階段の踊り場から踏み出す日に(続・続 足音~完結編)
ひと月半ほど前、自宅で危篤状態となった義母。
これまで幾度も危機はあったが、これは今度こそ本当のお別れなのだと一同覚悟したあの日。
呼吸も心拍も弱り薄れゆく意識の義母と最期の別れの言葉を交わして、救急車は出発した。
幸いにしていつも通い慣れた病院に運んでもらう事が出来、救急救命処置のお陰で何とか一命を取り留めたものの、意識は依然混濁し完全な寝たきり状態となったのだった。
入院当初は今にも電話が鳴るのでは、と一日じゅう身構えながら、没後の準備と回復後の準備を並行して進めることに。家族はほぼ毎日病院と家を行ったり来たり。
その最中にも事態を知った義母の兄弟や親戚衆の来訪・見舞なども頻繁にあり、落ち着かない日々が続いた。
義母の方は、24時間ベッドの上でゆめとうつつを行ったり来たり。容体は日替わり、面会のたびにアップダウンが激しかった。一度は「お父さん(亡夫)がゆうべここに来て、その椅子に座ってね、ずっと喋っていったのよ」と弱々しい声で語ったことも。
「よかったね。母さんが暇そうにしていたから様子を見に来たんだね」
家人は一応そう返したが、だれもが「お迎えに来たんだな」と理解した瞬間だった。
その数日後だったろうか。主治医の先生から直々に、早朝電話が入った。
「下血した、大量出血で命に関わる、輸血の必要があるので承認を欲しい」というものだった。
褥瘡から出血したようだが、それ以外にも原因がありそうだから検査も進めると説明を受けた。
そして2日間に渡り、輸血が行われた。
検査結果は、疑われた子宮がんや大腸がんなどは見られないとの見解だった。再度の出血が懸念されたが、再発はなく容体は少しずつ安定へと向かった。
そんななか、消え入りそうな吐息みたいな会話でも、認知自体には左程不足が無いことに驚くことが度々あった。
元気なころから我が儘と頑固が年を追うごとに強くなってはいたが、意識が戻り少し状態が回復に向かい出すと、その傾向が一層鮮明に現れるようになった。
特に顕著だったのは、彼女にとっての生き甲斐ともいえるような「三種の神器」的アイテムへの拘りぶりだ。
1.目薬 2.ティッシュ 3.リ〇テリン洗口液 である。
1.目薬
5種類くらいあって、一日4回。2-3種類を各5分おきに滴下する。タイマーをセットし定時に差すのだが今は自分でできないため、入院当初にお願いして看護師さんに滴下してもらうことになった。
翌日面会に赴くと、そのやり方がどうにも意に添わないと、意識が戻って間もないのにすごい剣幕で不満を言い出した。
もともとの激務&インフル・コロナの猛威でスタッフも圧倒的に不足しているらしい当時の院内。そのさ中に、院内処方ではない眼科薬の1日4回、5分おき数種の滴下を厳密にと要求された看護師さんたち、到底義母の満足いくように対処しきれるものでないことは、どう考えても明らかなことであった。
しかしなだめてもすかしても納得しない義母だった。寝たきりの不自由さや苛立ち、心細さも分からないではない。やむを得ず家族が面会に毎日通った際に滴下してあげるようにして、足りてない部分を補った。
どんな状態に陥っても緑内障の目薬は欠かしたくない。見えている片目の視力を失う事が何よりも嫌なのだと、元気でいた頃とまったく変わらぬ頑固さで貫いていた。
いま明日をも知れぬほど切迫した身体状態にあるにもかかわらず、1歩も譲らぬそのこだわりぶりは、もはや目的と手段が逆転していた。
しかし彼女にとっては死活問題で、その長年の日課がある意味生き甲斐のようになっていたのである。
2.ボックスティッシュ
意識もうろうとした中でも決して手放さず、大事に抱き枕の如く胸に抱えたティッシュボックス。
抱きしめるように眠る姿に「なんで?」と尋ねると「だって油断すると看護師さんがすぐに手の届かないところにおいちゃうから!」
そういえば自宅でも常にティッシュは傍に。部屋のありとあらゆるところにティッシュが置かれていたっけ。
綺麗好きの義母は、なぜか何でもかんでも汚したくないと思うものはティッシュに包みたがった。
とはいえ使用済みみたいなティッシュや手回り品が山盛り散乱しているのは、全く気にならないらしいのがなんとも不思議だったが 笑。
そして目薬を差すときにも絶対に欠かせない。ボックスティッシュは何よりも大事な必須アイテムのひとつなのである。
3.リ〇テリン洗口液
以前自宅で半寝たきり状態に陥った際に、歯磨きが出来なくなってそれを補完するために導入した洗口液。
最初は辛さを嫌がっていたが、辛くないやつに変えてベッドの上で処置してあげることが続くと、徐々に慣れ、効果のほどを自覚。その後自分で歯磨きできるように回復してからも習慣化していたやつだ。
歯のケアを非常に大切にしてきて、8020で何度も表彰されている人だった。今般の入院でも、歯磨きが難しいため洗口液を使うようになった。
看護師さんに頼むことが億劫だというので、目薬とあわせてこの洗口液でのぶくぶくうがいを日々のルーティンとして、入院中ほぼ毎日、面会時に欠かさず行った。
この3種の神器と共に過ごした入院生活。当初は話をすることもやっと、意識も混濁しあちらとこちらを行ったり来たりしていたが、輸血後の回復は皆の予想をはるかに超えるものだった。
直近では、おやつにと差し入れした干しハチミツ梅や小粒せんべいに不自由な手を伸ばし、いつの間にか一袋を空にして「美味しいわー、もっと持ってきて」とねだるまでになっていた。
あの日「お父さんがゆうべ来てくれてね、そこに座ってずーっと話していったの。不思議なんだけどね、こんなこと初めてよ」とゆめともうつつとも区別がつかない話を、頻りに繰り返した義母。
それを聴いた家族一同(おお…きたか、きたのか…)とリアルに背中がざわっとしたのだが…あれは一体何だったのか 笑。
ほんとにタダ暇そうだから様子を見に来た、だけだったようだ……。
フェイントが過ぎるぞ じいちゃん。
大酒飲みでやんちゃな問題児、幾つになっても子供みたいだった義父。それを我慢強く支え長い事苦労し通しだった義母だから、今般は「行こうよ」という父の手を「いやよ」と振り払ったのかね…それはそれでそれらしいな…とも思える。
B29がバラ撒く焼夷弾が降り注ぐ中を逃げ抜き、戦後の焼野原を母親一人と兄弟たちで身を寄せ合い生き抜いてきた人だ。戦後史に残る台風災害の時も、腰まで水に浸かり家財一式流されても生き延びた。
彼女の辞書には「今日も、明日も生きる」という言葉しかない。「もう十分に生きたから、もういいわ」みたいな言葉は存在しないのだった。
生への執念ともいえる、驚くべき粘り強さ。けど決してがつがつと「がんばるわ!負けないわ」という感じではなく、淡々と事態を受け止めては自分の都合よい風に捉え、明日を信じた結果、好転していく…そんな風なのだ。周りもそのペースに巻き込まれていく(良くも悪くも)。
改めて、彼女の持つ生命力の強さに舌を巻いている。それを今回目の当たりにして「人間てすごいもんだなあ」とつくづく思う。
緊急搬送から1月半、下血から4週間。介護度は数段飛ばしで上がり、今も寝たきり、癌治療は断念した。それでも今日も彼女は、明日を信じて生きている。
一昨日、退院。5種の目薬とリ○テリンボトルを持って。介護施設への入所を済ませた。
ボックスティッシュは、施設で新しいのを貰ったらしい。
やがて来るだろう本当のホントのお迎えの時には、間違いなくこの三種の神器を持たせてあげねばとみなが思っている 笑。
足音 完