第16話 地下室にて
領地の改革が順調に進むある日のこと。アシュトンは城の地下深くにある、ほとんど使われていない部屋の存在を思い出した。前世のゲーム『隷属の檻庭』の記憶が、その部屋の用途を囁く。嫌な予感がしながらも、アシュトンはアルフォンスに命じてその部屋を開けさせた。
重い扉の向こうに広がっていたのは、まさにゲームの記憶通りの光景だった。壁には様々な形状の拘束具、鎖、そして、おぞましい形をした「調教」のための器具の数々が並べられていた。それは、セレスティアを精神的、肉体的に追い詰めるためだけに用意された、悪趣味なコレクションだ。
「……こんなものが」
アシュトンは、吐き気を覚えながら、そこに置かれた器具の一つを足で蹴飛ばした。この部屋の存在そのものが、彼の怒りを掻き立てる。
「アルフォンス、この部屋にあるもの全て、すぐに処分しろ。一つ残らず、燃やしてしまえ」
アシュトンは、二度とこの部屋が使われることのないよう、徹底的な処分を命じた。彼の心の中には、セレスティアをこんな目に遭わせたであろう前のアシュトンに対する、強い嫌悪感が渦巻いていた。
その時だった。急ぎ足でアルフォンスが戻ってきた。
「アシュトン様、緊急のご報告が。来客でございます」
アシュトンは眉をひそめた。このタイミングで一体誰が。
「ローゼンバーグ子爵家の馬車にて、客人がいらっしゃいました。セレスティア様の従姉妹にあたる、リリア様と名乗っておられます」
アルフォンスの言葉に、アシュトンは内心で舌打ちした。ローゼンバーグ子爵家。セレスティアの故郷であり、彼女の叔父が強引に乗っ取ったという家だ。そこに、よりにもよってその叔父の娘、リリアが来たという。
アシュトンはこの知らせをセレスティアに伝えるため、彼女の部屋へと向かった。エンパイア・クラウンの棋譜を広げていたセレスティアは、アシュトンの顔を見るなり、彼の纏うただならぬ空気を察したようだった。
「セレスティア、来客の知らせだ」
アシュトンがそう切り出すと、セレスティアは首を傾げた。
「ローゼンバーグ子爵家から、リリアという者が来た」
その名前を聞いた瞬間、セレスティアの顔はみるみるうちに青ざめ、その華奢な体が激しく震えだした。手から棋譜が滑り落ち、カタリと音を立てる。彼女の瞳には、恐怖と、深い嫌悪の色が浮かんでいた。
「リリア……あ、あの女が……なぜ……」
セレスティアは、何かに怯えるかのように、両腕で自分を抱きしめた。その姿は、まるで過去の過酷な苛めが、今、目の前で再現されているかのようだった。ゲームの記憶がアシュトンの脳裏をよぎる。リリアはセレスティアを蔑み、精神的に追い詰める嫌がらせを繰り返していたのだ。
アシュトンは、セレスティアの震える姿を見て、胸に強い怒りがこみ上げた。二度と彼女を傷つけさせはしない。
アシュトンは、セレスティアの傍に寄り添い、優しく、しかし毅然とした口調で言った。
「セレスティア、大丈夫だ。会う必要はない。私が一人で対応しよう。君は、何も心配しなくていい」
セレスティアは、アシュトンの言葉に、微かに顔を上げた。彼女の瞳には、まだ恐怖の色が残っていたが、アシュトンの強い決意を感じ取ったようだった。
応接室に通されたリリアは、アシュトンの記憶にあるゲームの姿よりも、はるかに見苦しく肥え太っていた。まるで豚のような体躯に、下卑た笑みを浮かべた顔。その目に宿る嫌らしい光は、セレスティアの従姉妹というよりも、欲望の塊そのものだった。
リリアは、アシュトンの隣にセレスティアがいないことに気づくと、露骨に顔をしかめた。
「あら、ご自慢の従妹さんはいないのかしら? 病気? それとも、醜いから隠してるの?」
彼女の口から飛び出す言葉は、相変わらずセレスティアを蔑むものだった。アシュトンの脳裏に、リリアの名を聞いて震え上がったセレスティアの顔が鮮明に蘇る。この醜悪な女は、セレスティアから奪った全てを享受しながら、今もなお、彼女を侮辱しようとしている。アシュトンの怒りが、静かに、しかし確実に燃え上がった。
「さて、単刀直入に申し上げますわ、アシュトン伯爵様。このグレイヴス領は、貴方様の手腕で目覚ましい復興を遂げつつあると聞きました。素晴らしいことですわ」
リリアは、ねっとりとした視線でアシュトンを品定めするように眺め、口元に笑みを浮かべた。
「そこで、ご提案ですわ。貴方様には、この私、リリアと結婚していただきたいの。病弱で役立たずの従妹なんぞより、よほどこの私が、伯爵夫人に相応しいでしょう?」
厚顔無恥な提案に、アシュトンの表情から一切の感情が消えた。セレスティアからすべてを奪い、今度は彼女の夫まで奪おうとする。そのあまりにも傲慢な態度に、アシュトンの怒りは頂点に達した。
ただ断るだけでは、この女は諦めないだろう。そして、何よりも、セレスティアの心に深く刻まれた傷を思い出すと、アシュトンは彼女に相応しい「報い」を与えたくなった。
アシュトンは、ゆっくりと立ち上がった。
「なるほど。この私と結婚し、伯爵夫人になりたいと」
アシュトンの言葉に、リリアは下卑た笑みを深めた。彼女は、アシュトンが提案を受け入れるものと確信したようだった。
「結構だ。だが、私の妻となる者には、一つだけ、受け継がなければならない『務め』がある」
アシュトンは、リリアに背を向け、応接室の奥へと歩き出した。リリアは、アシュトンの言葉に不審な表情を浮かべながらも、その後に続いた。案内されたのは、薄暗い地下へと続く階段。不気味な空気が漂うその階段を降りていくと、目の前に現れたのは、先日アシュトンが発見し、まだ完全に片付けられていなかった調教部屋だった。
リリアは、部屋に並べられたおぞましい器具の数々を目にし、一瞬たじろいだ。
アシュトンは、部屋の中央で立ち止まり、冷たい視線でリリアを振り返った。彼の声は、底冷えするほど静かだった。
「私の妻……セレスティアは、毎日この部屋で、私によって調教を受けている」
リリアの顔から、みるみる血の気が引いていく。その場に立ちすくみ、言葉を失っている。
「彼女は、私の意のままになるよう、ここで精神と肉体を徹底的に鍛え上げられた。そして、今もなお、その調教は続いている」
アシュトンは、壁にかけられた拘束具の一つを指し示し、口元に微かな、しかしおぞましい笑みを浮かべた。
「お前は、セレスティアの代わりに私の妻となる。ならば、この部屋での『務め』も、当然お前が引き継ぐことになるだろう。明日から、ここで毎日、セレスティアの続きをお前がやってくれるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、リリアは恐怖に顔を引きつらせ、その場に崩れ落ちた。肥大した体が、小刻みに震えている。彼女の目には、アシュトンが悪魔のように映っていることだろう。
「ひぃっ……! な、何を……わ、わたくしは……!」
リリアは、醜い悲鳴を上げながら、部屋の奥へと後ずさった。アシュトンの冷徹な視線から逃れるように必死にもがく。
アシュトンは、追い打ちをかけるように、さらに冷たく言い放った。
「さあ、返事をしろ、リリア。お前が私の妻となり、セレスティアの務めを引き継ぐのだな?」
「い、いやあああああ! い、嫌です! 嫌ですわ! 帰ります! 今すぐ帰らせてください!」
リリアは、顔面蒼白で這うようにして、来た道を引き返した。その足はもつれ、階段を駆け上がる途中で何度も転びそうになった。
アシュトンは、その醜悪な背中を冷たく見送った。彼の胸に、一抹の満足感が広がった。セレスティアが味わった苦しみを、ほんのわずかでもこの女に味合わせることができたなら。
リリアは、二度とクレイヴス領に足を踏み入れることはないだろうという確信があった。
リリアを追い返した後、アシュトンはセレスティアの元へと戻った。まだ顔色を青ざめさせ、震えが止まらないセレスティアを見て、アシュトンの胸は締め付けられた。
「セレスティア、落ち着いてくれ。もう大丈夫だ」
アシュトンは、セレスティアの傍らに座り、優しく語りかけた。
「ローゼンバーグ子爵家から来たリリアは、君の代わりに私と結婚し、クレイヴス伯爵夫人の座を奪おうとしていた」
セレスティアの体が、びくりと震えた。彼女の従姉妹が、そこまで醜い野心を持っていたことに、改めて心を痛めているようだった。
「だが、心配はいらない。奴は、もう二度とこのクレイヴス領には足を踏み入れまい。私が、二度と君の前に姿を現せないように、追い返した」
アシュトンは、リリアを追い返した詳細な経緯――特に調教部屋のことは伏せ、彼女が二度と近寄れないように脅しをかけたことだけを簡潔に伝えた。セレスティアの心に余計な恐怖を植え付けたくなかったのだ。
アシュトンの言葉を聞くうちに、セレスティアの震えは少しずつ収まっていった。彼女の瞳に宿っていた恐怖の色が薄れ、代わりに、安堵と、そしてアシュトンへの感謝の光が浮かんだ。
「アシュトン様……わたくしのために、また……」
セレスティアは、震える声で、しかしはっきりと口にした。
「わたくしが、至らぬばかりに……アシュトン様に、またご迷惑を、そして、醜い者との対峙までさせてしまい……本当に、申し訳ございませんでした」
セレスティアは、深く頭を下げた。アシュトンが、自分のために、また危険な目に遭わせてしまったと、自分を責めているようだった。
アシュトンは、セレスティアの細い肩にそっと手を置いた。
「違う、セレスティア。謝るのは私の方だ」
アシュトンは、まっすぐセレスティアの瞳を見つめた。
「君の過去に、あのような辛い経験があったと知りながら、その心の傷に対する配慮が、私には足りなかった。リリアのような醜い人間と、君を関わらせてしまったこと、深く反省している」
アシュトンの言葉は、心からのものだった。彼は、セレスティアの過去の苦しみを初めて具体的に知り、その上で、彼女の恐怖を軽く見ていた自分を恥じていた。
「二度と、君をあのような者と関わらせはしない。ローゼンバーグ子爵家とは、今後一切、縁を切る。君に、不快な思いをさせるような者は、何人もクレイヴス領には入れさせない」
アシュトンの力強く、そして優しい約束に、セレスティアは涙をこぼした。それは、恐怖や悲しみからではなく、深い安堵と、アシュトンへの信頼からくる涙だった。彼女は、この城で、この人の隣でなら、本当に安心して暮らせるのだと、心の底から感じた。