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栄螺の買い方

作者: 栁 めお

私は昨日、栄螺を拾った。

 何とか片手で持てるくらいの大きさで、中身が入っているのかずっしりとした重みがある。

 そんな大きな栄螺が道にころがっていた。

 バイトを終えた買い物帰り、薄汚れたエコバッグをぶら下げたまま思わずその場に立ち尽くしてしまった。

夕日に照らされ貝の側面がてらてら輝いている巨大な栄螺を、しばらく眺め続けていた私は、いつの間にか止めてしまっていた息を吐く。

 閑静で汚いマンションと、濁った水が絶え間なく流れる用水路に挟まれた細い道路の真ん中に、巨大な栄螺。

 空には烏がうるさく飛び交い、白と黒の斑模様の猫が興味無さそうに栄螺の横を素通りしていく。

 それでも猫はチラ、とそれを一瞥していたので、私にしか見えていないなんてことはないようだった。

 辺りを見渡しても人間はいない。私は何となく、拾うしかないと思った。

 それでも手で持っていくにはどうにも恥ずかしいので、安いカップ麺だけが詰め込まれたエコバッグに入れてみる。

 「わ」

 軽いバッグが一気にずっしりと重たくなった。当たり前だ、これだけ大きければ。

 十月二十日の午後四時七分の出来事である。

 

 

 ───────────────

 

 何をするにも上手くいかず、どうにもこうにも出来の悪い、不器用で冴えなくて根暗で、そのくせ我儘で、誰からも嫌われたくないなんて願望を一番に持ちつつ、頭の悪い木偶の坊が、この私「仲澤紗(なかざわすず)」である。

 たった一つの悪口じゃあ事足りないくらい、性格はひねくれているし、他人よりもずっと自分が好きだ。

 自他ともに認める「嫌な奴」として二十五年間生きてきた。

 生きることに希望はなくて、将来の夢なんか小学生の頃に何度か見たきり一度も浮かばない。そんな奴。


 都心の短大をテキトーに卒業する前に、就活を怠惰に細々続けていたが結局どこにも採用されず齢二十にして【社会不適合者】の烙印を貰った。

 上場企業で課長を務める父からは苦言を呈され、こうなったのはお前のせいだと母に当り散らして数ヶ月。

何のために高い交通費も学費も出したのか、何のためにお前を都心まで行かせたのかと毎日聞くその言葉が遂に私の核を貫いて、「家を出ます」と宣言したのは数週間前。

 結局父名義で家賃三万の狭い部屋を借り、気がつけばなんの家具もないシンプルな部屋のフローリングに寝転がっていた。

 家賃三万といえど、風呂もトイレもキッチンもあるし内装だって悪くはない。綺麗な方だ。駅から歩いて五分だし、少し歩けばスーパーもある。事故物件かもしれないなんて思ったりもしたが、見ぬが仏聞かぬが花だと目を逸らした。

 私はそれから、ずっと続けていたバイトを死ぬほどいれた。

 朝も昼も夜も働いた。食いつないで行くのに必死だった。親には頼れない。自分で生きていくしかない。そう決意してからもう五年が経とうとしている。


 伸ばし放題にしている髪の毛と、節約のため水で薄めてかさ増ししながら使っているシャンプー、リンス、荒れた唇、衰えていく肌、部屋にちらばった数着の服と、干からびた化粧水の瓶。それからカップラーメンのカラと閉店ギリギリに売られる安い弁当についてきた醤油、からし。そんなものに囲まれた生活が五年も続いたのである。


 一昨日、急になんで生きているのか分からなくなった。節約に節約を重ねてきたから貯金には少し余裕がある。そうだ、バイトを辞めてしまおう。遊んで暮らそう。楽しい気持ちと好きなことだけを抱えたままで生きてみたい。


 私はこうしてあっさりと八年続いたバイトを辞めた。


 四ヶ月。贅沢をしなければ暮らせるはずだ。そうしてとうとう貯金が底を付いた時は死のうと思った。

 私は百均で薄い紙が束ねられたシンプルなノートを一冊買うと、油性ペンで表紙に大きく「行列の行き着く果ては」とまで書いて手を止めた。

誰の言葉だったか、偉い人の受け売りだけど。それでも餓鬼地獄に行くかどうかは、この四ヶ月間で決めようと生意気にも思ったのだ。これに今日から日記を綴る。

 何もしない。何も怖いものはない。全て放り投げて二度と拾わない。元々身軽な方ではあったが、さらに身が軽くなり、足が地から離れるような浮遊感さえ覚えた。

 

 求めていたものは、案外こういう感覚だったのかもしれない。

 

 ───────────────

 

 バイトを辞めると宣言した日に拾ったあの大きな栄螺は、どうやら生きているらしい。

 すっかりエコバッグの中に放置して忘れていたが、時折ごとん、ごとんと栄螺の揺れる音がする。

 栄螺どころか生きた貝をしっかり観察したことなど一度もないので、この動きが異常なのか正常なのかわからない。とにかく海の生物であるという認識はあったため、私は水道水に塩を入れて簡易的な海を作ってみた。

 カビにまみれた風呂桶に、塩水と栄螺を入れる。風呂桶が小さいのかこの栄螺が大きいのか、栄螺の半分程度しか浸からなかった。いっそのこと風呂にでも入れてしまおうかとも考えたけれど、塩が足りないことに気が付いてやめた。

 大きな渦巻き形で、所々トゲトゲがついている貝。じっくりと舐めまわすようにその姿を見た。

 裏返して中身を探ろうとしたが、何か固いもので塞がれていてよく見えない。コンコン、とノックしてみたが、手を当てた時のその感触に、思わず「ひゃ」と情けない声が出た。


 何となく「人間味」があるように感じられたのである。しかし、その人間味とは具体的に何かと問われると難しい。

中身が見えないよう蓋をしているこの固いものが、何となく人間の一部のように思えたような、そうでないような気がした。

貝なんてまともに触った記憶が無いから、いい経験になった。なるほど、貝には案外人間らしい一面があるらしい。

 数分間眺め続ければ、いくら物珍しいとはいえすぐ飽きた。

そんなことより、お腹が空いたからそろそろ晩御飯にしようと風呂場から離れる。この間安く売られていたカップラーメンを一つ、少ないお湯を沸かして食べた。

 折角風呂場から移動してきたのに、栄螺にもなにか食べさせてやらないといけないと思って、カップラーメンを持ってもう一度風呂場へ向かう。そうして、桶を満たす塩水の中に、かやくとしてついてきた不味いチャーシューを一枚投げ入れてやった。

しかし栄螺はそれを食べなかった。貝のくせに選り好みするというのか。腹が立つ。私は栄螺の浸る塩水からそのチャーシューを取り出すと、目の前でそれを口に運んだ。塩水に浸したところで不味いものは不味い。それでも憎らしかったので美味そうに食べてやった。

 

 栄螺は結局、その日何も食べなかった。

 

 ───────────────

 

 さて、金がないと無趣味になるもので、学生時代散々好きだったアーティストの曲や漫画、アニメ、キャラクター等にはもう何年も触れていない。

 急に、時間も金もない生活を五年間も続けてきた自分が偉くて偉くてたまらなくなった。なんて偉いんだろう。たくさん褒めて、頭を撫でてやりたくなる。


そうだ、本当に撫でてやろう。自分の右手を自分の頭にのせて二回摩ってみたが、目の前にあるベランダの窓ガラスに写ったそんなマヌケな姿を見て恥ずかしくなった。他人に撫でられるのと自分で撫でるのではこんなに違うのか。誰にも見られていないというのに顔が熱くてたまらない。

 ……ああいや、誰にも見られていないというのは少し違う。栄螺がいた。


 そういえば昨日寝る前に、風呂場で一人は寂しかろうと枕元に連れてきたんだった。昨日のようにゴトゴト動きはしなくなったが、死んでいる訳では無いようで、時折塩水にあぶくが浮かぶ。寒いだとか暑いだとか感じるのだろうかと思い、私のTシャツを一枚掛けてやったのだが、朝起きたら床に落ちていたからこの栄螺は暑がりに違いない。

 

 暖房や冷房は電気代を食うのでつけない。十月ともあれば少し肌寒くなってきたが、まだまだ過ごしやすい季節だから嬉しい。

 「そうだ、名前をやらなくちゃ…」

 栄螺に名前をつけてやろうと寝る前に考えたのを思い出す。


 実は、食べてみようかと思ったりもしたのだが、あの妙に生々しくて気持ち悪い人間味のある栄螺の蓋に触るのが恐ろしくなってやめた。しかし外に捨てるにもそれはそれで可哀想だと思い、私が死ぬまで一緒に暮らそうと勝手に決めた。

いざとなったら非常食にもなって丁度いいだろう。栄螺なんか飼ったこともないから、死なせてしまう方が早いかもしれないが。


 さて、名前。いざ自分が命名するとなると途端に頭が真っ白になる。ネーミングセンスは欠片もない。

 ええと、栄螺といえば巻貝だ。つまりまあ貝なわけで、それから…黄色くて…いや、黄色くはないな。何となくこの栄螺に黄色のイメージを持ってしまっているのは、拾った時夕日に照らされて黄色やオレンジに見えたからだ。


 「おまえ、名前はあるの?」

 栄螺を力強くゴンゴン叩いて聞いてみる。返事は勿論ないが、あぶくが数個ぽこぽこ浮いた。

 「貝……黄色…さ、ざ、え…」

 ううん、難しい。ポチとかでいいだろうか。妙に拘るのもバカバカしい。どうせ四ヶ月間だけの同居人だ。いや、そもそも栄螺という私よりも立派な固有名詞があるではないか。何だか腹立たしい。やはり私が変な名前をつけてやりたい。馬鹿みたいな名前がいいだろう。安直で、呼びやすい。


 「おまえを見たとき貝が黄色く光ってる、と思ったから貝黄でカイキ。安直でいいでしょう」


 鼻で笑ってそう言ったら、栄螺が軽く揺れた気がした。不服だと伝えたいのだろうか。けれど聞く気はさらさらない。

 そうだ。この四ヶ月の最後は海のある街へ行こう。片道の代金くらいは何がなんでも残しておこう。カイキを海へ返して、私も海の中に身を投げる。それがいい。

 ………ふと思ったのだが、私の住んでいる県には海がない。コイツはどこからやってきたのだろう。鳥が運ぶには大きすぎるし、猫やタヌキが転がしたとも考えづらい。

誰かの落し物か、大きくなりすぎたから捨てられたのだろうか。どちらにせよ悲運な栄螺だ。捨てられたかと思えば、こうして生物として成り上がってすらいない未熟な私に拾われて、身投げの計画に組み込まれて。同情すらしてしまう。

なんて可哀想な栄螺。少し面白くて笑ってしまった。

 

 ───────────────

 

 日記をきちんとつけるなんていつぶりだろうか。きちんとした高くて可愛い日記帳を買っても三日続かなかったのに、この薄くてみすぼらしい何の変哲もないノートにはたくさん書き込めている。することが無いから、ということもあるだろうが。

 

 昨日からずっと長い一日に足を置いているような気がして、時間感覚がおかしくなっている。

 時間が無制限にあればいいとつくづく思う。私が良しと言うまで日付は変わっていはいけない、という力があればいいのに。


 今日の空は曇っている。雨が降りそうなくらいどんよりと重たい空模様だ。外に出ようという気はさらさらない。

 私はもう何年も洗濯していない毛布にくるまりながら、何もせず硬い煎餅布団に寝転がっている。

 家にいる時上半身は何も身につけない。ラクだし洗い物が減るからいいと思って一人暮らしを始めた頃からそうしている。両親がいたら何か言っただろうが、生憎私はずっと一人である。


 そういえば、カイキは昨日も何も食べていない。死ぬのだろうか。死んだデカい栄螺はどうすればいいのだろう。つぼ焼きにしてしまおうか。いいや、大きすぎて上手くいかないな。捨ててしまおう。生ゴミだろうか。

 

 ───何年生きればこんな大きくて立派な栄螺になるのだろう。貝に耳を当ててみたが無音だった。その間も栄螺は静かに塩水に浸っている。


 二十五年も生きてきたが、もし私が貝ならば、小さくてみすぼらしい貝なんだろうな、と思った。

 しかも、貝殻にはヒビがたくさん入っている!それは人生の分岐点を、産まれた時から、その産まれる前から尽く間違えてきた積み重ねによるものに違いない。


 いや、そもそも就職しないという選択が大きく間違っていた。今から悔やんでももう遅いけれど。

……しかしどこかに就職していたとしても上手くやっていける自信なんかない。

 

 とりあえず、あとはもう栄螺が死ぬのを待つだけで、なんの予定もいれていない。それがいけないのかな。明日、晴れたら外に出てみようかな。

 雨が降ったら、そのときはまたこうして部屋で腐っていよう。

 私は本当に、なんのために生きているんだろう。

 

 大きなため息を一つ零すと、カイキが小さく泡を吐いた。

 

 結局、夜までこうして過ごしていた。

 

 ───────────────


 

 好きなコンビニのおでんの具がなくなっていた。前に食べたのはいつだったろう。とにかく、私の冬の贅沢といえばコンビニのおでんだった。

中でもロールキャベツが好きで、おでんにロールキャベツなんて、と思われるかもしれないが、味の染みたキャベツと肉の組み合わせが天才の発想そのものだと思わず拝んでしまうくらい美味しい。

 高校生のとき、友達の家に泊まった日の深夜、こっそり夜の街を二人で歩いたことがある。途中で寄ったコンビニで、友達が買ってくれた牛すじとロールキャベツが今でも忘れられない。

 十月よりも後だった。十一月の後半くらいだっただろうか。うちの方は田舎だから、街灯がない。友達の運転するチャリンコの明かりと月明かりだけを頼りに細いあぜ道を長いこと歩いてコンビニまで向かった。何を話したのだったか。


 日記に過去の思い出を書いてどうするんだ。

 とにかく、もう少し色々コンビニを歩いてみようと思って外にでた。昨日天気予報は暖かくなるから長袖に注意しろだなんだと言っていたくせに結構肌寒い。どんよりと曇って微かに雨の匂いがしている。私が風邪を引いたらあの天気予報士のせいだ。まともな冬服なんて持っていないけれど。


 しかし雨は降りそうになかったので、昨日のような鬱に囚われないために少しでも身体を動かした方がいいだろうと思った。

 それからずっと探し回ったが、ロールキャベツはどこにもなかった。代わりに家の近くの古着屋で厚い五百円のカーディガンを買った。紺色の、学生が着ているようなやつ。鼻先に当てると微かに他人の匂いがした。

 帰りに本格的に雨が降り始めたが、傘なんか持っていないのでそのまま濡れて帰った。その日は久しぶりにシャワーを浴びて、ようやく栄螺のことを思い出した。

 濡れた髪を拭いながら栄螺の入った桶を見た。どうやらカイキはまだ生きているようで、あぶくがポコポコ浮いていた。お腹は空かないのだろうか。


 「カイキ、何が食べたい」


 自身の水滴を、使い古してパリパリになった硬いタオルで拭いつつ、歯のかけた櫛で髪を梳かす。やっぱり身体や髪を洗うとさっぱりして気持ちいい。死ぬ前には一度でいいから、薄めていないシャンプーとリンスを使いたいなんて贅沢を思いながら、ぼうっと洗面台の鏡を眺めた。

 老けたなあ。

 いや、二十五ともなればこんなものだろうか。人間らしい生活を送っていないから仕方ない。それにしても泥みたいな顔をしている。元々容姿端麗ではなかったが、あまりに酷い。

 鏡なんてついぞ見なかったから、尚更まじまじ見てしまう。

 私を産んだ両親は今どんな気持ちなのだろう。

 ずっと自分のことばかり考えて生きてきたせいで、そんな風に考えられない。

 何だか頭が痛い。

 カイキには今日買ったカーディガンのポケットに入っていた飴をやった。

 何年前のかなんてわからないが溶けていてベトベトしている安そうなピンクの飴だった。

 カイキはポコポコあぶくを浮かばせるだけで、食べようともしなかった。

 …………当たり前か。

 

 ─────────────

 

 きっと私は夢を見ている。

 熱に浮かされた支離滅裂な嫌な夢だ。

 昨日雨に濡れたせいか、久しぶりに熱が出た。頭が痛かったり、ぼうとしてしまっていたのはそのせいだったのか。

 だるくて胸の当たりが気持ち悪い。しかし食欲がないことはラッキーだ。

 ろくな食べ物がないので腹が空いていても食べるものはないのだが。


 いや、そんなことより夢の内容を書き留めたい。

 あの栄螺が、カイキが、人間の男になった。やけに胡散臭い関西弁で私に何かを語りかけていたような気がする。ハッキリとは覚えていないけれど、食べ物に関して何か言っていたような。

 私がいいモノをカイキに与えなかったから怒っているのだろうか。チャーシューや飴なんかじゃ腹は満たされぬと怒っているのだろうか。それは申し訳ないが、カップラーメンくらいしかウチにない。勝手に食べてくれと返事をした気がする。夢の中で。

 カイキ…男はやけに色素の薄い茶髪だった。肩より少し下まで髪が伸びていて、それをキッチンにつるしてあった輪ゴムでまとめていた。ポニーテールというやつだ。そして男は開いているのか分からないほど目が細く、丸メガネをかけていた。すんなりした細身の長身だった。


 会ったこともなければ見たこともない男だった。

 なによりその男は全裸で、恥ずかしげもなく私の部屋をうろついていた。

 ああ、そういえば「服貸してもろてもええですか」なんて喋っていた気がする。私も変な夢だと思って「いいけど入るんですか」なんて呑気に会話していた。

自我のある夢を初めて見たせいで、少し浮かれていたのかもしれない。男は「入りますよ。形を間違えただけなので、今から合わせます」なんて言うと、今度は女の姿になった。私と同じ体躯の、今度はボブで目がパッチリ開いている小顔の女。

相変わらず野暮ったい丸メガネをかけていたが、女の私から見ても可愛いと思った。

彼女は「じゃ、少し借りますんで」と言うと私のよれた服を見て「あかんわ。アンタほんまに女の子?変な匂いすんで。さては洗濯してへんな」などとぶつくさ言っていた。

それでもどうにか着れそうなものを見つけ出したようで、それに手を通していった。昨日買ったカーディガンを着ていた気がする。

 ここだけはハッキリ覚えているのだが、その女はこの部屋を出ていく時に「鍵借りますよ。また帰ってくるので。……ていうかなあ、いくら一人暮らしやからって裸で寝てたらあかんで。ほんま、暖かくして寝とき」

 と、まるで私を心配するかのような台詞を零していった。

 言われて初めて気がつく。私は普段上半身に何も身につけないで生活しているのだが、色の褪せた真っピンクの分厚いスウェットをしっかり着ている。

 

 私は知らず知らずのうちに人肌恋しい思いをしていたのだろう。

 熱に浮かされたときの夢というのは案外自分の深層心理がわかりやすかったりもする。のかもしれない。

 

 誰かに心配されたのは何年ぶりだろうか。

 頭が痛いので、今日はここまで。

 あの男…女?が帰ってきたらどんな顔で迎えてやろう、なんて寝ぼけながら日記を書いている。

 

 

 ──────────────

 

 

 どうやら私は化け物を拾ってしまったらしい。

 何故なら夢だと思い込んでいたあの女が朝、堂々と帰ってきた。昭和のアニメに出てくるような、緑色の生地に白いぐるぐるの描かれたふろしきを泥棒のように首にかけて帰ってきた。

 私は一晩寝たおかげで随分身体が軽くなっていたから、思わず飛び退いて目を丸くしてしまった。

 まさかまだ夢を見ているのかと思って思い切り自分をビンタしてみたけれど、覚める気配は一向になくただ頬がジンジン痛いだけだった。何より私は今しっかりピンクのスウェットを着ている。


 ──時刻はたぶん朝の八時半当たりだった気がする。

 丸メガネをかけたボブの、目がぱっちりしているあの女だ。

 「もう平気なん」

 心配するような素振りをみせてそんな事を言ってのけた。

 それから女は「せや、服返します」というと目の前でまた、一切躊躇わず全裸になって見せた。

脱いだ服を丁寧に畳むと、風呂敷からくすんだ青色の着物を一着取り出して、「ああ懐かし…」と独り言をこぼした。

 そうしてまた、女から男へと変わって見せたのだ。徐々に肉の中の骨が肥大し、女の丸みを帯びた骨格から男のガッシリとした四角い骨格へと変わっていく。眼孔がよじれ、鼻の骨もぐねぐね曲がり、足が伸びる。あまりの生々しさに私は思わず目を覆った。

 それからようやく男になったソイツは嬉しそうに袖を通した。


 何度も言うが、私の意識はハッキリしている。ハッキリしている筈だ。


 「これや、これや!ようやく元に戻れたわ。いやいや、ほんまありがとう」

 青色の着物をしっかり着込んで嬉しそうに笑って言った。

 昨日の夜に見た、細い目を釣り上がらせた丸メガネの長髪の男だ。彼はその髪を、私物であろうヘアゴムで高く一つに結んだ。

 「なんや、まだ本調子やないのん。顔色悪いで。体温計とかないの」

 私の顔を見た彼がそんなふうに言った。眉毛をわざとらしいくらい八の字にして、如何にも「心配です」といった表情をさせながら。

 「あ……あ……」

 情けないことに、私は未だ幻覚と現実の区別がつかずにいた。男を見つめながら、怯えて部屋の隅に座っているのが精一杯だった。

 男は着物の長い袖を揺らしながら、私の部屋を散策していく。

 棚や机の引き出しをあれこれと触っては「腐っとるやん」だとか「カビがすごい!」だとか失礼なことを呟いている。

 「待って…あの、誰………」

 私がようやく男に向かって言葉らしい言葉をかけることが出来たのは、男が電池の切れた埃まみれの体温計を見つけ出してからだった。

 

 


 越してきた時に三百円とちょっとで買った白い小さなローテーブルを挟んで、私と男は座っている。

 体温計は電池がないうえボタンがしっかり押せないため、期待はせずにテーブルの真ん中に置かれていた。

 私は男に名前を尋ねたものの、「カイキ。あんたはんがくれはった名前。あたしの名付け親やな」と軽く言ってのけた。

 信じられないが、本当にあの大きな栄螺が化けたモノらしい。本人はそう言ってニコニコと笑っている。

 も、もしかして怒ってる?変な名前付けたから怒ってる?と冷や汗が滲んだりもしたが、その様子を察するにどうやら気に入っているらしかった。

 「んっふふ、カイキ…貝黄…貝鬼怪奇海鬼……あかん、天才や!お嬢さん、センスの塊やで!!」

 何がそんなにいいのか到底理解に及ばないが、喜んでいるので良しとしよう。

 「で、お嬢さんは?」

 「え?」

 「名前」

 カイキと名乗るこの男は、目を釣り上げた笑顔で私に言葉を投げかけた。

 見知らぬ男…しかも、人間ではない者に易々と名前を教えていいものだろうか。危ない気がする。……人間ではない者って。頭痛がしてきた。


 「い、言う必要あります?」


 人生で初めて初対面の人に向かって高圧的な態度をとった瞬間だった。

 ああいや、これは人ではないのだけれど。幻覚かもしれないから。

 「あるある。だってこれから一緒に暮らしていくんやし名前は知っておいた方がええやろ?」

 「はい?」

 「ええ?」

 サラりとカイキの口から盛れた言葉に私は思わず目を見開いた。

 「く、暮らす?どうして?」

 突拍子もない発言に、思わず声が裏返ってしまった。

 しかしカイキはそんな私に、私と同じような驚き顔をしてみせて言った。

 「これに書いてたやん。あたしと死ぬまで一緒に暮らすことにした、て。アンタ四ヶ月後に死ぬんやろ?それまであたしここにいてもええんやろ?」

 カイキの手元には、いつの間に見つけ出したのか私の日記帳が握られていて、目の前でパラパラと捲ったりなんかしている。

 「わぁ!!!!!!!」

 私は声を上げてその手から日記帳を奪うと、胸に抱きしめて崩れ落ちた。

 「へ、変態」

 「日記覗いたくらいで何をそんな」

 カイキは微塵も悪いと思っていない素振りで袂から薄黄色の扇子を取り出した。

 「なんやあたしまた捨てられるんか」

 そうして扇子をバッと開くと、顔を覆って袖で目元を拭いだした。

 よよよ、とわざとらしい泣き声付きで。

 「思えば初めから酷かったなあ。興味本位で拾われた思たらカビだらけの桶に塩水いれて、飴玉なんか投げ込まれて…死ぬかと思たなあ…」

 随分痛いところを突いてくる。

 これでも流石に飴玉はダメだったと反省しているのだ。

 「いや飴玉だけやないで。普通栄螺にチャーシューあげへんで」

 私が申し訳なさそうにしているのを見てカイキが言う。

 「まあええわ。スズちゃん。責任取って貰いますよ」

 「あ!免許証…!」

 日記帳だけじゃない。私の免許証までもが盗られていて、名前がアッサリバレてしまったのだった。

 

 この急展開な現状に頭を抱えて何度も唸ったが、最終的には考えることをやめた。

 まあいいや。死ぬことが真後ろにある私にとって些細なことだ。

 正直、心底面倒くさい。どうでもいい、好きにして。が勝った。


 「養えるようなお金はない」とだけ伝えると「そこは心配しなくても平気ですわ」と風呂敷から札束をいくつも取り出してみせ、「なんならこれ、あたし一人じゃ余るだろうからあげるで」と差し出してきた。

 

 「どうせ人生の締めくくりやしパーッと使ったろ!今夜はお寿司でも食べよ!」

 

 本当になんなんだろうコイツは!

 

 

 ──────────────

 

 一週間ほど日記を書くことを忘れ、珍しく慌ただしい日々を過ごした。

 カイキはイマジナリーフレンドかもしれないが、甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。

 食事も豪華なものを用意してくれたし、実際それを食べてお腹は満たされた。幻覚かもしれないが。よく出来た幻覚なので良しとする。

 それからカイキは部屋の掃除をし始めた。イマジナリーフレンドのくせに。

 そんなこんなで一週間たった今でもこの男の存在を信じ込めずにいる。

 どうせ日記は読まれるだろうから、もう包み隠さず思ったことを正直に書き連ねている。

 

 死のうと思っているから当たり前だが、人生で一番何もかもがどうでも良くなっている時なので、何に関しても無関心の方が勝る。

 そういえば少し前にうつ病診断をやってみた。ネットで検索して一番上に出てくるサイトの簡易的なものである。自分のメンタルや体調に関する数問の項目を、予め用意された当てはまる答えと照らし合わせ、答えていく形式だった。

 二十点から二十九点をとると重度のうつ病である可能性があるらしく、私は見事二十二点をたたき出したが、設問がそもそも当てはまるような当てはまらないようなフワフワしたものだったのでアテにならないと思った。


 そもそも、何対して落ち込んでいるのか、何故死にたいと思っているのかが私の場合明確に分かっているのでうつ病だと診断された所で頼るところなどないのだ。

私の至らなさが、家族への甘だるくて苦い変な感覚が、私の無能さが、何より寂しさが原因なので、病院に行ったところで、誰かに相談したところでどうしようもない。それにそんなことを相談したら笑われるだろう。他の人から見れば「そんなことで」とバカバカしく思うに違いない。だからいっそ悩みごと自分を消してしまおうと思った。悩むのも面倒くさい。


そも、他人に悩みを打ち明けてどう思われるか考えるのも面倒くさい。笑われるのも面倒くさい。心配されるのも面倒くさい。真摯に受け止めて話を聞いてくれるのも、的確なアドバイスをしてもらうのも、そもそも悩みを話すこと自体も、結局のところ面倒くさい。面倒くさいからやらない。やらないから消す。

……この気持ち、分かってもらえるだろうとはこれっぽっちも思っていない。

 死を決意するにあたって心がポッキリ折れた感覚が未だに生々しく残っていて、今でも蠢いて心臓に住んでいる。

 

 兎にも角にも、一番は人恋しいのだろう。

寂しいのだ。イマジナリーフレンドなんて作り出してしまうくらいには。

 

 あの男はいつ私の前から消えるのだろう。

 消えた時の私はどうなっているのだろう。

 消えぬまま、私は死んでいくのだろうか。

 

 ─────────────

 

 

 「スズちゃん、アンタ好きな物とかないの」

 

 カイキが唐突にそんな事を言ってきた。十月ももう終わりを迎える季節である。

 晴れ渡った空に北風がびゅうびゅう吹いて、冬もそろそろ身支度を整え始めたような温度だった。

 「ハロウィンがあるやん。やらへんの?女の子は好きやろこういうの」

 相変わらずくすんだ青色の着流しを纏い、丸メガネを光らせながら突拍子もないことを聞いてくる。

 この化け物と暮らして数日、とにかくよく喋る男だと痛感した。黙ってと何度言いかけたことか。


 「好きだけど、あれは大人数いないとダメじゃない」

 「そういう決まりなん」

 「少なくとも一人でやるものじゃなでしょ、ハロウィンって。ていうかハロウィンが何なのかきちんと理解してる?」


 カイキは私に「してるしてる。お菓子もらわなあかんヤツ」と本当に理解してるのか怪しい回答をしてみせた。

 「一人やないやん。あたし子供にもなれんねんで。トリックオアトリート言うたげよか」

 「いい、いい。あんまり変化しないで。その…過程がだいぶ気持ち悪いから」

 カイキは「さよか」と気の抜けた返事を一つこぼすと、今度は「なあ出掛けへんか」と続けて言った。

 「何処に」

 「近所の散歩」

 この男はかなり強引な節がある。私の返事も待たずに勝手に座っていた椅子から立ち上がると、着流しの上に羽織を着込んでマフラーを巻き始めだした。行く気満々である。

 「嫌だよ面倒くさいから」

 「はい立って」

 「ちょっと」


 カイキはいつだったか出会って最初の方に、ふらりと一人で外に行き何やら服を大量に買い込んで帰ってきたことがあった。

 品物を見たところそれは私のよく行く古着屋のもののようで、そのどれもがレディースで。

 汚れの目立つダウンや、着るのに勇気がいるようなちぐはぐした柄物の服、さらにはごてごてした装飾モノで多少錆の目立つブレスレットやイヤリングまで、それはそれは沢山買い込んできた。


 古着と言ってもこれがこの値段!?と思わず舌打ちしてしまうようなモノがあったりするためしっかり品定めをしなければならないのだが、この量であれば的確な品定めを行ったとしてもかなりお金がかかるだろうと思った。


 「お金は……?」

 「安心しぃ自腹や。ほらあげる。全部あたしの好みやけどな」 


 イマジナリーフレンドの行動力…行動範囲…全てにおいて凄まじいがこれは大丈夫だろうか?私が無意識のうちに盗んできてしまったとかではないだろうか?と本気で不安になった。しかしカイキが領収書を見せてくれたので少し安堵したのを覚えている。

 

 「ほら行きまっせ」

 気がつけば私はダウン、手袋、編み靴下、ニット帽を身につけており、カイキに手を引かれていた。

 玄関に出るとカイキは下駄を履いて、私はカイキが古着屋で買ってきたスニーカーを履いた。テキトーに見繕ってきたらしく、サイズが少し小さい。

 手馴れた様子で私の家の鍵をしめると、カイキは楽しそうに口笛を吹きながら歩きだしはじめた。

 

 時刻はそろそろ十四時を迎えようとしている。

 外は平日とあって人通りが少なく閑静な雰囲気を纏っていた。

 もともと住宅街の真ん中に聳える汚いアパートの一室を借りているために、平常静かではあるのだけれど。

 外に出るとひんやり肌寒く、しかしそれでいて太陽の光は暖かかった。


 「どこにいくの?」

 「行先なんてないない。直感に従って進むんや」


 カイキは相変わらず楽しそうだ。

 色素の薄い茶色の毛が時折陽の光に反射して実に綺麗な色を放ちながら揺れている。

 周りの景色などついぞ見ずに、カイキの揺れるポニーテールだけを見つめながら歩いた。

 

 「公園があるやん。休んでこ」

 突然目の前で立ち止まったので、私は思い切りカイキの背中にぶつかった。

 「なんや前見て歩いてなかったんかい」

 カイキはぶつかった私にそんな小言をぶつけつつ、公園へと入っていった。

 この公園はよく見知っている。中学生の頃通っていた塾が目の前にあって、周りは住宅街に囲まれている公園だ。遊具は小さなすべり台とブランコがちょこんとあるだけで、禿げた細いお化けのような木がバラバラと植わっている。


 カイキは「絶対立ち乗りした奴おるやん」などと言いながらブランコの上の土を払うと、ちょこんと座って見せた。

身長百八十を超える男が小さなブランコに座る画はなんともシュールである。


 長い足は余っているし、公園のブランコと着流しの組み合わせもちぐはぐだ。


 「スズちゃんも座り」


 カイキはあの黄色い扇子を持ってパタパタとこちらを招いてみせた。

 言う通りに隣に座ると、なるほど懐かしい感覚が湧き上がってくる。カイキは「思い切りこいだろかな」なんて言っているが、どう考えてもその身長じゃ難しそうだった。


 「無理じゃん」

 「無理やない、身体のサイズを合わせればええんや」

 ああ、またお得意の変化のことかと思い出し「そう」と短く返事をした。


 ……忘れていたがこのイマジナリーフレンドが私にしか見えていなかった場合、私は一人で喋る女になっているのか。

 急に我に返って慌てて周りを見渡してみたが、昼間の公園になんて誰もおらず、私たちだけのようだった。

 「服が合わないからできへんけどな」

 「ふうん…」

 カイキはギイ、ギイと小さくブランコを揺らしている。

 細い瞳はただ正面を見つめているだけで、どこを見ているのかまで把握できない。彼の丸メガネがキラリと日差しにあたって光った。今彼は何を考えているのだろう。

 「あなたはどこに住んでいるの」

 ──長い沈黙は少し堪えると思ったので、それとなく浮かんだ疑問をぶつけてみる。カイキはやはり真っ直ぐ前を向いたまま、こちらを見ることはせず「せやなあ」と短く言葉を零してこう続けた。

 「深い海。場所は特に決まってへん。」

 「海ならどこでもいいってこと?」

 「どこでもええわけやないけど、大体そうやな。知ってるか?夜の海は真っ暗やで。月明かりなんか全然届かへん。きっとスズちゃん泣いてまうなあ。おっかない言うて怯えてまうなあ。んっふふ、寒いで…すごく…」

 「何。私の日記読んでるからって、脅かそうとしてるの?ていうか勝手に読まないで。」

 私はムッとした。身投げしようとしていることも全部コイツは知っている。はあ、と思わず零れたため息がふんわり色をつけて漂った。


 「せやなあ………」


 カイキはギイ、ギイとブランコをこぐ。ざりざり足元の砂が下駄にこすれる。冷たい風が私たちの間を抜けていく。


 「スズちゃんも栄螺になったらええ。難しいこと、なんもないで。小さく産まれてゆらゆら波に揺られて少しずつ大きなってな…でも何もせえへん。それなら、暗い海の底も怖ないやん。苦しいこともない。うん、栄螺になったらええ。」

 「………なにそれ。」


 新手の宗教?なんて思わず笑った。栄螺になったらいいなんて言われたこともないし考えたこともない。当たり前だけど。


 「栄螺は…美味しいもの食べれるの?」

 「んー。海藻があればそれを食べるし…あたしは、ネコザメなんか来はったら殴ってそれを食べる」

 「殴る?サメを?どうやって?」

 「今度見せたるわ。特別やで」


 特別だ、と笑った時、彼はようやくこちらを向いた。口角をあげた自然な笑顔で、暖かな日差しを浴びながら。

 「そろそろ行こか。次は何処に行こうかな──」

 カイキは立ち上がると、また楽しそうに笑って口笛を吹き出した。

 何の歌かはわからない。聴いたことの無いメロディだった。

 「今日はとことん歩くで」

 

 言った通り、本当にずっとただ近所を練り歩くだけの一日だった。狭い路地裏を抜けて墓場の裏を通って鳥のフンで赤や黄色の染みができた道路を歩く。

田んぼの真ん中のあぜ道、国道を跨る歩道橋。焼肉屋の近くはいい匂いがして、うなぎ屋の近くもいい匂いがした。夕方になって住宅街を歩けば、カレーの匂いがして。


そうしてカイキは「はよ帰って何か食べよ」なんて、自分勝手に引き返し始めて。

 …こうして読み返して見ると、カイキは何がしたかったのか全くわからない。

 だが、カイキとの散歩は心地よかった。

 

 ───────────────

 

 カイキは大量にある金を惜しみなく私に使った。他人の金で好き放題に出来るなんて夢のようだと思うかもしれないが、この感覚は私の気持ちをなぜか少しずつ不安にさせていくようで、次第に落ち着かなくなった。


 そもそも何故こんなにもお金を持っているのか。何不自由なく暮らすに充分な金の量である。

 しかしその出処を尋ねれば、決まって「あたし、こう見えて大企業の社長やねん」と嘘なのか本当なのかわからない言葉を吐いた。カイキが社長というのは何となく想像できる。ような、できないような。


 とにかく、カイキのおかげで私の食生活はガラリと音を立てて変わった。

 シャンプーだってもう薄めなくていい。彼が買い足してくれたから。

 洗濯だってこまめに出来る。水道代を肩代わりしてくれるから。

 住処を貸してやってるんだから、とかなんとか思い、なんとなく当たり前に受け入れてしまっていたが、髪をふいた時に香ってきたシャンプーの匂いでハッとした。薄めないシャンプーはこんなに香るのか。これが、普通なのか。


 今まで最底辺だった者が、途端に人間らしい生活を送れる充実感に満たされると、恐れていたことだが『ずっとこのままでいい』と思い込み始めてしまう。生きていける。これならば私はまだ、と望みを持ち始めてしまう。これがいけなかった。私は急に怖くなった。


 満たされて満足して、ようやく生に執着し始めた頃に私は死ななくてはならなくなる。恐ろしい。

 だから、私のためにお金は使わないで欲しいと頼んだ。するとカイキは「はあ」と気の抜けた返事を一つ零し黙りこくった。

 相変わらず目が細くてどこを見ているのかイマイチわからない。


 それから「わかりました」と短く言った。

 「な、何、今の間は」

 「いやいや何でもあらへん。わかった。でもあたし、カップラーメン生活なんか嫌やで。かといってあたしだけいいモノ食べてスズちゃんが質素なモノ食べて、いうのもなあ。」


 なるほど、気が引けて食べづらいということか。意外と繊細な男である。

 「じゃあ私はキッチンで食べるよ」

 「んー、あたしのが居候させてもろてる身なんやで」

 「そうは言っても…」

 カイキは首を捻りながらどうしたものかと考え込むとこう言った。


 「………とりあえず、合わせるたるわ」

 「はあ……」

 今度は私が気の抜けた返事を零す番だった。嫌だと言っておきながら結局合わせるのか。イマジナリーフレンドだから私に都合良く出来ているとか?

 何にせよ一つ心配は減ったはずだ。

 

 

 ───────────────

 

 「海行こか。海」

 

 突拍子もない突然の発言に、私は無視を決め込むことにした。が、何か引っかかったので間を開けてから言葉を返した。

 「海って、帰りたいの?」

 カイキは深い海の底に住んでいると言っていた。

 「ううん。まだ帰らへん。スズちゃん運転免許持ってはったから遠出せな勿体ないと思てな」

 「わ、私もうずっと運転してないから…ペーパーだから怖くて出来ない」

 そもそも私は車を持っていない。それをカイキに伝えると、「借りればええやん。レンタカー、いうんがあるんやろ?頼むわぁ、スズちゃん連れてって」と甘えた声でねだってみせた。


 「無理無理。カイキは免許持ってないの?」

 「持ってへんのよ〜あたしがあんなけったいな鉄の塊、操縦したってみい。事故起こしまくりやで。だってあたしただの栄螺やもん」


 都合のいい時だけ栄螺であることをアピールするが、人型になる時点でただの栄螺ではない。

 駄々をこねるカイキとこの後数分問答を繰り返し、何をどうしてか海ではなく東京へ行こうということになった。

 もちろん電車に乗って、である。

 お金は全てカイキが出すらしい。そういうのはやめてくれと以前言ったのだが、「せっかくやし一回くらいええやろ?遊びいきたない?オシャレなパンケーキもあるで」と目を輝かせながら力説されては何も言えなかった。


 カイキが行きたいのであって、私は行かなくてもいいのではないかと聞いたところ、「あたし栄螺やから人間のルールわからんもん」と返された。本当に、都合がいい時ばっかり。


 兎にも角にも一緒に着いてきてほしいようで、「服はあたしが調達したる。オシャレなお店行くのにヨレヨレなん着てはったら笑われてまうで」とノリノリである。

 カイキの服のセンスもあまり褒められたものでは無いような気がするけれど黙っていた。

 

 私は今度行くのかと思っていたのだが、カイキ曰く『今日』の予定だったようで、出掛けてくると家を出てものの数分で帰ってきたかと思えば、調達してきた服を何着か取り出して「急いで着替えて」と渡し、私を脱衣所に押し込んだ。


 新品ではないようだ。また私の行きつけの古着屋に行ったらしい。あそこにオシャレな服など売っていないが。

 渡されたものを見てみると、ヨレていないものを選んだのだろうか、無難にパーカーとジーンズだった。

 カイキは何を着るのだろう。いつも青い着流しを着ているイメージだが、それで都心にいくのだろうか。

 

 私は着替えを終えてカイキを探しにリビングへ向かうと、思わず笑ってしまった。

 可愛らしいドーナツ柄のフリースの下に黒いワイシャツを着込み、ゴテゴテした金色のネックレスなんかをかけている。いつも身につけている丸メガネはサングラスに変わっているし、ズボンはダメージが酷くてボロボロだ。一見すればオシャレかも?とも思えなくはないが、近くに行くと本当にただのボロボロなズボンであることが分かってしまう。


 「ふふ…いつものでいいよ。着流しでいいよ」

 「目立ってまうやん!」

 笑いながらフリースを引っ張ると、カイキは困ったようにそう言った。

 「そっちの方が目立つでしょ。こういうパーカーなかったの?」

 「あるにはあったけど〜…シンプルすぎやない?」

 「そっちの方がいいよ。ズボンは?」

 「何着か選んできたのがそこに…」


 カイキがエコバッグを指さすので、その中を漁る。

 確かに、あそこの古着屋にある男性用のズボンは、おじいちゃんが履くようななんとも言えない薄くて寝ぼけた色味のものが多かった気がする。しかしあのダメージジーンズよりかは幾倍マシである。


 見ればやはり年配向けのズボンが数着と…白のラインが入った黒いジャージズボンがあった。

 うん、こっちの方が絶対にいい。私はジャージズボンを渡してやった。

 「こっちのがいい」

 「あかんもんこれジャージやん」

 「こっちのが絶対いい!」

 「せやろかあ………」

 「うんうん」

 

 

 久々に声を出して笑ったきがする。

 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 さて、一悶着あったところでいよいよ電車に乗り込んだ。

 電車だって何年ぶりだろうと懐かしくなる。思えば大学に通っていた時以来だ。

 車もそうだが、電車に私は弱い。乗り物に酔うわけではなく、揺られるとどうしても眠たくなってくるのだ。


 電車がガタゴトと音を立てて発車した。私の住む田舎から七駅過ぎた所で一回乗り換える。その後はもう一本で都心へ行けるらしい。

 「なあ、変やない?ほんまに?」

 「変じゃないよ。サングラスもネックレスもとって正解だよ」

 「ほんまかなあ……かっこよなかった?」

 「カッコよかったけど組み合わせが下手くそだった」

 「勉強せなあかんなぁ」


 カイキは電車に乗ってからもソワソワと身だしなみに不安を抱いているようだったが、私がそう言うと「ほんならええかあ」と納得してくれた。

 無駄に足が長いせいでジャージズボンは少し丈足らずであったが、まあまあ様になっている。

 上に着ているパーカーはいつも着ているあの着物と同じくすんだ青色で、そのせいもあるのかカイキに非常によく似合っていた。

 

 やがて七駅過ぎて終着点に着き、同じホームの向かい側に来た電車へ乗り換える。私たちは一番先頭の車両に乗った。

 「すいててええなあ」カイキがそんな言葉を漏らすくらい、車内はガラガラだった。それもそのはず、今は平日の真昼間である。昼の一時を少し過ぎた時間帯だ。


 私たちはドアの近くの席へ座った。カイキが端を譲ってくれたので、そこへ座る。カイキは当然のように私の隣に座った。

 電車が走り出すと、また眠気を誘う穏やかな揺れを伴いながら、窓の外の景色が移り変わる。平日の昼間の気持ちよさが本当に好きだ。

 学生の時、ズル休みをして背徳感を背負った昼間の感覚も好きだった。好きなことをしている晴れた昼が好きだ。

 そうして、電車は都心に向かうに連れてたくさん人を乗せていった。気がつけば空いている席は一つ二つ、車内の温度も心做しか上がっている気がする。


 ふと、ドアの隣に立つ若い男性のイヤホンから、音が漏れているのに気が付いた。それは最近人気だという歌手のラブソングで。そんな微かな音をBGMに、窓の外に流れる風景を楽しんだ。


 住宅の羅列、二階の狭いベランダに設置された室外機、庭に洗濯物を干す女性。未だに河原を見ると心が弾む。晴れ上がった空、眩しい陽の光、段々背が高くなっていく建物、線路沿いの小学校がいくつも目につく。


 「こーんな建物たくさん建てはってまあ、人間って凄いなぁ」

 「急に栄螺らしい発言…」


 カイキもわくわくしながら外を眺めているようだった。………そこでハッとあることに気がつく。

 そういえば、人が増えたというのに、カイキの席には誰も座ろうとしない。それどころか、カイキの足を避けて前に人が立っているではないか。

 

 イマジナリーフレンドではなく、実在するモノなのだと、その時になってようやく実感した。

 嬉しい。そう思った。

 

 私はカイキの肩に寄りかかって、少し眠った。

 面倒くさいことは何も考えないことにしよう。

 

 

 「スズちゃん、起きぃ。」

 カイキが私の肩を揺らした。

 どうやらいつの間にか電車は地下に潜っていたようで、なんの面白みもない暗い壁が窓の外に写っている。

 「次で降りよ」

 「次はどこ?」

 「神保町」

 「そこに行きたかったの?」

 「直感や。何があるか全くわからへんけど、降りてみよ」

 「そんなテキトーな…」


 ぐぐ、と私は伸びをして、すっかり人気の少なくなった車内を見回した。

 電車はガタガタとすごい音を立てて地下を走っている。地下鉄の騒音って相変わらずだな…なんてどうでもいいことを思う。

 「……そう言えば、行き先は?パンケーキがどうとか言ってたけど…神保町で降りちゃっていいの?」

 「行先なんてないで。直感で進むんや」

 なんだかデジャヴな会話である。

 「ちょっと…嘘でしょ」

 「テキトーに歩いてパンケーキの店があったら入る。なかったら食べへん。それでええやん」

 「いいわけないでしょ…何のためにここまで来たの…」

 「ええやんか〜、怒らんといて!スズちゃんの好きなもんあるかもしれへんよ、なあ?」

 「はあ……私のお金じゃないから全然いいんだけどさ」


 やがて電車は神保町に止まった。カイキと私は電車から降りて、人の少ないホームに立つ。ひときわ強い風が吹いて、髪の毛がばさばさ振り乱れる。地下鉄の突風は本当に鬱陶しい。

 カイキの茶髪も風に煽られて揺れていた。陽の光にあてられなくても綺麗だなあと思った。汚い地下鉄でも綺麗に見えるのならば、きっと深い海の底でも綺麗に見えるのだろう。……どうでもいいけど。

 

 さて、駅から外へ出ると目に飛び込んできたのは本屋本屋本屋。

 後で調べて見たら神保町は古本屋の街として有名らしいことがわかった。

 第二次世界大戦前の教育書や、戦時中の雑誌、昭和初期の映画報など、カラフルでレトロな本もあれば難しそうな政治論、何とか主義のあるべき姿がどうだとか、英語ばかり書き連ねてある重たくて値段の張る本だとか、色々あった。


 決まって古本屋の中は屋根裏部屋のような埃臭い匂いが漂っていて、それが本に染み付いた匂いなのだと気がつけば、本をおそるおそる鼻本に近付けたりなんかしてみた。思った通り埃臭い匂いがする。


 カイキと古本屋を見て回って歩いていると、ふと面白そうな本を見つけた。値段は五百円。古いと言っても昭和後期に発刊された本のようで、比較的新しいものだった。


 題名は「落語とおんな」、どうやらその題のとおり落語家が書いた粋な話の詰め合わせのようだった。

 「へえ、スズちゃん落語に興味あるん?」

 「ないよ。でもあらすじ見たら面白そう」

 「あたし、落語家やってたこともあんねんで。どお?凄ない?」

 カイキがにこりとわらってそう言ってのける。その胡散臭さに思わず「はいはい」と流そうとしたが、「ほんとやって」と珍しく食い気味だ。

 「あたし、転々としててん。落語家やったり、記者やったり、色々しててん」

 「そうなのね」 

 「あ、信じてへんやん。酷いわあ」

 頬を膨らませるカイキに、私は「からかわないでよ、もう」と本を元の場所に戻した。

 「スズちゃん、これ買うたる。五百円やし、このくらいええやろ」

 「え?うん…いいの?ありがとう」

 カイキは本当にその本を買ってきて、私に差し出した。


 「落語興味もってくれると嬉しいなあ」

 「落語家なら、帰ったらひとつ噺やってみせてよ」

 「ええよ。あたしまだ現役のつもりでいるもん」


 カイキは楽しそうに笑うと、隣の古書店へと向かって歩き出した。

 ああ、そういえばカイキは扇子を持っていたな…。あれで蕎麦なんかすすったりするんだろうか。時そばをリクエストしたらやってくれるだろうか。見てみたい。思わず私まで頬がゆるむ感覚がして、急いで頭を振った。

 

 私たちはそれから、転々と古書店を回って歩いた。カイキは本をペラペラとやってみては古書店の頑固そうなメガネのおやじの店員に話しかけ、なにやら世間話なんかを繰り広げていたが、私は静かに、まじまじ本の値踏みをしながらひやかしていた。


 雑誌の古書店に入ると、カイキは店員に話しかけたりせず、なにやら熱心に本棚を物色して回った。

 私はといえば、そんなカイキを放って目に入る雑誌の山を流し見しながら店内を一周してみる。


 特に気に入ったのは映画報の大きな雑誌。今では見られないような文字の書き方で女優の紹介がしてあって面白かった。海外の映画、日本の時代劇、官能映画…様々なものが取り上げられている。中には未だに現役で活躍する女優も載っていた。


 「………あ」


 慌ててこの雑誌の裏を開いて発刊日を探る。一九六四年…今から五十七年前の雑誌だ。偶然か否か、とある女優の誕生日パーティの白黒写真の中に、カメラを構える若い男がハッキリ映り込んでいた。それは丸メガネにポニーテールの姿で、しかしその服はカッチリしたスーツ。つり目で形のいい笑顔。


 「ねえ、この人カイキにそっくり」


 思わず本人にも共有したくなるほどにその姿は瓜二つで、驚きよりも笑いが込み上げてきた。カイキに声をかけると私の後ろから手元の雑誌を覗き込んだ。


 「お、ホンマや。そっくりって、これあたしや。懐かしいなあ」

 「え?いやでもこれ五十年前のだし」

 「そうか〜五十年前まで記者やってたんか。あかんなあ、忘れてもうてる。んふふ…買おうかなあ」

 「ちょっと…そっくりさんでしょ」

 「いや?あたしやでこれ。さっき言うたやん、記者もしててん。この子まだ生きてはる?女優続けてはるん?可愛ええ子ぉやったなあ」


 カイキは懐かしむような口振りで、平然とそんなことを言ってのけた。

 ……またからかっているな。少しムッとしながら私は言った。


 「からかわないでよ」

 「からかう?」

 「その冗談だよ」

 「冗談…?」

 「さすがにこんなの騙されないよ。先にいつの雑誌かも確認したんだから」

 「ふふ、ええやん。あたしに騙されんと先手打ったってわけや」

 「あ、今騙されないようにって言った」


 カイキは背後で静かに雑誌を覗き込んでいる。


 「……でも本当に、しっかり写ってる。お父さんとか?ていうかカイキ今何歳なの?」


 振り返ってカイキを見ると、珍しく真顔だった。ひゅ、と思わず息を飲む。形容しがたいゾッとする雰囲気を、一瞬纏っているように見えたのだ。

気がつけば背中につう、と冷や汗が垂れていた。しかし次の瞬間には目を釣り上げてニコリと笑みを浮かべていて、まるで何事も無かったかのようにいつもの調子で話し出す。


「う〜ん?」なんて小首を傾げるカイキを見てホッと胸を撫で下ろした。

 それでも、間違ったシーンを無理やり繋ぎ合わせてしまったかのような、変な違和感だけは確かに脳裏に残った。

 年齢を聞いたのがマズかったのか、親のことを聞いたのがマズかったのか。私はカイキに慌てて謝った。

 「いや、その、ごめん。言いたくないことなら、全然…」

 するとカイキは声を出して愉快そうに笑って言った。

 「いやいや、んなことないで。年齢について詳しく考えたことなかったから、真面目に考えてもうた!せやなあ。スズちゃん、あたしのこと何歳に見てたん?」

 「私は…二十八くらいかと思ってたけど…勝手に……」

 「じゃあ二十八。二十八や。スズちゃんに名前だけじゃなく年齢も貰ってもうた。んふふ」

 「………ミステリアスな男ってキライ」

 「得体のしれなさがこう、グッとくるやろ?」

 カイキが拳を握って言う。

 ─────なるほど。「栄螺だから」仕方がないのだろう。前に言っていたように、人間のルールを知らないからなのだろう。名前も年齢も本人にとっては重要なことではないのだろう。


 「これ買うてもええ?」

 「あ…うん」


 カイキはその映画報を手に取って嬉しそうに会計へ持っていく。

 ……本当は気味の悪い冗談だって笑い飛ばしてしまいたかった。カイキは何年生きているのだろう。

 

 

 かなり古書店巡りに時間を費やしていたようで、すっかり日が暮れて、気がつけば夕闇が空をほとんど支配している。

 カイキはといえば、「寒ない?ご飯食べに店入ろか」なんて呑気にそんなことを言っていた。

 「あそこ、大きい看板!どお?」

 指をさした先には有名な激安イタリアンのファミレスがあって、「あんだけ大きい看板出してはるの、自信あるからやで。なあスズちゃん」と謎の理論を振りかざしている。


 「美味しいよ。行く?」

 東京まで出てきてチェーン店で食べるのは勿体なくない?と言いかけたが、カイキはもうそこに行く気満々のようで「美味しいのって何があるん?」と私に聞いたりなんかしている。

 

 結局私たちはそこで食事をとった。久しぶりの外食に舌づつみを打ちながら、私はぼんやり頭の中を整理していた。

 

 カイキは実在する人物で、イマジナリーフレンドではない。

 電車もそうだし人混みでもそうだが、周囲の人間はしっかり彼を認識し避けていた。思えば古書店の店員との会話もそうだ。しっかり成り立っていた。ファミレスでだってウエイトレスは私たちに向かってハッキリ「二名様」と言った。


 しかしコイツは紛うことなき栄螺である。人に化けて言葉を話すが、コイツの正体は栄螺なのである。

 栄螺が人に化ける話なんてあっただろうか?キツネやタヌキ、ネコならまだわかるが、サザエだ。海の中に転がる人畜無害な小さい貝だ。

 名前も年齢も不明だが、金はたんまり持っている。

 

 私以外の人ならば、この時点できっと彼の身辺調査を行うだろう。家から追い出したり、自信で調べるのに骨が折れれば探偵を雇ったり、はたまた気味が悪くて警察に突き出したりするかもしれない。家に置いておくのはかなりためらわれるはずだ。


 そもそもそれは出会った時点で言えたことだった。イマジナリーフレンドであるという認識があったとしても、それを拒絶し受け入れない姿勢をとることも出来た。しかし私はそうしなかった。どうでもいいからだ。むしろ、一人で虚しく人生を終えるよりもマシだとさえ思えた。私の隣で言葉を話し、その行動に目をつけて反応してくれる誰かの存在に、鬱で苛まれた傷だらけの心が癒えるのだと思った。私の脳が、この状態で四ヶ月ももたないことを察し、それまでの延命措置として編み出した存在なのかもしれないと思った。

 でも、全て違う。この男は実在する。

 

 私はどうしたらいいのだろう。

 どうもしなくていいのだろう。

 

 こんな奇妙な日記が一つ残ったところで、気が狂った女の妄言だと一笑に付されて終わるだけ。

 

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 カイキのせいで。

 

 

 

 ───────────────

 

 

 ………日記をつけることが億劫になってきている。

 何週間もあけてしまって今はすでに十一月も終わろうとしている。今まで何をしていたかといえば、家で寝て食べてを繰り返し怠惰な生活を送り続けていただけで。

 しかし遺書だと思えば書くしかあるまいと何とか綴る。無味な毎日を少しでも記録に残そうと思う。

 ───あの男はまだ私の隣にいる。

 難しいことは考えない。この四ヶ月はそうしようと思ったから、気になることに目を向けるのはやめた。どうせ探ったってろくな結果は出てこないと思った。だって相手は化け物だ。

 彼は私のそばにいる。かれこれ一ヶ月半ほどずっといる。

 

────────────

 

 さて、何も無い日は大体昼まで寝て、15時あたりにお昼を食べる。夕飯は20時にとって、深夜3時に眠る生活を繰り返している。時間に囚われずやりたいことを好きな時にやる至高の堕落である。


 しかしカイキがそれを良しとしなかった。なぜならヤツは毎朝きっかり八時に起きて、家中のカーテンと窓を開けてまわるのだ。それから私物のラジオをかなりの音量でかけはじめ、「んっふふ」と気味の悪い独特な笑いをこぼすのである。


 眩しい、うるさい、気持ち悪いの三重苦ではどうにも目覚めるしかない。否、目覚めざるをえない。

 「ちよっと…音量…近所迷惑…」

 「はいはい」


 私が寝ぼけながらカイキに言って、カイキは生返事をしながら音量をいくらか下げる。毎回このやりとりを繰り返している。

 この栄螺は、ラジオの音量を予め下げてから聞けと言っても聞く気がないらしい。

 いくら寝ぼけていたとしても、言葉を投げかけてしまったが最後、眠気はうっすらと距離を置いて消えていくのだ。


 「おはようさん。ご飯食べよ」

 「はあ…」


 カイキは細い目を釣り上げて、ニコニコ楽しそうにしながら言った。

 私は冷蔵庫に辛うじて転がる卵を二つ出すと、ほんの少しフライパンに油を引いてその上にのせる。

 ジュワワ、と軽やかな音をあげながら白身がじわじわ固まっていく様を眺め続けた。

 それからフライ返しでひっくり返して今度は黄身を焼いていく。

 カイキがいつの間にか隣に来て、賞味期限ギリギリで安くなっていたパンを二切れ取り出すとトースターに入れて焼き始めた。

 ジジジ、とトースターの時間をいじる音を聞くと、カイキは必ず「おもろいなあ」と言った。何がどう面白いのかは分からない。


 そうしてカイキはパンが焼き上がるさまをまじまじと見つめ、「トースターの中、真っ赤やなあ」だとか「熱いんやろか」だとかなんだとかぶつぶつ言った。焼けると「あち」と言葉を零しながらお皿に出して渡してくれる。


 熱々のパンに目玉焼きをのせると、その上に醤油をかける。醤油を吸ったパンと目玉焼きは本当に相性のいい組み合わせだと思う。

 小さいローテブルにパンと水道水をいれたコップを置いて、カイキと向かい合わせながら手を合わせる。

 「「いただきます」」

 カイキが居着いてからすんなりこんな朝のルーティンが定着した。毎日朝ごはんをしっかり食べるなんていつぶりだろう。

 

 ─────────────

 

 この前東京に行ったきりお金は貰わなくなったし、カイキも使わなくなった。それでもたまに何か買ってきて分けてくれることもあったが、目を瞑れるほどのもので、大して大きな買い物はしなかった。


 だが、食事はカップラーメンからパンと目玉焼きになったし、大量の冷凍食品も減っていった。ただ空腹を満たすだけなのに手間はかかるし時間もかかるが、必ずカイキが横にたって手伝ってくれた。

 

 ……それが心地よいと感じてしまった。

 

 お金が問題ではなかったのだ。裕福な暮らしが問題ではなかったのだ。人間らしい生活を送れることが恐ろしいのではなかったのだ。


 人肌恋しい思いを数年噛み締めてきた私からすればあまりにも手放しがたく、気がつけばその居心地の良さに陶酔していた。化け物だと何度も言い聞かせたが、恐ろしさよりも寂しさの方が勝ったらしい。恐怖に身を縮こまらせるようなことはなかった。ずっとこのままでいいのに。


 お金があれば?違う。毎日風呂に入ることができれば?違う。

 

 彼がいてくれたなら。

 

 しかし私は改めてゾッとした。酷く執着し始めているのだと客観的に見据えてからようやく恐ろしさが込み上げた。

 それだけはいけないと頭の片隅で警笛を響かせながらも、カイキの体温に、カイキの声に、カイキの匂いに、カイキの仕草に『安堵』を見出していた。

 

 得体の知れない化け物を相手に得体の知れない感情を抱きはじめている。

 

 私は酷く混乱した。だが、実をいえば今になって初めて気がついたことではない。この数週間筆が進まなかったのはそのせいもある。ずっと考えていた。


 思えばあの東京へ行った日から、私が突き立てた人生の締めくくりまで真っ直ぐ伸びた芯がどこか歪に歪んだ気がする。

 死ぬってなんだろう。私はどうして死ななければならなかったんだろう。

 生きるってなんだろう。私はどうして生きなければならなかったんだろう。

 ここまでくると最早哲学の部類である。

 バカバカしくなったが、どうにも地に足がつかない、どこを飛んでいるのかわからない不安の募る浮遊感が私を襲う。

 バイトを辞めた日の浮遊感はこんなに重苦しいものではなかった。もっと軽くて優しいものだったのに。

 

 ──ずっとこのままでいいのに。

 

 初めの頃に抱いた不安が大きく成長した。

 私は結局どうすればいいの?この男がいっそ私を殺してくれたなら。

 

 わからない。何もわからない。この男が誰なのかもわからない。

 

 ただわかるのは、私はこのまま生きてはいけないという事だけで。

 バイトも辞めて収入もない。今から働き出す気力もない。親に頼れるような関係でもない。頼れるような友達もいない。どうすればいいのか分からない。一番の原因だった寂しさを埋める誰かがそばに居るのは、心地がいい。当たり前だ。

 

 ああ、そうだ。

 振り出しに戻った気がした。

 こういう、ぐちゃぐちゃから逃げるためだった。そうだった。

 

 もうなにもかんがえたくない。

 

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 【ページが何枚か破られている】

 

 ─────────────

 

 子供のころに感じたわくわくを一切感じない。何にも興味を示せなくなっている。好きな物が年々減っていく。

 諦めること、妥協することが得意になった。幸せな顔をして生きる他人を見るのも辛くなった。憎くて仕方がない。他人の幸福が許せない。助けてほしい。

 

 ─────────────

 

 

 昼下がりの正午になると、私の部屋に日が差し込む。その温度は非常に高くて、一月の気温を感じさせないほどで。まるで春を感じる心地よい温かさなのだ。

 フローリングの床に寝転がりながら、何年も掛かったまま一度も洗ったことのない薄いカーテンから外をぼんやり覗き込む。

 髪の毛は相変わらずボサボサで伸ばしっぱなし、シャンプーもリンスも薄めて使う。いや、最近はそもそも風呂に入らない。

 どこか遠くで鳥が鳴いた。なんの鳥なんだろう。どうでもいいか。

 

 ───最近、やることなすこと全てがどうでもよくなった。

 最近じゃない。元からだ。何かをしようという気力も起きない。全てを無視して寝転がる。目を瞑る。好きな時間に寝る。起きる。お腹がすいたら何かを口に入れる。寝転がる。外を眺める。怠惰を通り越して屍である。夢見は最悪だ。いつも誰かが死ぬ夢を見る。魘されているかもしれない。必死に助けを叫ぶ自分の声で起きたこともあった。早く死のうと思う。


 カイキは無視することにした。うるさいからもう追い出した。

本当にどうでもいい。ガスも水道も止まった。


 日記を書くことも面倒くさい。明日にでも死んでやろう。私の人生って何だったんだろう。塵だろうか。間違いない。

 

 諦めることってなんでこんなに簡単で最悪なんだろう。死んでしまいたい。

 

 棒付きアイスの当たり棒をタンスの下から見つけた。こんなので一喜一憂してバカみたいだった。

 アルバムは全部捨てた。思い出も全部いらない。幼い頃、将来の夢について書いた痛々しい作文も捨てた。

何でこんなのが家にあるんだ。実家から越すときに紛れ込んだのだろうか。読み返す気も起きなかった。ゴミ袋は数分で山になった。

 

 記憶も捨ててしまいたい。両親のこともカイキのことも幼少の頃の思い出も大人になった思い出も全部捨ててしまいたい。学生時代の記憶も全部洗い流してしまいたい。思い出は美化されるからとっておいてもゴミになる。多分。


 ちゃんとした病院で見てもらっていたら、少しは良くなったのだろうか。死んだ気持ちは生き返るのだろうか。そういう薬があるのだろうか。

両親はどう思うだろう。お金も子供も成績も何も残さず死ぬ我が子に対して、何を思うのだろう。

嘆くのだろうか。思えばそんなに嫌なことばかりじゃなかったかもしれない。ここまで育ててきてくれたことに素直に感謝しなければならない。聞く耳なんて持たないだろうけれど。

 

 きっと最後だ。明後日には家具を全て捨てようと思う。予定していたよりも短くなったが、私の人生は近々終わりをむかえる。

 

 大体、何もしないで遊んで暮らそうなんて思うこと自体、自殺を早めるひとつのキッカケだった。人間というのは忙しくても死ぬくせに暇すぎても死ぬらしい。精神が先に参った。


 思い残すことなんてなにもないけれど、最後に桜が見たいと思った。一月じゃまだまだ咲かないか。花見をしたかった。お弁当をもって、桜の木の下のベンチに座って話をしたかった。

 カイキは今どこで何をしているだろう。深い海の底に落ちればまた会えるだろうか。

 

 と、いうか。

 

 ───それこそ本当に、全部私の妄想だったりして。

 

 

  この日記を眺めながら餓鬼地獄と言葉を零す。

 

 書き込むのすら億劫だ。はじめから分かりきっていたではないか。

 嫌な人生だった。

 

 

 ─────────────

 

 

 全財産は数えたところ八万と五千二百八十七円。勿体ないから道中落として歩こうと思う。拾ってくれた誰かが好きに使ってくれるといい。


 家具も服も全てゴミに出して綺麗になった部屋を出る。服装はこの日のために残したカイキがいつだか買ってきたものと紺色のカーディガンを羽織る。


 時刻は正午を指す昼間。天気は晴れで、少し冷たい風のある一月二十日。


 雲の移動が早く、頭上にはゴウゴウ音を立てながら飛行機がひとつ通り過ぎていった。


 家から駅まで歩いて向かう。何も無くなった部屋の鍵を締め、抜かずにそのままぶら下げておいた。


 持ち物は小さな緑のショルダーバッグ。中身は現金がむき出しで転がっていて、そこに一冊本が入っている。題名は「落語とおんな」。そういえばカイキが落語をやる姿を見たかったんだった。

惜しいことをしたが、しかし今更である。


 歩きながら冷たい風に当てられ、手は指の先まで冷たくなった。歯は何もしなくてもガチガチなるし、身体もぶるぶる震えてくる。やはりジャンパーを捨てずに残しておけばよかった。


 駅までそんなに時間はかからないのだが、道中大きな石があればそれを拾っていくつかカーディガン、ズボンのポケットに入れた。水に沈む際、重しになってくれると思った。


 ざりざり、地をふみしめる音をならす。カイキとブランコに乗った時のことを思い出した。

 

 駅につく。切符を買った。二時間かけて目的の海岸へ向かう。片道だけで二千二百九十四円かかるらしいが、何も問題ない。乗り換えは一回。電車が来るまであと七分。ホームで待つ。

 

 ホームには人が一人二人、片手で数えられるほどしかいなかった。もともと小さい駅なうえに真昼間であるから尚更だろう。


 腹がぐうと音を立てたが、何も食べない方がいいと思って腹には何もいれなかった。

あれ、となると私の最後の晩餐はなんだっけ?なんて考えながらホームに立つ。


目の前で小鳥が枝のような足を動かして点字ブロックの上を跳ねて行った。線路の中にカラスが舞い降りて石を加えてどかし、何かを埋めている。

そんな姿をぼんやり眺め続けていれば電車はすぐにやってきた。数駅過ぎたら、乗り換える。


 そういえば電車は好きだった。眠たくなる揺れと、昼間の光を差し込みながら高速で移り変わる情景を眺めることも好きだった。


 今は全く聞かなくなってしまったが、学生時代に好きだったアーティストの曲を思い出す。昼間によく合う綺麗なメロディが印象的だった。未だに口ずさむことができるほど、しっかり覚えている。


 カイキが隣に座っていたことを思い出した。

どうでもいいか。


 乗り換えた際、運良く端に座れた私は目を瞑って壁に寄りかかる。

 この電車に乗っている人間たちは、私のことを認識などしていないだろうが、今から私は死ぬのだ。そう考えると面白いようなくすぐったいような心持ちになった。


 ああ、乗り過ごさないように気を張っていないと。しかし私の意志とは裏腹に瞼は重たくなっていって気がつけば深い眠りに落ちていた。

 

 

 

 「スズちゃん、起きぃ」


 「あれ……」

 「ずいぶん早いやん。四ヶ月はもうちょい先やで」

 「そうなんだけどね…」


 ガタガタ揺れる車内で、誰かと問答を繰り返している。薄ら目をあけてみると、車内に乗客は誰もいない。あれ?とあたりを再度見渡す。全ての席が無人で、隣の車両も無人で。


 外の景色は夕暮色、眩しいほどに真っ赤な夕日が窓から差し込んでいて、サアと冷や汗が肌を伝った。

 寝過ごしたのだろうか?まずい。ここはどこだ?今は何時だ?


 「スズちゃん」


 そうだ。私は誰かと話をしていた。声のするほう、すぐ隣を見れば、薄い茶髪を一つに結んだ丸メガネ、くすんだ青色…インディゴブルーの着流しの胡散臭い関西弁を話す男。


 「カイキ。なんで?どうしてここに?」

 「偶然やな。たまたま電車に乗ったらスズちゃんがおってん。あたしのこと、よくもまあ邪険に扱うてくれたなあ?ん?」


 思い返せば、いつの日か、私は子供のように泣きながらカイキを外へと追い出した。……ような、そんな気がする。

気が動転していたように思うが、上手く思い出せない。めんどうくさい。


 「怒ってるの?カイキ、ここはどこ?誰もいない」

 「あたし、海の底に住んでんねん」

 「前も聞いたよ」


 この男の表情が読み取れない。しかし、怒っているような雰囲気はなかった。いつものように掴みどころのないふわふわした笑顔で、私の問を無視しながら語り出す。


 「あたし、栄螺やねん」

 「知ってるよ」

 「来年で百五十二歳になる栄螺やで?珍しない?」

 「長生きだね」


 ガタガタ、妙に現実味のある電車の音と、真っ赤な光でいまいちよく伺えない窓の外。

これは夢だと思った。自我のある夢だ。なんだかデジャヴだ。


 「栄螺ってそんなに長生きするんだ」

 「んふふ、あたしだけやで。あたしだけ特別なん」


 自分が今何を喋っているのか理解出来ない。頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出している。


 「じゃあ私も長生きするよ。カイキの弟子になろうかな。落語家なんでしょ。女流はダメ?」

 「女流だってええんやないの。あたしは別嬪が喋ってた方が興味わくもん」


 踏切をひとつ通り過ぎた気がする。カンカンと耳うるさい警笛が遠くで聞こえた。


 「ごめんね。私、きっと病気なんだ。おかしいんだ。病院に行って診断してもらったわけじゃないんだけど、きっとそうだよ。脳も心も変になってるんだ。追い出してごめん」


 カイキの肩に寄りかかる。


 「凄い偶然やけどな、あたしスズちゃんの部屋に住んでたことあるんよ。そこで人を殺してんねん。奪った金を盗んで栄螺になって逃げてん。そんな生活を続けてんの。死体処理には困らへんのよあたし人食べるの好きやから。昔は騙かしてたんやけどな、やっぱり人肉ってちゃうやん。力がつく。人に化けるにも体力使うんよ。たくさん蓄えておきたいからその分たくさん食べんねん。今は昔ほど緩ないから大変になったんやけど、まさか栄螺が犯人なんて誰も思わへんやん?カメラに姿写ってもうてもバレる前に海に逃げたら完全犯罪や」


 カイキがペロリと舌を出して私を見すえる。


 「カイキのおかげで安く住めてたんだ、私」

 私は変わらずカイキの肩に寄りかかったまま、ぼうとしている。


 「ほんまは男が美味いんやけどな、選り好みできるほど力なかった。スズちゃんが拾ってくれへんかったら危なかった。懐柔して心酔させたところで殺すつもりやった」


 「そっか」


 「でも、なんか不器用やなあこの子、て思たら可愛く見えてん。あたしほんま不器用な子ぉに弱いんよ。太らせたいのもあったけどな、スズちゃん痩せてはったから。せっかくなら肥えてた方がええと思て」


 カイキの長髪が揺れる。夕日が反射して綺麗だった。


 「律儀にまあ日記なんてつけはって可愛ええ子ぉやねえ。うっすい紙やから裏側にボールペンのインク滲んではるやん。このくらいええもん買うたらええのに、そんなにお金ないんやなあ。急に贅沢なったらどうなるんやろなあ。お金はあるし少しずつあげてみたらどんな反応するんかなあて」


 景色はかわらない。陽の光もかわらない。自分の濃い影が目の端にチラリと動く。


 「あたしはずっとお金が物言わせるんやって、それだけは気張ったろ、でも働くん面倒やさかい盗んでもうたらええんとちゃうかなあ、人のもん横取りしたら楽やもんなあてスタンスで生きてんねん。だって栄螺やし。産まれた時から何も大事なもん持ってないから大手を振って悪事を働けるもん」


 カイキは薄黄色の扇子を懐から取り出した。


 「スズちゃんも今それに近い。もう死んでもええ、て大事なもん全部放り出すのって人間は結構難しいらしいで」


 何を伝えたいのか私にはわからない。

 

 「これからどうしよか」

 

 カイキが私を見て微笑んだ。私は身体を引いてその顔を直視する。途端、外の景色が一変して海の底へと切り替わる。


 しかし電車は相変わらず線路の上を走り続けているようで、ガタガタと音をたて揺れながら進んでいく。深海の底へと向かっていく。車内の電気がついて、暗い海の底を照らしだす。


 「どうしたらいいんだろうね。カイキに私の命あげる。食べてもいいよ、太ってないから美味しくないかもしれないけど。……惰性で生きていくのは飽きちゃった。やっぱり死ぬしかないと思う。もう脳みそも腐っちゃったんだ、何も考えられない」


 ガタン!と大きな音を立てて電車が壊れ始める。水が入り込んで、足元を濡らしていく。私たちのいる車両もヒビが入って天井が割れ、ボロボロに粉砕していった。


 正真正銘、海の底へと私の身は投げ出される。ふわりと髪の毛が重力なく漂い、頭からゆっくり沈んでいく。私は止めていた息を吐いた。あぶくが音を立てて消えていく。海水が目にしみて痛い。私はカイキの手をぎゅうと握って目を閉じた。

 

 「全く、ええ大人が石なんか持ち歩いてまあ」

 

 声を聞いて、薄く目を開けると、大きな栄螺から人間の腕が伸びていて、その手が私をしっかり握っていた。

 ああ、サメを殴るって言ってたけど、こういう事だったのか。特別も特別だ。カイキにしかできないじゃないか、こんなの。

 

 ──────────────

 


 水死体は醜いものらしい。ゴムみたいに膨れ上がって白くなり、とてもじゃないが直視できるものではない。

 その姿が似ていた力士、成瀬川土左衛門から名前をとって今でもよく聞く水死体の別名、土左衛門と言うのだそうだ。………こんなことはどうでもよくて。

 

 私はまだ日記を綴る。

 

 久しぶりに両親の元へ帰った。五年ぶりの帰省に二人とも驚いていたが何も言わなかった。私が住んでいた部屋は空き部屋になった。伸ばしっぱなしにしていた髪の毛を切った。両親からお金を借りてスーツを買った。ずっとしていなかった化粧をした。母が作ってくれるご飯をお腹いっぱい食べて、布団で眠る。枕元には五百円の古本と百均の薄いノートが一冊。それから。

 

 「ま〜た桶 生活かい」

 「私がちゃんとお金稼いで養うから待っててよ。またあの部屋を借りるからさ。飽きたら食べていいよ、私のこと。あ、でも両親の居ないところにしてよ。ビックリするから」


 塩水に浸された大きな栄螺。


 「カイキがいてくれたら、頑張れる気がするから、大丈夫。たとえ栄螺鬼っていう化け物だったとしてもね」


 ────形を合わせればいいらしい。


 ダメだと諦める前に、形が合うかどうか確かめるといいのだそうだ。

 合わなければ拒絶されるし、物事は全く進まないが、少しでも合えば受け入れてくれるしミリ単位であろうと進んでいく。世渡り上手になるにはもちろん妥協も必要だけど少しの我儘も必要やで、と、これは栄螺の受け売りだけど。


 私は案外料理が好きだ。料理と言ってもトーストの上に目玉焼きを乗せて醤油をかけたものしか作れないが、近々レシピ本を買おうと思っている。


 それから、私は落語が好きだ。ネットにあがっている寄席の映像を何度も繰り返し見てしまうほどで。お金に余裕が出来たら、チケットを二枚買うつもりだ。

 でも一番好きなのは。


 「はい、今日はうどん。お母さんが作ってくれたの、カイキにもあげる。私も手伝って作ったんだよ。今夜は寒いから暖かいうどんが一番だね」

 「へえスズちゃんは料理からきしやのにオカンは上手なんやなあ。さっそく頂きます」

 「私も手伝ったんだってば!茹でたりしたんだから」

 「ええ、茹でるのって簡単やない?」


 カイキは人間の姿を取ると、あのインディゴブルーの着流しに腕をサッととおして、胡座を書いて座る。

 うどんを箸ですくってふうふうと息をふきかけて豪快にすする。美味しそうに食べるカイキを見て、さっき食べたばかりなのに私もお腹が空いてくる。

 あっという間に平らげたカイキに、私は言うのだ。


 「お客さんうどん一杯、拾六文です」

 「ああ、そやったそやった。ちょっと銭が細かいねん、手出して受けてくれるか?」

 「はいはい、いいですよ」

 「いくで?一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ…………あぁうどん屋、今なんどきや?」

 「ええと……九つですね」

 「ああそう。十、十一、十二、十三、十四、十五、十六。よし、これでええな」

 はいちょうど。ありがとうございました、と私が言えば、カイキは笑って言った。

 「やっぱり別嬪が話すの、ええなあ」

 

 

 

  

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