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第7話 ぎこちない二人

 アシュトンの秘密を知ったセレスティアは、少しでも彼の負担を軽くしたいと願っていた。自分にできること、それは新しい産業の育成だ。屋敷の庭に設けられた試験的な畑で、セレスティアは連日、熱心に商品作物の世話に励んだ。痩せ細った体に鞭打つように、土を耕し、種を蒔き、水をやった。

 しかし、彼女の体は、まだ平均よりも痩せ細っており、体力が十分ではなかった。無理がたたったのだろう。ある日の午後、畑で作業をしていたセレスティアは、突然めまいを感じ、その場に倒れ込んでしまった。


「奥様! 奥様!」


 セレスティアが倒れたという報せは、すぐにアシュトンの元に届いた。執務室で書類に目を通していたアシュトンは、その言葉を聞くや否や、血相を変えてセレスティアの部屋へと駆けつけた。

 部屋のベッドに横たわるセレスティアの顔は、普段以上に蒼白で、額には汗が滲んでいた。傍らには、心配そうに付き添うリディアの姿があった。


「セレスティア! 大丈夫か!?」


 アシュトンがベッドサイドに駆け寄ると、セレスティアはゆっくりと目を開けた。焦点の定まらない瞳がアシュトンを捉え、その唇が微かに動いた。


「アシュトン様……わたくしが、いけないのです……。どうか、誰も、罰しないでください……」


 か細い声で、セレスティアは必死に訴えかけた。彼女は、自分が倒れたことで、誰かが責任を問われ、罰せられることを恐れているようだった。その言葉に、アシュトンの胸は締め付けられた。彼女は、自分を犠牲にしてまで、他者を気遣う。そして、その原因が、他ならぬ自分の秘密を打ち明けたことにあると思うと、アシュトンは深い自責の念に駆られた。

 アシュトンは、セレスティアの細い手をそっと握りしめた。


「馬鹿なことを言うな、セレスティア。お前は何も悪くない。誰かを罰するなど、ありえない」


 アシュトンの言葉に、セレスティアの瞳に安堵の色が浮かんだ。しかし、このままではいけない。彼女の献身的な行動は、アシュトンにとって何よりも嬉しいものだが、それが彼女の体を蝕むようでは本末転倒だ。

 アシュトンは、その場でアルフォンスを呼びつけた。


「アルフォンス。至急、屋敷での休憩に関する新たなルールを策定しろ」


 アルフォンスは、アシュトンのただならぬ雰囲気に、すぐにその意図を察した。


「休憩、でございますか?」


「ああ。労働時間、休憩時間、そして無理な作業を禁じる規定だ。特に、セレスティアには、医師の指示に従い、十分な休養を取らせるように。そして、このルールは、私自身にも適用する」


 アシュトンの言葉に、アルフォンスは驚きを隠せない様子だった。領主自らが、労働規則に従うなど、前代未聞のことだ。


「アシュトン様も、でございますか……?」


「そうだ。私とて、この体は万能ではない。無理をすれば、セレスティアと同じように倒れることもあるだろう。それでは、この領地を立て直すことなどできはしない」


 アシュトンは、セレスティアの蒼白い顔を見つめながら、決意を込めて言った。


「誰もが、心身を健やかに保ち、最大の力を発揮できる環境を整える。それが、このクレイヴス領の新たな方針だ。休憩は、怠惰ではない。より良い仕事をするための、必要な時間なのだ」


 アルフォンスは、アシュトンの言葉に深く頭を下げた。


「かしこまりました、アシュトン様。直ちに、新たなルールを策定し、徹底いたします」


 アシュトンは、アルフォンスが部屋を出ていくのを見送ると、再びセレスティアに視線を戻した。彼女は、まだ少し顔色は悪いものの、安心したように微かに微笑んでいた。


「ありがとう、アシュトン様……」


 その言葉に、アシュトンの胸に温かいものが広がった。彼女の笑顔を守るためなら、どんな困難も乗り越えられる。アシュトンは、そう心に誓った。


――セレスティア視点――


 わたくしが倒れてから数日後。アシュトン様が作られた新しい休憩ルールのおかげで、わたくしはゆっくりと体を休めることができました。まだ本調子ではありませんが、以前よりも体が軽く、心も穏やかになったような気がいたします。

 ある日の午後、リディアがわたくしの髪を梳かしてくださっている時でした。わたくしは、つい先日の一件を思い出し、胸が温かくなるのを感じました。


「リディア、あの時は、アシュトン様に本当にご心配をおかけしてしまいました」


 わたくしの言葉に、リディアは静かに頷きました。


「奥様が倒れられたと聞き、アシュトン様は大変なご様子でございました。執務室から、まるで飛ぶようにして駆けつけられたほどに」


 リディアの言葉に、わたくしの頬が少し熱くなるのを感じました。アシュトン様が、わたくしのために、そんなにも急いでくださったなんて。あの、普段は冷静で威厳のあるアシュトン様が。


「でも……わたくし、とても嬉しかったのです」


 わたくしは、思わず心の底からの本音を漏らしていました。リディアが、少し驚いたようにわたくしを見つめます。


「アシュトン様が、わたくしの元へ、すぐに来てくださったこと。そして、わたくしが『誰も罰しないでください』とお願いした時、すぐに聞き入れてくださったこと。それどころか、屋敷中の誰もがきちんと休めるように、新しいルールまで作ってくださったのです」


 わたくしの声は、弾むように高くなっていました。


「アシュトン様ご自身も、そのルールに従って、お仕事を中断して休憩を取っておられると聞きました。あんなに忙しく、常に領地のことを考えていらっしゃる方が、わたくしのために、ご自身の習慣まで変えてくださるなんて……」


 リディアは、わたくしの言葉に、ふわりと優しい笑みを浮かべました。その表情は、以前よりもずっと、わたくしに寄り添ってくれているように感じられます。


「奥様のおっしゃる通りでございます。アシュトン様は、奥様のことを心から大切に思っておられます。わたくしどもも、そのお姿を拝見し、改めてご当主様の深いお心遣いに触れ、感動いたしました」


 リディアの言葉に、わたくしはさらに胸がいっぱいになりました。アシュトン様は、わたくしにとって、まさに光です。この先の困難な道も、アシュトン様となら、きっと乗り越えていける。そう、確信いたしました。


――セレスティア視点終わり――


 体調がすっかり回復したセレスティアは、新たな活力を胸に、商品作物の試験栽培に一層力を注いでいた。そして、収穫されたばかりの甘い果物や砂糖大根を使って、日夜、新しい試みに挑戦していた。


「アシュトン様、できました!」


 ある日の午後、セレスティアは嬉しそうに、焼き上がったばかりのお菓子をアシュトンの執務室へと運び込んだ。小皿に乗せられたそれは、黄金色に輝く、可愛らしいタルトだった。甘やかな香りが、部屋いっぱいに広がる。

 アシュトンは顔を上げ、セレスティアの手元のお菓子に目を留めた。彼女は、誇らしげに、しかしどこか恥ずかしそうにタルトを差し出す。


「領地で採れた果物と、砂糖大根から作ったお砂糖でございます。どうか、お味見を……」


 アシュトンは一切の躊躇なく、その小さなタルトを口に運んだ。サクッとした生地の食感、口いっぱいに広がる果物の甘酸っぱさ、そしてそれを包み込む柔らかな砂糖の風味。それは、この世界では味わったことのない、洗練された甘さだった。


「……美味い! これは美味いぞ、セレスティア!」


 アシュトンは、思わず感嘆の声を上げた。前世の舌が、その味を「売れる」と確信していた。


「こんな素晴らしいものなら、きっと領地の名産品になる! セレスティア、お前は本当に……!」


 アシュトンは、興奮に任せて、セレスティアの細い両手をそっと包み込んだ。彼女の手は、柔らかく、そして温かい。触れた瞬間に、二人の間に甘く、特別な空気が流れ出した。

 セレスティアは、アシュトンの熱のこもった言葉と、その温かい手の感触に、顔を真っ赤に染めた。二人の視線が絡み合い、互いの鼓動が聞こえるかのような錯覚に陥る。アシュトンの顔が、ゆっくりとセレスティアに近づいてくる。セレスティアもまた、誘われるように、そっと目を閉じた。

 あと、数センチ。触れるか触れないかの距離まで、二人の顔が近づいた、その時だった。


「アシュトン様、奥様。お茶をお持ちいたしました」


 背後から聞こえたのは、メイド長リディアの、いつもの全く感情のこもらない、静かな声だった。

 ハッと目を開けたアシュトンとセレスティアは、まるで熱いものに触れたかのように、慌てて互いの手を離し、勢いよく顔を背けた。アシュトンは咳払いをして、無理やり視線を書類に固定する。セレスティアは、真っ赤になった顔を俯かせ、もはやタルトのことなど頭になかった。

 リディアは、そんな二人の様子には全く気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、いつもと変わらぬ穏やかな表情で、ティーセットをテーブルに置いた。湯気の立つ紅茶の香りが、先ほどまでの甘い空気を一掃していく。

 アシュトンは、ゴホンと不自然に喉を鳴らし、何事もなかったかのように紅茶を手に取った。セレスティアもまた、視線を合わせることなく、俯いたまま小声で「ありがとうございます、リディア」と呟いた。


「あの……このタルトは、その……大変素晴らしい出来だ。今後、生産を拡大していこう」


 アシュトンが、半ば無理やり話題をタルトに戻したが、その声はどこか上ずっていた。セレスティアも、顔を上げずに小さく頷くばかりだった。

 執務室には、紅茶の香りと、気まずい沈黙だけが満ちていた。あと一歩のところで阻まれた二人の距離は、少しだけ、しかし確実に縮まっていた。


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