかりと返事を返してくれた。
「この子に何したの?」
小夏が、男に問いかける。
それに男はひょいと肩を竦めてみせた。
「別に何も?ただお喋りしてただけだけど?――なァ?」
「っ」
ふいに振られた話と、向けられた視線。
肩が揺れた。
そんな私の反応を見て、小夏の纏う空気がさらに冷たくなる。
男を睨みつけたまま、小夏が言った。
「……そう。なら喋ってたとこ悪いけど、私たち、次の講義がもう始まるの。話なら別の機会にして」
言うだけ言って、小夏は男の反応を見ることなく踵を返した。
「――ほら、早く行こ」
「う、うん……っ」
振り向いた小夏に言われた言葉に、返事をするや否や。
小夏は私の手を握って、足早に歩き出した。
手を引かれ、男の横を通り過ぎる。
「いつも誰かに護られて。自分一人じゃ反論一つまともに出来ねぇんだな」
「っ」
嘲笑すら含まれた侮蔑の言葉。
背後から投げかけられる男の声から逃げるように、小夏に引かれるまま、階段を駆け上がる。
もう二度と会いたくない。
そう思った。




