第18話 大災害
クレイヴス領が順調に繁栄の道を歩むある日、アシュトンは執務室で書類に目を通しながら、ふと、前世のゲーム『隷属の檻庭』の記憶を鮮明に思い出した。それは、ゲーム内における三年目の出来事。
領地、いや、この国の西部一帯を未曾有の干魃が襲うというものだった。そして、その干魃によって税収が激減したことに腹を立てたアシュトン(ゲーム内の伯爵)が、その腹いせにセレスティアを地下の調教部屋でさらに過酷に「調教」するという、おぞましい内容だった。この頃のセレスティアは、精神的に壊れる寸前まで追い詰められていたはずだ。
その記憶が脳裏に蘇った瞬間、アシュトンの胃の腑から込み上げるような吐き気がした。あのセレスティアが、そんな目に遭うなど。想像するだけで、全身の血の気が引いていく。
「くそっ……!」
アシュトンは、思わず机を叩いた。あの忌まわしい記憶が、現実のセレスティアと重なり、彼の心を深く抉る。
しばらくして気分が落ち着くと、アシュトンは冷静に状況を分析した。ゲームの出来事が、これまでも現実で再現されてきたことを考えれば、この干魃もまた、現実となる可能性が高い。
アシュトンは、すぐにアルフォンスを呼びつけた。
「アルフォンス。至急、領内の水利状況を調査させろ。特に、西部地域の水源と、灌漑設備の現状を詳しく調べて報告させよ」
アルフォンスは、アシュトンのただならぬ雰囲気に、何か異変を感じ取ったようだった。
「アシュトン様、何かございましたか?」
アシュトンは、一瞬ためらったが、真実を伝えることにした。この危機を乗り越えるには、アルフォンスの協力が不可欠だからだ。
「これは……魔女の予知夢だと思ってくれて構わない」
アシュトンの言葉に、アルフォンスは目を見開いた。魔女の予知夢。それは、この世界では古くから語り継がれる、不吉な予兆を意味する言葉だ。
「近い将来、この国の西部一帯を、大規模な干魃が襲うだろう。クレイヴス領も、その影響を免れない」
アシュトンの声には、確信がこもっていた。
「よって、直ちに干魃への備えを始めろ。井戸の掘削、貯水池の増設、そして、灌漑設備のさらなる強化。食料の備蓄も怠るな」
アルフォンスは、アシュトンの言葉に、最初は困惑の色を浮かべていたが、その真剣な眼差しと、これまでのアシュトンの実績を思い出し、すぐにその指示の重みを理解した。
「かしこまりました、アシュトン様。直ちに、全ての部署に指示を出し、干魃への備えを進めさせます」
アルフォンスは、深く頭を下げた。アシュトンは、迫りくる危機を前に、再びその知恵と力を振り絞ろうとしていた。セレスティアを、そして領民を、あの悪夢のような干魃から守るために。
アシュトンの予知夢が、最悪の形で現実となった。
彼が干魃への備えを指示してから数ヶ月後、まず領地全体を激しい揺れが襲った。それは、この地域では経験したことのない規模の巨大地震だった。城は堅牢にできていたため大きな被害はなかったが、各地で家屋が倒壊し、地割れが発生したという報告が次々と寄せられた。
そして、地震がもたらしたのは、建物の被害だけではなかった。
地震の数日後、西部地域から届く報告は絶望的なものだった。これまで、かろうじて水を供給していた川が干上がり、井戸の水位も急激に低下しているというのだ。アシュトンが命じていた井戸の掘削や貯水池の増設は間に合わず、多くの地域で水が完全に枯渇してしまった。
地震によって川の流れと地下水の流れが根本的に変わってしまったのだ。アシュトンの予知夢は、単なる干魃だったが、現実の災害はそれを上回る規模で襲いかかった。彼の準備は、この予期せぬ複合災害の前には、あまりにも微力だった。
作物は枯れ果て、家畜は次々と倒れていく。そして、飲み水すら手に入らなくなった農村から、人々が食料と水を求めて移動を始めた。日に日に、クレイヴス領の中心へと押し寄せる大量の難民が発生したのである。
痩せ細り、疲弊しきった難民たちの群れは、飢えと渇きに苦しみ、混乱と絶望を撒き散らしながら、町の門へと押し寄せた。彼らの目には、故郷を失い、未来への希望を失った深い悲しみが宿っていた。
アシュトンは、城の窓から押し寄せる難民の群れを呆然と見下ろしていた。彼は最善を尽くしたつもりだった。しかし、現実は、ゲームの記憶すらも上回る苛酷さで、彼の前に立ちはだかったのだ。
アシュトンの事前の備えは、確かにクレイヴス領の壊滅を防いだ。しかし、それはあくまで「壊滅」を免れたに過ぎない。流入する大量の難民と、限りある資源を守ろうとする従来の住民との間で、各地で激しい衝突が発生した。食料や水を巡る争い、住居の奪い合い、そしてそれに乗じた略奪行為。領内は、混乱の渦に飲み込まれていった。
アシュトンは、この混乱を収めるため、自ら最前線に立ち、その「魔女の力」を何度も使った。暴徒と化した群衆の心を鎮め、争いを止めさせ、秩序を取り戻す。その度に、彼の瞳は深淵のような輝きを放った。
その頃、城の庭に立つ「命の木」は、静かに、しかし確実にその葉を失っていった。
セレスティアは、アシュトンが魔女の力を使うたびに、庭へと駆けつけ、地面に舞い落ちた葉を拾い集めた。一枚、また一枚と、その数は増えていく。
そして、ついにその数は五十枚を優に超えていた。
落ちる葉の数に比例するように、アシュトンの体調は悪化していった。顔色は蒼白になり、咳き込む回数が増え、時折、激しい痛みに顔を歪める。それでも、彼は休むことを許さなかった。混乱する領民を前に、自分が倒れるわけにはいかないと、その身を削り続けていた。
セレスティアは、そんなアシュトンを見るたびに、胸が張り裂けそうになった。彼を止めたい。これ以上、あの危険な力を使わせたくない。しかし、彼女には、どうすることもできなかった。
アシュトンが力を使い、混乱を鎮めるたびに、領民たちの命が救われる。しかし、その代償として、アシュトンの命が削られていく。セレスティアは、そのジレンマの中で、ただ悲痛な面持ちで、落ちた葉を拾い続けるしかなかった。
「アシュトン様……」
彼女の呟きは、誰にも届くことなく、静かに空気に溶けていった。