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第4話 領地改革開始

 マルコス商会から莫大な賠償金を得て、クレイヴス家の財政危機はひとまず去った。借金の重荷から解放されたアシュトンは、安堵の息をつく間もなく、領地の改革に乗り出そうとしていた。しかし、その道のりは決して平坦ではない。


「アシュトン様、まずは領内の無駄を省き、質素倹約を徹底すべきかと存じます」


 いつものように控えめに、しかし領地の行く末を案じるセレスティアが、アシュトンの執務室で提案した。彼女の細い肩には、若くして嫁いだ伯爵夫人としての責任感が、ひっそりと乗っているようだった。

 セレスティアの提案は、この時代の常識からすれば、真っ当なものだろう。しかし、アシュトンの頭の中には、前世で培った「ケインズ経済学」の知識があった。


「セレスティア、その考えはもっともだ。だが、今はその時ではない」


 アシュトンは、傍らに控えるアルフォンスにも視線を向け、ゆっくりと語り始めた。


「例えるなら、領地経済は人体の血液の流れに似ている。倹約は、その血流を止め、滞らせる行為だ。確かに、出血を止める時には必要だが、今のクレイヴス領は、そうではない」


 セレスティアとアルフォンスは、首を傾げた。彼らにとって、アシュトンの言葉はまるで異国の言語のように響く。


「血が滞れば、体は衰弱し、やがて死に至る。今、我々がすべきは、無理にでも血流を活発にすることだ。金を溜め込むのではなく、領地の中にどんどん循環させる必要がある」


 アシュトンは、言葉を選びながら、ケインズ経済学の基本を彼らに説明した。


「具体的には公共事業を行う。荒れた道を整備し、新しい橋をかけ、灌漑設備を整える。そうすれば、領民には仕事が生まれ、彼らは賃金を得る。その賃金で彼らは物を買い、また別の者が潤う。そうして金が回り、領地全体が活性化するのだ」


 アシュトンの言葉は、彼らにとってはまさに目から鱗だった。倹約こそが美徳とされてきたこの世界で、金を積極的に使うことで経済を活性化させるという発想は、新鮮な驚きだった。

 セレスティアの瞳が、わずかながら輝いた。彼女は、アシュトンの言葉に、漠然とした希望を見出したようだった。


「公共事業ですか……それは、素晴らしい考えです、アシュトン様!」


 アルフォンスもまた、深く感銘を受けたように頷いた。


「アシュトン様のお考えは、私の浅はかな知識では及びもつかぬものでございます。まさしく、領主の器……」


 アシュトンは、彼らの反応に内心安堵した。ケインズ経済学の知識が、この異世界で通用するとは。これで、領地改革の第一歩を踏み出すことができる。しかし、この先も、前世の知識がどこまで通用するのか、そして「魔女の力」の秘密、さらにセレスティアとの関係など、アシュトンの頭の中には、まだまだ多くの課題が渦巻いていた。



――セレスティア視点――


 クレイヴス伯爵家の財政危機が去り、アシュトン様が提唱された公共事業とやらで、領地はにわかに活気づいてまいりました。城内でも今後の領地運営について様々な議論が交わされるようになり、わたくし、セレスティアも、わずかながらその場に同席させていただく機会が増えました。

 ある日の午後、わたくしは自室でメイド長のリディアと向き合っておりました。三十代半ばと伺うリディアは、アルフォンスと同じく真面目で忠誠心がお高く、常に冷静沈着な方です。わたくしがこの城に嫁いで以来、ずっと身の回りのお世話をしてくださっていますが、心の距離は埋まらぬままでした。それも当然でしょう。わたくしは「あの」クレイヴス伯爵家に嫁いだ身。警戒されるのは仕方のないことです。

 しかし、最近のアシュトン様の変化は、リディアも感じておられるはずです。


「……リディア」


 わたくしは、意を決して、切り出しました。


「アシュトン様は……変わりなさいましたね」


 リディアは、いつものように感情をあまり表に出さず、しかし、わたくしの言葉に僅かに目を伏せました。


「左様でございますか」


 その短い返答に、わたくしは少しだけ安堵しました。彼女も、わたくしと同じように感じている。


「わたくし、最初は、あの……大変恐ろしかったのです」


 唇を噛み締めながら、わたくしは正直な気持ちを打ち明けました。城に嫁ぐ前、クレイヴス伯爵家がいかに冷酷非道であるか、アシュトン様がいかに悪名高い領主であるか、耳にタコができるほど聞かされておりました。特に、二人きりで神への誓いを立てると仰せつかった夜は、何をされるのかと、心臓が張り裂けそうでした。


「しかし、アシュトン様は……わたくしを幸せにすると、仰ってくださった」


 あの時の、アシュトン様の辿々しい、しかし真剣な眼差しを思い出すと、今でも胸が締め付けられます。


「それに、マルコス商会の件も……。わたくし、ただ調度品を売るくらいしか思いつきませんでしたのに、アシュトン様は、贋作であることを暴き、莫大な賠償金を得られた。わたくしの浅はかな考えでは、とても思い至りません」


 リディアは、静かにわたくしの言葉に耳を傾けてくださっています。その視線が、以前よりも少しだけ、優しくなったような気がしました。


「そして、領地の改革についても……公共事業とやらで、領民に仕事を与え、金銭を循環させるのだと。倹約をよしとするわたくしには、想像もつかない発想でした。まるで、この国の未来を見通しておられるかのようです」


 わたくしは、両手を膝の上でぎゅっと握りしめました。


「事前に聞いていた情報では悪名高いクレイヴス家のご当主が、これほどまでに領民のことを、そしてわたくしを……気遣ってくださるとは。正直、今でも信じられない気持ちでいっぱいです。アシュトン様は、本当に賢明な方なのだと、わたくしはそう思います」


 リディアは、わたくしの言葉を聞き終えると、小さく息を吐かれ、初めて明確な感情を顔に浮かべました。それは、安堵と、かすかな笑みでした。


「奥様のおっしゃる通りでございます。アシュトン様は、以前とは全く別人のように、素晴らしいご手腕を発揮されております。わたくしも、この目でその変化を目の当たりにし、深く感銘を受けております」


 リディアの言葉に、わたくしの心に温かいものが広がりました。この城に来て初めて、本心を打ち明け、そして共感してもらえた。それが、どれほど心強いことか。


「この先、アシュトン様は、きっとこのクレイヴス領を、いえ、この国をも変えていかれるお方でしょう。わたくしは、そう信じております」


 リディアの力強い言葉に、わたくしは深く頷きました。まだ不安がないわけではありません。しかし、アシュトン様となら、この困難な時代を乗り越えていけるかもしれない。そんな希望が、わたくしの胸に芽生え始めていました。


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