第1話 悪役領主に転生
目が覚めると、見慣れない天井があった。
いや、見慣れないどころではない。豪華絢爛な天蓋付きのベッド、深紅のカーテン、そして窓の外に見えるのは、自分が住んでいたボロアパートとはかけ離れた、石造りの立派な城壁と、どこまでも広がる見知らぬ森。
俺――いや、俺だったはずの「彼」は、混乱の極みにいた。昨夜は、相変わらずのブラック企業の残業で終電を逃し、終いには職務中に意識が飛んだはずだ。それがどうして、こんな場所に。
「……夢、か?」
思わず呟いた声は、やけに響く。そして、その声が、自分のものとは思えないほど低く、響くことに気づき、心臓が跳ね上がった。慌てて手を持ち上げる。骨ばっていて、しかし力強く、自分のものではないような、見慣れない手。
跳ね起きてベッドサイドの磨りガラスの鏡に映った自分を見て、呼吸が止まった。そこにいたのは、疲弊しきった俺とは似ても似つかない、精悍な顔つきの男だった。鋭い眼光、整った顔立ち、そして何より、見るからに「悪役」といった雰囲気の威圧感。
「――嘘だろ……」
頭の中に、見覚えのない情報が怒涛のように流れ込んできた。
「アシュトン・クレイヴス」
それが、この肉体の名前だという。そして、ここは彼の居城「クレイヴス城」。さらには、このアシュトンという男が、自分が昨夜、気分転換にと少しだけプレイした同人ゲーム、『隷属の檻庭』における主人公、他ならぬその人だというのだ。
『隷属の檻庭』。そう、あのゲームは、ただひたすらに非道な領主アシュトンが、嫁いできたばかりのヒロイン、セレスティアを凌辱する、それだけの内容だった。ろくにストーリーもなく、ただただ胸糞の悪い展開が続く、まさに「鬼畜」と称されるにふさわしいゲーム。
まさか、あのゲームの世界に、あの悪役領主、アシュトンに、自分が転生したとでも言うのか?
就職氷河期世代のどん底を経験し、恋愛の一つもしたことのない、冴えないアラフィフ男性だったはずの俺が。
「冗談だろ……頼むから、夢だと言ってくれ……」
しかし、触れるものすべてがリアルで、肌を撫でる空気も、聞こえる鳥の声も、あまりにも鮮明だった。これは夢などではない。
俺は、あの悪役領主、アシュトンになってしまったのだ。
そして、脳裏に一つのシーンがフラッシュバックする。ゲームの冒頭、グレイヴス城に嫁いでくる、ガリガリに痩せた可憐な少女の姿が。
セレスティア・ローゼンバーグ。
彼女が、もうすぐこの城に到着する。そして、ゲームのシナリオ通りなら、彼女は……。
全身を悪寒が駆け巡った。
アシュトンとなってしまった生活になれようとする混乱の日々の中、一報が届いた。
クレイヴス伯爵夫妻、馬車の事故により逝去。
クレイヴス伯爵。それは、アシュトンの実の親だった。ゲームでは、ほとんど語られることのなかった存在。そして、その訃報がもたらされたのは、奇しくもセレスティアが嫁いでくる日と同じだった。
葬儀の準備に追われる城は、普段の重苦しい雰囲気とは異なり、どこか張り詰めた空気が漂っていた。俺もアシュトンとして、喪主の務めを果たさなければならない。しかし、実の親ではない「彼ら」の死に、心から悲しむことはできなかった。ただ、淡々と指示を出し、形式的な弔問客の応対をこなしていく。
そして、葬儀が執り行われる日。城の広間は、弔問客でごった返していた。黒い喪服に身を包んだ貴族たちが、次々と俺に哀悼の意を述べる。彼らの顔は、どこか形式的で、むしろ俺の様子を探るような視線を送ってくる者もいた。
そんな中、ひときわ目を引く馬車が城門に到着したと、報せが入った。
「ローゼンバーグ子爵家ご一行様、お着きになられました!」
その声に、俺の心臓が不規則なリズムを刻み始めた。ローゼンバーグ子爵家。そこに、彼女がいる。
広間の扉が開き、現れたのは、ひどく痩せ細った少女だった。純白のドレスは、彼女の華奢な体をさらに強調し、まるで子供が大人びた衣装を無理やり着せられているかのようだ。長い銀色の髪は艶を失い、蒼白い顔には疲れと不安が色濃く浮かんでいた。
セレスティア・ローゼンバーグ。
その姿を見た瞬間、俺の脳裏に、まるで電流が走ったかのような衝撃が走った。
「っ……!」
頭の中に、無数のイメージが洪水のように押し寄せる。それは、数日前にプレイしたばかりの、あの同人ゲームの画面だった。
『隷属の檻庭』。
ガリガリに痩せたセレスティアが、アシュトンにひざまずき、涙を流すシーン。
選択肢は常に一つ。「屈服させる」。
ひたすらに蹂躙され、尊厳を奪われていくセレスティアの姿。喘ぎ、泣き、そして抵抗する力すら失っていく彼女の、痛ましい姿。
――そうだ、このゲームは、セレスティアを徹底的に打ちのめすだけの、狂ったゲームだった。
そして、そのゲームの主人公である「アシュトン」が、今の俺だ。
あの時、画面越しに見ていた、冷酷で傲慢な顔。その顔が、今は鏡に映る俺自身の顔と重なる。冷たい視線でセレスティアを見下ろすアシュトンの瞳。それが、まさしく俺の視線と一致している。
あまりにもリアルな記憶のフラッシュバックに、俺は思わず唇を噛み締めた。
就職氷河期世代として、社会の底辺で喘ぎ、ただひたすらに生きることに精一杯だった俺。恋愛経験など皆無で、女性とまともに話すことすら苦手だった。そんな俺が、どうしてこんな「鬼畜」なゲームの悪役領主になってしまったんだ。
セレスティアは、叔父であるローゼンバーグ子爵の後ろに隠れるようにして、おずおずと広間に入ってきた。叔父は、見覚えのある、いやらしい笑みを浮かべていた。あのゲームで、セレスティアから子爵家を乗っ取った悪党だ。
葬儀に純白のドレスを着させるというのも、彼女に対するいじめである。
セレスティアは、ローゼンバーグ子爵家を叔父に乗っ取られ、文字通り身一つでグラッドストーン家へと嫁いできたのだ。クレイヴス伯爵は、ローゼンバーグ子爵家をいずれ乗っ取るために、アシュトンとセレスティアの婚姻を承認していた。
セレスティアは、俺の姿を見つけると、怯えたように一瞬目を伏せた。その視線が、まるで汚らわしいものを見るかのように俺を避けていることに、俺は胸を締め付けられた。
この状況で、俺はどうするべきか。ゲームのシナリオ通りに、この目の前の可憐な少女を、これから「隷属の檻庭」へと閉じ込めるのか?
広間を埋め尽くす貴族たちの視線が、俺とセレスティアに集中していた。彼らは、俺がこの状況でどのような振る舞いをするのか、まるで劇を見守るかのように注視している。
俺は、アシュトンとしての冷酷な仮面を被るべきか。それとも、前世の俺として、彼女を救うべきか。
俺の胸中で、正義感と、この世界での生存本能が激しくぶつかり合っていた。