混沌の駒
一一月二二日。この多少ばかり奇妙な並びは、世間的には「いい夫婦の日」である。
この日付自体には、特に、というか恐ろしいまでに、引っかかるものは統也にはない。
しかし数日後のこの日は、夫婦にまつわる日。現代日本においては独身の、まだ結婚することもできない高校二年生の統也は、それにもかかわらず、妻と呼んでも差し支えない「あの王女殿下」のことを思い出した。
彼は中学卒業の日、突如として現代の地球世界から姿を消した。
否、彼だけではない。
その日、彼を交えて同学年の部活仲間数人も、卒業のささやかな打ち上げパーティーに参加しており、そのグループが丸ごと、この世界でいう神隠しに遭ってしまった。
のちにそれは異世界転移だと分かることとなるが、ともあれ彼と仲間は、……転移した先で、永訣を告げた。
異世界転移してからそれほど経ってもいないある日。
際限なく広まる「静止」の気、世界を滅ぼしかねない素因を打ち払うため、統也が魔法の訓練をしていると。
「お疲れ様です、統也様」
海燕王国の王女リネットが、大きめの拭いを持ってきてくれた。
「は、これは王女殿下、ご機嫌うるわしう。私にはもったいない仕儀であります」
中高生とは思えない口調の統也だったが、これはもうそういうものだった。この王政が当然とされる世界において、王族に最大の礼を尽くすのは老若男女を問わない必須の礼儀であり、彼もこの世界にいるうちに、もはや意識しなくても己の言葉を律するようになった。
しかし彼女は。
「ふふ、私と二人きりの時にまで、そんなかしこまっては、寂しいですわ」
穏やかな微笑。やや八の字に傾いた眉までも控えめで、その声は耳から統也の心をふわりと包んで離さない。
「そうだ、膝枕でもしましょうか。おいでください」
膝を払うその仕草。
「は、いえ、それはあまりにも大変畏れ多く」
「たまには王女にも甘えてください。さあ」
少しばかり優しい異議を述べる彼女の身振りさえも、この上なく彼の魂を、宝物のごとくくすぐる。
「それでは……」
彼女の柔らかい膝に頭を乗せると、使命があることすら彼女との絆であるように感じた。
ついに素因核を追い詰め、その神聖魔法を存在の核に突き刺したあと、後ろからやってきたのは、王女リネットだった。
「統也様、私と共に、魔界の向こう側の理想郷に行きましょう。そして永遠の誓いを……」
そのあまりにも場違いな局面に。
「そうか、そういうことだったんだね……!」
悟ったのは、統也の仲間、遊里だった。
「どういうことだ?」
「駄目だよ統也、私たちと一緒に地球世界に帰ろう!」
「統也。きみにはまだ告げていなかったな。……すべては王女の策謀だったんだよ」
「宗光、お前まで」
「まあ聞け」
王女、というか海燕王国の王族は、本来、「混沌の大陸」すなわち「魔界の向こう側」にその起源がある。
その王族が密かに信仰している「血の教え」は、いつの日か必ず、素因核を倒し――混沌の大陸へ帰ることを至上の命題としている。
「王族は邪魔な魔界を制圧し、混沌の大陸に帰るために、戦力として僕たちを招き入れたんだ」
王族が混沌の大陸に帰還すると何が起こるか。
地球世界やこの世界を含めた、全ての破滅。
海燕王国の王族は、混沌の君主の一族でもある。ゆえに、本来の力を取り戻した混沌は、真の無限の侵食性を発揮し、全ての世界はここに滅びる。
「そんな……優しい王女殿下が……宗光、そんなはずはない」
「人間……に限らず、そういう存在はね統也、駒を動かすためなら、優しげに相手を絡めとるぐらい、簡単にやるんだよ。砂漠の部族連合でも見たし、青の諸島では僕たちが海賊の上前をはねたじゃないか」
「それは」
リネットが統也の腕に抱きつく。
「統也様、仲間の方は素因核の邪気にあてられたようですね。あのようになってはどうにもなりません。力で、討ち取るしかありません」
「殿下、それは」
「統也様、向こうでは私と婚姻の契りを結びましょう。永遠に私のそばにいてくださいませ」
宗光と遊里。リネット。どちらが正しいか、誰が見ても明白だった。
統也も違和感を覚えることはたくさんあった。森の呪術師の話は「海燕の王族こそが、真の破壊者たちである」と暗に示していたし、砂漠の部族連合にあっても、「地獄の道を切り開くために」リネットらが活動していると聞いた。当時はただの中傷と片付けたが、しかしおかげで砂漠では補給が受けにくく、大変苦労した。
ともあれ。理性では誰を信じ、どういった存在を討つべきか、頭に鳴り響くほどに明らかであった。
しかし、リネットの手の柔らかさが、身体のぬくもりが、耳をなでる声が。
「統也様、迷われているのですか、答えは一つしかないというのに」
何かの痛みが腹をえぐり、視界が暗転した。
その痛みはいまも覚えている。忘れるはずがない。
敬愛する人に、これまでの冒険をまるきり覆された痛み。
信じていたものが、足元から一気に崩れ落ちた、めまいのような虚脱。
あの後、宗光らが最後の力を振り絞り、素因核の、まだ残る莫大な魔力を全て行使し、研究していた帰還魔法によって統也を地球世界へ帰した。
宗光らは魔界で残ったリネットと刺し違えるつもりだったようだが、その目論見も外れた。リネットも地球世界へ飛ばされてしまったのだ。
混沌の繋ぎ手たる彼女は、数日後、一一月二二日に真の力を顕現させて、統也を滅ぼさんと戦いを挑む。火山の魔道士が託した予言の石板に、そのことが赤く浮かび上がっている。
あの日の迷いを。仲間たちを裏切りかけた己の弱さを。友人を失った己のふがいなさを。
奇妙な並びの日をもって、力さえ失ったこの聖剣で断ち切る。
覚悟をこめられた剣は、不気味なまでに物寂しい夕陽を映していた。




