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第20話 自己犠牲

 セレスティアの魂からの願いが、静寂な庭に響き渡ったその時、空間が歪むように揺らめき、木々の影が深まる中で、深淵の森の魔女が姿を現した。彼女の瞳は、夜の闇のように深く、その声は、森の囁きのように神秘的だった。


「おお、愚かな人間よ。命を差し出すとは、軽々しく口にするものではない。しかし、お前の願いは、まことか?」


 セレスティアは、震えながらも顔を上げ、魔女の瞳をまっすぐに見つめた。


「はい……! どうか、アシュトン様を、お助けください! わたくしの命と引き換えに……!」


 魔女は、セレスティアの切なる願いを受け止めると、無言で手をかざした。すると、セレスティアの目の前に、幻影が浮かび上がった。それは、病に倒れ伏しているはずのアシュトンの姿だった。

 しかし、そのアシュトンは、執務室で誰かと対峙している。その相手は、まさかのローゼンバーグ子爵。セレスティアの叔父であり、かつての苛めの記憶を呼び覚ます、あの男だ。

 子爵は、見るからに疲弊した様子で、アシュトンに頭を下げていた。


「アシュトン伯爵閣下……どうか、我々ローゼンバーグ子爵領に、ご支援を賜りたく……。干魃の被害は甚大で、国も度重なる戦争で疲弊し、もはや支援は期待できません。どうか、親族であるクレイヴス伯爵閣下のお力添えを……」


 幻影のアシュトンは、蒼白な顔色ながらも、毅然とした態度で子爵の言葉を聞いていた。彼は、咳き込みそうになるのを必死に堪えている。セレスティアは、胸が締め付けられる思いでその光景を見ていた。アシュトンは、こんな体調でまで、ローゼンバーグ子爵と対峙していたのか。

 そして、アシュトンの言葉が聞こえてくる。


「ローゼンバーグ子爵殿。貴殿の窮状は理解した」


 アシュトンの瞳が、一瞬、深く輝いた。魔女の力が発動したのだ。その光景を、セレスティアは思わず息を呑んで見守った。アシュトンは、子爵の内心を読み取ったのだろう。


「だが、貴殿が私腹を肥やし、領民のために私財を投じるつもりがないことも、この目で見抜いた」


 アシュトンの冷たい声が響く。ゲイルを自白させた時と同じ、容赦ない響きだった。ローゼンバーグ子爵の顔は、みるみるうちに青ざめていく。


「よって、貴殿には二度とこのクレイヴス領に足を踏み入れることを禁ずる。そして、残された私財の全てを投げ打ち、貴殿の領民を救済することを、今ここで私に誓え。さもなくば、貴殿の不正を全て公にすることになるだろう」


 ローゼンバーグ子爵は、震えながら、アシュトンの要求をすべて受け入れた。アシュトンは、自らの命を削りながらも、セレスティアとの約束を守るため、彼女を関わらせることなく、一人で忌まわしい過去との決着をつけていたのだ。

 幻影が消え、魔女はセレスティアの前に再び静かに立っていた。彼女は、地面に落ちた枯れ葉の中から、ふわりと数枚の葉を掴み上げると、それをセレスティアの目の前に差し出した。


「見たか、人間よ。お前の愛する者は、常に己を犠牲にし、誰かのためにその命を燃やしている。そして、お前がその身を投げ出そうとする先に、彼は既に、お前のために戦っていたのだ」


 魔女の言葉は、セレスティアの心に深く刻まれた。アシュトンは、自分が知らないところで、これほどまで過酷な状況と戦い続けていた。そして、彼女のために、その憎むべき相手と対峙し、勝利していたのだ。

 セレスティアは、差し出された葉を震える手で受け取った。それは、アシュトンの命の証。この葉が、アシュトンの命の残りを意味する。彼の命は、決して枯れ果てていなかった。

 魔女は、セレスティアに差し出した葉を宙に浮かべたまま、その深遠な瞳で彼女を見据えた。


「お前の愛は、確かに真実のようだな。だが、口先だけではないと証明できるか?」


 魔女の声は、森の奥底から響くように、セレスティアの心に直接語りかけた。


「アシュトンを救う道は、確かに存在する。しかし、その代償は、お前が想像する以上に重い」


 セレスティアは、固唾を飲んで魔女の言葉を待った。どんな代償であろうと、アシュトンを救えるのなら、喜んで受け入れる覚悟だった。


「アシュトンは助かるだろう。だが、その代わり、お前は両目を差し出せ。二度と、その顔を見ることは叶わぬ。それでも良いか?」


 魔女の言葉に、セレスティアの心臓が大きく跳ねた。両目。アシュトンの顔を、もう二度と見ることができない。彼の笑顔も、苦悩の表情も、優しい眼差しも、全てが永遠に闇に包まれる。

 しかし、セレスティアの迷いは、一瞬たりともなかった。


「それで……それで良ければ、すぐにでも……!」


 セレスティアは、震える声で、しかし迷いなく即答した。アシュトンが生きているのなら、彼の顔が見えなくとも、彼の存在を感じられるのなら、それで十分だった。

 魔女はその答えに微かに口元を緩めると、セレスティアの顔にそっと手を掛けた。その指先が、セレスティアの瞳に触れる。


「……良い目だ。嘘偽りのない、まっすぐな光を宿している」


 魔女はそう言って、セレスティアの顔から手を離した。セレスティアは恐る恐る目を開けた。視界は、変わらずそこにあった。闇に包まれることはなかった。


「これは、お前への試練だ。口先だけでない、真の覚悟があるか、試させてもらった」


 魔女の声には、どこか満足げな響きがあった。


「お前の願いは、確かに届いた。そして、お前は試練を乗り越えた。故に、報酬を与えよう」


 魔女は再び宙に浮いていた葉をセレスティアに差し出した。しかし、それは先ほどとは異なり、どこか生命力を帯びているように見えた。


「盟約の抜け道は、至って単純だ。あの盟約は、クレイヴス家の**『当主』にのみ有効**。そして、『当主の交代』は、必ずしも『死』によってのみ決まるわけではない」


 魔女の言葉に、セレスティアの頭の中で、電撃が走ったような衝撃が走った。当主の交代。死によらずとも、当主は変われる。


「つまり……アシュトンが、当主の座を退けば……」


 セレスティアの目に、希望の光が宿った。


「その通りだ。当主の座を譲れば、盟約は次の当主に移る。そして、お前がアシュトンを救うために己の命を差し出そうとしたように、その愛が真実であるならば、盟約もまた、形を変えるだろう」


 魔女は、それ以上は語らなかった。だが、セレスティアには、その言葉の真意がはっきりと理解できた。


アシュトンを救う道は、ここにあったのだ。


セレスティアは、魔女に深く頭を下げた。感謝の言葉を述べる間も惜しみ、彼女はくるりと踵を返した。


「アシュトン様!」


セレスティアは、庭を飛び出し、アシュトンが横たわる部屋へと、一心不乱に駆け出した。その足取りは、かつての病弱な彼女からは想像もできないほど、力強く、希望に満ち溢れていた。


 隣国を退け、満身創痍で帰還したアシュトンは、その日から寝台に伏せっていた。体は鉛のように重く、意識は朦朧とし、激しい咳が止まらない。庭の「命の木」に残された葉は、ついに五枚。その事実が、アシュトンの心を深く蝕んでいた。

 そして、ローゼンバーグ子爵に対してまたしても力をつかってしまった。

 アシュトンは意識がはっきりとした隙に、枕元に置かれた羊皮紙とペンに手を伸ばした。震える指でペンを握り、ゆっくりと文字を綴り始める。それは、万が一の時に備えての遺言だった。


「クレイヴス領は、セレスティアに……」


 書き始めようとして、ペンが止まった。セレスティア。彼女の顔が脳裏に浮かぶ。健気で、優しくて、そして何よりも、自分を深く愛してくれた妻。彼女を残して、逝ってしまうのか。


「……女学校は、引き続き支援し、領民の生活は……」


 次々と、領地の未来、そして愛する者たちの顔が浮かんでくる。これまで、領主として、夫として、必死に守り、築き上げてきたもの。それが、自分の死と共に、どうなってしまうのか。


「死にたくない……」


 アシュトンの口から、嗚咽が漏れた。その声は、弱々しく、今にも消え入りそうだった。


 彼は、これまで幾度となく死の淵を覗いてきた。ゲームの知識を活かし、運命に抗い、多くの命を救ってきた。しかし、今、自分の命が、まさに尽きようとしている。


「まだ、やりたいことが、たくさんあるのに……」


 セレスティアと共に、この領地をさらに豊かにしたかった。彼女と、子供を授かり、温かい家庭を築きたかった。あの「命の木」の呪縛から解放され、平穏な日々を送ることを夢見ていた。

 しかし、残された葉は、たったの四枚。

 アシュトンは、羊皮紙の上に顔を伏せ、肩を震わせた。体は高熱にうなされ、息をするのも苦しい。だが、それ以上に、死への恐怖と、愛する者を残していくことへの絶望が、彼の心を締め付けていた。


「セレスティア……」


 彼の口から、愛しい妻の名が、か細く紡がれた。


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