生活の音
葉山祐介は久々のスーツに身を通すと、書斎の椅子の上に腰かけた。
ネクタイの辺り、首の周辺が窮屈であった。彼は耳に神経を集中した。妻が水をジャーッと流す音を聞くと、その生活音が妙に心地よかった。
土曜日。彼と妻の葉山香奈は今日、市の文芸誌の選に入ったので、その授賞式に向かう予定だった。祐介はそれをどこか義務のようにも感じており、それよりも、香奈の受賞を目に焼きつける事の方が重要だと思っていた。加えて、授賞式の後に続いて開かれる文芸フォーラムに参加するのを密かな愉しみにしていた。タクシーが自宅に来るのが九時。
二人はこの朝よく寝入ってしまっていた。
「祐ちゃん、なんで起こしてくれなかったの」
そう、人のせいにするのは香奈の癖のようなものだった。
「おいらも今朝、寝ていたもんで。気持ち良かった」
急いで支度をした。
春めいている青空の下、タクシーに乗り込むと、頭を短く刈り込んだ強面な男性ドライバーだった。
「着くまで大体幾らかかりますかね」
「そりゃ、ちょっと分からない、燃料代も上がってるからね」
祐介はシートベルトを引っ張って前のめりになると
「やっぱりガソリン代上がってますか」
と当然の事を言う、すると
「あのトランプのお騒がせ野郎がね、戦争なんて始めるもんで、あんな野郎、日本にはいねぇよ」
と毒づいて、祐介も香奈も苦笑するしかなかった。
授賞式の会場に着き、その、レセプション・ホールに向かったが、途中、二人自動販売機で二百十円のコーヒーのペットボトルを買った。
ホールに着くと、その前の椅子で暫し待たされた。すると、続々と受賞者が集ってきた。皆、煌びやかな衣装を身にまとっている。祐介ははじめて、ああ、やっぱり賞されたなら、しっかり授賞式に出るものなのだな、今までの自分は出不精であったな、と反省したが、黙って、香奈の写真をスマホで撮る事に勤めていた。香奈に若干緊張が見られた。
「葉山様」
名前が呼ばれ、案内された。祐介は、詩部門で一席だったので、一番前列の椅子の中心に座った。香奈は小説部門で二席だったので、二列目に座った。
会が始まり、雑誌の主催、市長挨拶があった。市長は祐介の一回り上の世代だろうか、ともかく去年に多くの応募があって、大変感謝している、おめでとうございます、と言った。その話の中で短く、実は自分も小さい頃小説家を目指していた、と語っていたが、それを聞いた祐介は、小説家を目指して今市長になっているんじゃ、人生やはり何があるか分からんな、と考えた。
市職員がバタバタと準備を行った。
彼は表彰された。しかし彼の頭にあったのは次に表彰される香奈がしっかり表彰状を受けとって、市長に礼し、会場に礼する、と、しっかりできるかと言う事だった。祐介はまるで香奈に対し、まるで親馬鹿のようになっていた。
香奈もしっかり表彰を受ける事が出来た。会場は拍手で包まれた。
表彰式が終わって、祐介は山野さんという御婦人から声をかけられた。
「あたらしい市長さんを見られて良かったね」
加えて
「あなた、以前に短歌を出して一席をとっていたじゃない?あの短歌を読んで衝撃を受けたわ」
と語った。
ああ、その頃は口語短歌に凝っていたが、今は若山牧水に傾倒していると、彼は伝えようとして、やはり辞めた。
一席の賞をとった方同士で、市長を中心にして記念撮影をする事になった。祐介は笑顔を作れるか不安であった。そこで市長が
「笑顔でね、笑顔で、私は笑顔を作る事が得意なんですよ」
なんて言ったものだから、自然笑う事ができた。
文芸フォーラムがはじまった。白髪であったが活発な講師であって、随筆の講義でありつつ、金子みすゞ、太宰治と話が飛び、その、文芸の意義とは何か、という所までテーマが広がってゆき、聞いていた祐介は感銘を受けた。
「文芸において、第一の読者というのは誰ですか」
と講師が質問すると、祐介の後ろの女性が
「夫です」
と、溌剌と答えた。
「それも宜しいでしょう、あなたは?」
そう尋ねられて祐介は
「公けにできる、できないの話もありますので妻に読んで貰います」
と答えた。
「それも宜しいでしょう、しかし、私の場合を挙げましょう、私にはもう私の書いたものを読んでくれる家族はおりません。姪が唯一そうだったのですが、それも叶わなくなってしまいました。するとどうでしょう。一人、個人という視点で考えますと、最初の読者というのは自分です。自分でその作品に納得するかという問題、自分の納得の問題なんです」
祐介と香奈、二人連れ立って歩いて、途中に見つけたレストランでパスタを摂る事にした。レストランからは青空と広い公園をのぞむ事ができた。
香奈は、小説で第一席を採った女性と軽く話をしたという。
香奈がその第一席を採った女性が、市長との集合写真を避けていたんだよ、と強調して告げた。
祐介は雑誌を広げ、その方の小説を読みはじめたが、現代的且つ論理的であると思った。
これから先、香奈は段々情緒不安定になった。
自宅に帰っても、配布された雑誌と睨めっこして何やら考えて不安や、又、不平、不満を言う。
「香奈には矜持ってものがないのかい」
そう祐介が香奈に告げると
「キョージ?キョージって何?」
と、暖房の暑さもあってかぼうっとしている。
それでも、旦那、祐介の元から離れようとしない。
また、この妻は被害妄想を抱きはじめた。香奈が小説部門の第二席であるならば、祐介 は入選であった。祐介は誌面に載るだけで満足していたのだが、香奈は自分の方が小説部門で優秀な成績を修めた事に祐介が羨ましがって、嫉妬して、わたしの靴に穴を開けたんだ、と言い放った。
流石に、普段寡黙だった祐介もこれには反論した方が良いと思った。
「え、まずさ、靴に穴が新しく開いている事は今知ったんだけどさ。証拠はあるのかい。僕は自分が靴に穴を開けた事を証明する事はできないが、そもそも僕が穴を開けたという証拠がないといけないんじゃないの」
普段は馬鹿な事ばかり言っている祐介だったが、この時ばかりはまともに言葉を返したので、両者間に異様な空気が流れた。
「その証拠も隠されている」
と、香奈が言った。
「なんだそれは」
実際、その靴の穴を見せて貰うと、明らかに劣化で穴が開いていたのであった。
「もう何年も履いているから」
と、香奈がボソッと言った。
「香奈、我慢しないで何か飲みなよ」
「さっき飲んだよ。久々に人の中に入って疲れちゃったみたい」
祐介は香奈の座っている正面に体を動かして言った。
「あのさ、その、香奈ちゃんが精神的に不安定になっている理由は分かるよ。それは明確に自分の小説が活字になった事でしょう。しかも、それには実際の事と、そうでない事が書かれている。そういうものを実際、発表してみて活字になるとね、人って変わると思うんだわ」
香奈はその通りだという顔をした。
「僕は香奈の小説が好きだよ。でもさ、これは実際の事なのかとか詮索されたり、何か批判されたりといった不安、それからこの作品を読むと、家庭と個人の対立、そして和解が描かれているけれど、その中でお父さんにあたる人物は、いつも怒っているよね。この小説を読んで、実際、お義父さんはどう思うだろうか。こんな日もあったと懐かしがるかも知れない。でも、傷つくかも知れない、と想像できるよね。だから、これは小説っていうものは、特に私小説はそうだと思うんだけれど、結局、オートフィクション、創造物なんですよ、というバリアを張らなければならない。これはどこまでも、フィクションなんですよ、という所でバリアを張らないといけないと、僕は考えている」
祐介は手を頭にやって言葉を捻りだした。
「でも、そもそも小説として勝負するとして、そのバリアを張りつつ、矜持も持っておかなくてはいけないと思っている。そうしないと、現実から創造へ移行するときに、生々しさを失う、と考えられるからね」
香奈は真剣に話を聞いていた。
そうして、すっかり、平然としてしまって、
お風呂に入ってくる、と言ったきり、書斎を出ていった。
風呂を出た香奈は
「なんであの小説で第一席を採った女の人が、記念写真に写らなかったのか、なにか、わかったような気がする」
と言った。




