第8話 不正の糾弾
セレスティアのお菓子に舌鼓を打ち、あと一歩のところでリディアに邪魔されつつも、アシュトンは領地改革の次なる段階へと駒を進めた。マルコス商会から得た賠償金と、財務官僚から没収した不正蓄財を元手に、いよいよ公共事業の幕が開かれる。
領都の中心広場に集められた領民たちの前で、アシュトンは壇上に立った。彼の傍らにはアルフォンスと、少し緊張した面持ちのセレスティアが控えている。アシュトンの声が、広場に響き渡った。
「領民諸君! この度、我らクレイヴス領は、新たな一歩を踏み出す! 長年放置されてきた道の整備、老朽化した橋の架け替え、そして新しい灌漑設備の建設を行う!」
領民たちの間から、ざわめきと、そしてかすかな期待の声が漏れる。長らく停滞していた領地の発展に、ようやく光が差し込むのだ。
「この事業は、領民諸君の生活を豊かにし、この領地をより強固なものとするためのものだ! そして、この事業には、領民諸君、一人ひとりの力が不可欠である!」
アシュトンは、力強く訴えかけた。その言葉には、前世の俺が抱いていた、より良い社会を築きたいという純粋な願いが込められていた。
しかし、アシュトンの演説はそこで終わらなかった。彼の表情が、一瞬にして厳しくなる。
「だが、この場で、もう一つ、明確にしておかねばならないことがある」
広場に集まった領民たちの顔色が変わる。彼らは、アシュトンが悪名高きクレイヴス伯爵であることを知っている。今、彼が何を言い出すのか、誰もが固唾を飲んで見守った。
アシュトンは、手に持っていた一枚の羊皮紙を高く掲げた。そこには、先日まで彼が調査していた、過去の公共事業における中抜きの実態が詳細に記されていた。
「これを見よ! これらは、これまで領民諸君のために使われるべきであった金銭が、いかに一部の悪しき者たちの私腹を肥やすために奪われてきたかの証拠である!」
アシュトンの言葉に、領民の間から怒りの声が上がった。長年の不満が、爆発するように噴出したのだ。彼らはこれまで自分たちの汗と血税が、いかに無駄にされてきたかを知った。
「私は、先代の伯爵とは違い不正の全てを暴き出し、そして、そのような行為を決して許さない!」
アシュトンは、広場に集まった領民たちの顔を一人ひとり見渡した。そして、彼の瞳に「魔女の力」の光が宿る。その瞬間、広場の一角で、何人かの男たちが顔を青ざめさせ、ガタガタと震え始めた。彼らは、過去の中抜きに関わっていた者たちだった。
アシュトンは、その男たちを指差した。
「そこの者たちよ! 貴様らが、この領地の金を私物化し、領民を欺いてきたことは、もはや隠しようのない事実である! 貴様らの罪は、この目で、この力で、全て暴き出された!」
魔女の力によって、男たちは震えながら、自らの罪を白状し始めた。その生々しい告白に、領民たちの怒りは頂点に達した。
「これより、彼らの私財は全て没収し、公共事業の資金に充てる! そして、彼らには、その罪に相応しい罰を与える!」
アシュトンの断固たる宣言に、広場からは喝采が沸き起こった。不正を徹底的に排除し、領民のために尽くすというアシュトンの姿勢は、彼らの心に深く響いた。
こうして、クレイヴス領の公共事業は、過去の汚点を清算し、新たな時代の幕開けを告げるものとなった。アシュトンは、限られた「魔女の力」を使いながらも、確実に領地を、そしてこの世界を変えようとしていた。
公共事業が着々と進み、領地が活気づく中、セレスティアはアシュトンに新たな提案を持ちかけた。ある日の夕食後、執務室で語り合う二人の間に、いつになく真剣な空気が流れる。
「アシュトン様、わたくしに、もう一つお願いがございます」
セレスティアは、少しばかり緊張した面持ちで切り出した。アシュトンは、彼女の言葉に耳を傾けるように、静かに先を促した。
「領地の中に、女学校を建設してはいただけないでしょうか。そこで、女医を育成したいのです」
アシュトンは、セレスティアの提案に、わずかに目を見開いた。この封建社会において、女性が学問を修め、ましてや医者になるなど、前代未聞の発想だったからだ。
「わたくしが先日倒れた際、男性の医者に診察していただきました。その際、正直に申し上げますと……肌を見られることに、抵抗がございました」
セレスティアは、頬を微かに染めながら、しかしはっきりとした口調で続けた。
「きっと、わたくしと同じように、男性の医者に肌を見られることに抵抗を感じる女性は、この領地には多くいるはずです。女性の体は、やはり女性が診るべきではないでしょうか。それに、女性だからこそ話せる悩みもあると存じます」
セレスティアの言葉は、アシュトンの心に深く響いた。前世の現代社会では、女性医師はごく当たり前の存在だ。むしろ、女性患者の多くが女性医師を望むという状況も珍しくない。この世界の常識では考えられない発想だが、セレスティアの提案は、患者の視点に立った、まさに現代的なニーズを捉えていた。
アシュトンは、セレスティアの瞳をまっすぐに見つめた。
「セレスティア、素晴らしい提案だ」
アシュトンの即答に、セレスティアは驚いたように目を見開いた。彼女は、きっと反対されるか、少なくとも難色を示されると思っていたのだろう。
「この世界では、女性の地位は低い。医者など、男性が就くものだと考えられている。多くの者が、偏見の目で見るだろう」
アシュトンの言葉に、セレスティアの表情に不安の色がよぎる。
「だが、私は知っている。女性が、学問を修め、専門的な知識と技術を身につければ、男性と全く同じ、いや、それ以上に活躍できることを」
アシュトンは、前世の記憶を共有できないセレスティアに、遠い未来の常識を伝えるように語りかけた。
「女性だからと諦める必要などない。このクレイヴス領から、その偏見を変えていこう。セレスティア、お前の提案は、この領地、そしてこの国の未来を、大きく変える可能性を秘めている」
アシュトンの力強い言葉に、セレスティアの顔に、希望に満ちた笑顔が広がった。彼女の瞳は、未来への期待で輝いている。
「ありがとうございます、アシュトン様! わたくし、必ずや、この女学校を成功させてみせます!」
アシュトンは、その小さな手が、この領地の、そしてこの世界の大きな偏見を打ち破る原動力となることを確信した。新たな一歩が、また踏み出された。
城が静寂に包まれる深夜。メイド長のリディアの部屋では、執事のアルフォンスがひっそりと紅茶を淹れていた。日中の喧騒が嘘のように静かな空間で、二人は湯気の立つカップを手に、向かい合って座っていた。
「……アシュトン様も、セレスティア様も、本当に変わられましたな」
先に口を開いたのは、アルフォンスだった。彼の声は、普段の厳格な執事のそれとは異なり、どこか感慨深げに響いた。
「ええ、特に奥様は、嫁いで来られた当初とは別人のようです」
リディアも、静かに同意した。彼女の顔には、珍しく穏やかな笑みが浮かんでいる。
「以前は、常に怯え、ご自身の意見すら口にされることもありませんでした。それが今や、あの素晴らしいお菓子を生み出し、さらには女学校の提言まで……。奥様の献身と聡明さには、ただただ頭が下がります」
アルフォンスは、深く頷いた。
「アシュトン様の変化もまた、驚くべきものがございます。私腹を肥やす者どもを一切許さず、領民のために尽力される姿は、まさに真の領主。何よりも、奥様を心から大切にされているお姿には、胸を打たれます」
「奥様が倒れられた時など、あの伯爵様が、まるで嵐のように駆けつけられましたから」
リディアは、くすりと笑みをこぼした。その言葉に、アルフォンスも小さく微笑む。そして続けた。
「奥様も、アシュトン様の気持ちを知ってから、一層彼に寄り添おうとされています。お互いに支え合って、このクレイヴス領を、きっと良い方向に導いてくださるでしょう」
リディアの瞳には、深い信頼が宿っていた。
「これまで、クレイヴス領は停滞し、未来が見えない日々が続いておりました。それが今や、アシュトン様の御手腕と、セレスティア様の輝かしい才覚によって、まるで新しい血が通い始めたかのように、活気に満ちています」
アルフォンスは、カップの中の紅茶をゆっくりと一口飲む。
「この領地が立ち直っていくのを、こうして間近で見守れることは、忠誠を誓う者として、これ以上の喜びはございません」
「ええ。アシュトン様と奥様なら、きっとこの領地を、いえ、この国をも、より良い場所へと変えてくださる。わたくしどもは、ただひたすらに、お二方をお支えするのみです」
深夜の静寂の中、二人の忠実な使用人は、カップを傾けながら、希望に満ちた未来を静かに見つめていた。アシュトンとセレスティアの二人が築き上げていく新たなクレイヴス領への、確かな期待を胸に。