前世の俺を名乗る人格が脳内でうるさいので黙らせた
※冒頭読み飛ばし可
前世、というものがある。
人生は流転する。その証明が私だ。
私は今生の名を安西日路人というが、前世はロベルト・ヴェルディという名だった。
こことは異なる世界でとある国の第一王子をしていたが、敵国の奸計によって命を落とした。
私には愛する婚約者がいた。名をマチルデ・ランソル。今生では生来のものはほとんど見かけないが、あの世界では皆色とりどりの髪や瞳を持っていた。しかしその中でも特に珍しい、空色の髪と瞳を持つ、美しい女性だった。加えて、薔薇色の頬と、チェリーのような唇。彼女以上に可憐な人を、私は前世でも、今生でも知らない。
仲睦まじい婚約者だった私たちは、何不自由なく平和に暮らしていた。しかし、我が国の肥沃な大地を狙った隣国に目を付けられ、内側と外側、両方からじわじわと食い破られていった。
信頼した友は奸賊だった。尊敬した師は我々を見捨て国を去った。誰も信じることができない宮廷で、マチルデだけが私の光だった。
慈しみ深い彼女は国の現状を常に憂い、その大空のような瞳は曇るばかりで出会ったころのように晴れ渡ることはなかった。
そして、あの日はやって来てしまった。
民衆を味方につけた敵国は民を扇動し我々を打ち倒さんと宮廷までやって来た。いつも穏やかだったはずの国民たちは一様に目をぎらつかせ、言葉は何ひとつ届かず、我々王侯貴族を何某かの仇のように睨み据えるばかりだった。
もはや数えるばかりだった忠臣たちも次々に凶刃に斃れ、残るは父と私、第二王子である弟と、王妃である母、私と弟の婚約者ばかりとなった。
どうか子供たちの命ばかりはと説得を試みた母は首を刎ねられた。それに激高した父が下手人に掴みかかると、その背中を別の者に斬り捨てられた。
『ロベルト、ああ、ロベルト。どうしてこんなことに』
『すべては敵国の企てに気付くことのできなかった私たちの責任だ。すまない、すまないマチルデ』
『謝らないで、謝らないでロベルト。あなたはできうるすべてのことを為してきたわ。わたくし、あなたを誇りに思うわ』
『マチルデ。ああ、君をこんなところで、こんな形で失うことが悔しくてならない。君は常に幸福の内にいるべきひとだったのに』
『大丈夫、だいじょうぶよロベルト。神は見ておられるわ。きっと、きっとわたくしたち、もう一度、今度はなにものにも邪魔をされず幸福になれる場所で、また出会えるわ』
『ああ、約束だ。必ず、必ず君と再びまみえよう』
気付けば愛しい弟とその婚約者も血塗れで血に倒れ伏し、残されたのは私たちだけだった。
『頼む、マチルデだけはせめて痛みなく――』
言葉は途中で途切れた。なぜそこまでと言うほどの憎悪を瞳に宿した男に胸を刺し貫かれていた。視界が揺らぐ。息ができない。マチルデの姿が見えず、声も聞こえない。
ああ、どうか、どうか、神よ。おわすならばせめて彼女に安らかな終わりを。
そして、私たちに今度こそ、誰にも脅かされぬ平穏を。
ただただ一心にそれだけを祈り、ふと気が付けば。
私は新たな生を得ていた。
そして私はこの世界で十七年の月日を費やし、未だにマチルデに出会えずにいた。
マチルデのいない世界など、どれほど平和であろうと、豊かであろうと、何の意味もない。私は抜け殻のように日々を過ごしていた。毎日思い返すのはマチルデとの思い出ばかり。
こんなにも鮮明に彼女のことを思い出せるのに、けれど彼女はこの世界のどこにもいなかった。
世界中を旅して探しに行こうかとも思ったが、見付からなかったときの恐怖を想像すると情けないことに足が竦んだ。
ああ、マチルデ、マチルデ、君に会いたい。今度こそこの世界で、君と添い遂げたい。そのためならばなんだって――
「ロベルト?」
彼女ではない、けれど彼女でしかない、鈴の音のように美しい声が耳朶を打った。
囁きのような、ともすれば喧噪に掻き消されてしまうそうなほどのそれ。けれどああ、私が聞き逃すはずがない。
マチルデ。マチルデ、マチルデ!
ああ、彼女だ! 姿かたちは変われども、私が彼女を見紛うはずがあるものか!
彼女は向かい側の駅のホームにいるようだった。
早く迎えに行かなければ。ああ、ああ、このときをどれほど待ち侘びたか! この自分のものとは思えない顔も体も人生もなんと詰まらぬものかと倦み疲れていたが、今日ほどこの肉体を己のものだと思ったことはない。そうだ、この足は彼女の元へ駆け付けるためにあったのだ。今こそそのとき、
「 お ま え だ な ? 」
びたり、と足が動かなくなる。向かいのホームで私が馳せ参じるのを待っていることにしたらしいマチルデが訝しげに首を傾げたのが見えた。
体が思うように動かない。まるで支配権が私ではない誰かに移ったようだ。
「移ったんじゃねぇよ。最初から俺んだよこの夢見がち王子様がよぉ」
頭の中で声がする。誰だ、無礼な。私を誰と心得る。
「脳内お花畑で国民の困窮にも気付かずに自分たちだけキャッキャウフフしている間に力ある隣国にぜぇんぶうまく利用されて革命起こされた間抜けな第一王子だろ。国民が飢えて死んでいく横で食べる豪勢な飯はうまかったかよ?」
つーかおまえマジで人の頭ん中でぐちゃぐちゃ駄弁るだけで世界のことなんにも見ちゃいなかったんだな。世界史でフランス革命のあたりやったとき身につまされなかった? なかったよなぁ。自分が悪いなんてこれっぽっちも思ってないんだもんなぁ。というか授業受けてたの俺だしな。おまえじゃねぇし。
ああ、うるさいうるさい。貴様は誰だとこの私が聞いているのだぞ! 疾く応えよ!
「だから俺だよ。安西日路人。それ以外にいると思うか? 馬鹿がよ」
その嘲るような声を最後に、胸倉を掴み上げられる感覚がした。私の体は相変わらず動かぬままだというのに、私の魂、意識とでもいうのか、そういう何かがそう知覚していた。
視界に顔が映り込む。この十七年何度も鏡で見た、前世の私とは比べようもないほど凡庸な顔をした黒髪黒目の男。こんな顔でマチルデは気付いてくれるかと何度不安に駆られたことか。
そんな凡庸な顔の男が、私を捻り上げている。体は変わらず動かない。意識の中だけの感覚のようだ。精神世界とでも言うのか?
「あーうるせぇうるせぇ俺はこの顔気に入ってんだよこのナルシストがよぉ。きしょいんだよ鏡見るたんびに頭ん中でグチグチとさぁ」
先程から貴様は何なのだ。安西日路人とは今生の私の名だ。貴様は何なのだ!?
「だから、俺こそが安西日路人だっつってんの。おまえがマチルデマチルデ鳴いてる間誰がこの人生真面目に生きてきたと思ってんの? ボーっとしてる間にうまいこと全部回ってるとでも思ってたんか? そんなんだから国民に復讐されるんだよ」
他ならぬこの俺が。俺こそが。俺だけが。安西日路人だよ。ロベルト・ヴェルディさん。どうもはじめまして? 俺はおまえのこと知ってたけどね。おまえ全然俺の存在気付かないんだもんね。ずーーっと夢の中でマチルデのことしか考えてないおまえがなんで十七まで無事隔離もされずに生きてこれたと思ってんの? 俺が俺として俺の人生をまじめ~に生きてきたからだよ。お前が仮に安西日路人だとして安西日路人の人生になんか貢献したか? してないよな? たまに人の体の意識乗っ取ったと思ってもぼけーっとマチルデのこと考えてるだけだし。お陰で俺定期的に目ぇ開けて寝てるキャラだと思われてるんだけど??
ああ本当に。おまえよりも俺の方がこんな日が来ることを待っていたよ。人の頭ん中に勝手に巣食って、知らねぇ感情だの記憶だの流し込んで、人様の人生に浸食しやがって。夢だってほぼ毎晩マチルデとのデートだしよ。飽きねぇの? アホなの? 夢まで浸食されて真面目に元気に今日までたくましく生きてきた俺凄くない?
「ロベルト! ロベルト? ちっとも来てくださらないからわたくしから来たわ。ねぇ、固まってしまってどうしたの?」
「あー、マチルデさん? わざわざこっちまでご足労いただいたところ申し訳ないんだけど。これからロベルトさん消えてもらうから、お別れの言葉でも考えてくれる? 十秒くらいなら待つよ、俺あんたらのお陰で忍耐強いから」
「ロベルト? ……あなた、どなた!? ロベルトに何をしているの!?」
「だから俺は俺だよ。どうもはじめまして。安西日路人です。生まれたときから脳内にきっしょい変人に寄生されてた可哀想な一般人です」
前世の記憶だかなんだか知らねぇが、随分とまぁ、煩わせてくれたものだ。というかこんな気位しか取り柄のねぇ男が前世とか信じたくない。
俺の記憶は俺のものだ。俺の体も、俺の心も、俺の感情も、俺の人生は、俺だけのものだ。
それをよくもまぁ、頭の中でぶつくさ言うだけで真面目に生きようともしていない「前世」の「残りカス」が。俺を名乗ってくれたものだ。とんだ侮辱にもほどがある。
何度でも言ってやろう。
俺こそが。俺だけが。安西日路人だ。
いつも頭の端の方に居てどうにも捕まえられなかった「ロベルト」が、苦節十七年。やっと、マチルデとの再会にテンションを上げて存在を色濃くした。それを、何度も何度もイメージトレーニングしてきた通りに脳内でふん捕まえて、今だ。
見たくもないのに見せられた記憶で知っていたが。ああそう、おまえ、こんな面してたんだ。
おまえが、俺の人生の邪魔をしてくれていたのか。
そうか、おまえだったのか。
最後に会えて、嬉しくもなんともないが、感慨深くはある。
ああやっと。おまえのいない人生を俺は歩める。
『やめろ、マチルデが、マチルデがそこにいるんだ、やっと、やっと私は彼女としあわせに、』
「あーあーうるせぇな。前世で幸せになれなかったのはおまえの不始末だろうがよ。あれ全部がただの自分に何ひとつ瑕疵のない悲劇だと思ってるわけ? 何度でも言ってやるがそんなだからあんな終わり方するんだよ」
俺の座右の銘は人事を尽くして天命を待つでね。俺は俺のできることを全部やったうえでおまえみたいな最期を迎えるなら、おまえみたいに未練たらしくしたりしねぇよ。できることは全部やったってにこやかに死んでやる。
だからなぁ、おこがましくも俺を名乗る、俺じゃない残りカス。
ここでおまえ、終わっておけよ。本当はあのとき終わるはずだったんだ。十七年も神さまにおまけしてもらえたんだもうけもんだったろ?
おまえが本当にマチルデと再会して幸せになりたかったのなら、「俺」なんて塗り潰すほどにこの人生に向き合うべきだったんだよ、おまえは。それを怠ったおまえの負けだ。俺の勝ちだ。
これが漫画やドラマなら、前世の恋人たちは再会してハッピーエンドなんだろう。
脳内に植え付けられた知らない記憶や、流し込まれる感情に拒否を覚えることなく。それを自然と前世と受け入れて、再会を心待ちにするんだろう。
けど俺はそうじゃなかった。ただただ、全てが不快でならなかった。
俺の人生だ。カスがしゃしゃってくんじゃねぇよ。
『マチルデ、いやだ、マチルデ!』
「ロベルト、ねぇ、ロベルトどうしたの! 返事をして!」
「お別れの言葉それでいいの? まぁおまえらがいいならいいけど」
じゃあな、と。
捻り上げていた胸倉をそのまま遠くへ放り投げる。俺の中から出て行くように。遠くの遠く、天国とやらまで飛んでいくように。まぁあいつ天国入れてもらえるかは知らんが。まぁまぁの大罪人だと思うけどそこんとこどうなのか。
「ロベルト、ロベルト!? うそ、うそ、うそだわ、こんなことってないわ! ああ、神さま!」
「なんでもかんでも神さまのせいにしてたら神さまも可哀想じゃね?」
「う、うぅ、ロベルトぉ……!」
うずくまって泣き出してしまった、俺と違ってどことなくマチルデの面影がある美少女に途方に暮れる。俺ちょっと今イタイ感じの振る舞いしてたし。周囲の視線が痛い。違うんです。この美少女を泣かせたのはまぁ俺だけど俺のせいじゃないんです。
「日路人? なにしてんの」
「げっアズカ」
「あ? なんだ人の顔見てその反応は」
幼馴染兼腐れ縁兼クラスメイトの矢代アズカがいつの間にか俺のすぐ傍に立っていた。ドッと心臓が嫌な音を立てる。
「え、なに修羅場? あんたにそんな甲斐性あったっけ?」
「ねーよ。この人は知らん人。なんか急に泣かれた」
「やば。星座占い最下位かよ」
欠片も俺を疑うことなく、俺の言葉をすんなり信用する。部活のために短く切り揃えられた、ズボラなこいつらしいあまり手入れの行き届いていない黒髪。意識していないと睨んでいるように見られると悩んでいる、三白眼の目。
ぜんぶがかわいい。
「ていうかその人慰める気も助ける気もないならさっさと帰ろうよ。今日はうちにカレー食べに来るんでしょ?」
「行きます。行かせていただきます」
矢代アズカ。俺のまだ叶わぬ初恋。ざっくばらんで、たまに薄情で、そのくせいつだって真っ直ぐに俺を見据えて、当たり前に信じてくれる。気が向けば助けてさえくれる。
俺がいなくても一人で楽しく幸せに生きていくのだろうおんなのこ。
どうかその人生に参加させてくれと、俺は彼女に出会ってからずっと努力を重ねている。
なーにが「彼女以上に可憐な人を、私は前世でも、今生でも知らない」だ。
こんなに可憐でイカしたカッケェ女がちいせぇころから横にいただろうがよ。節穴が。
俺の好きな女は俺が決める。終わったやつが出しゃばんじゃねーよ。
「じゃーね、お姉さん。いろいろ頑張ってね」
それだけを言い残して、俺は既に背を向けてちょうどやってきた電車に乗り込んでいたアズカを追った。
名前も知らないお姉さん。あなたの頭の中が今どうなってんのか知らないけど。マチルデに掌握されきった後なのかも、俺みたいにぐちゃぐちゃなままなのかもわからんけども。
どうかあなたに幸多からんことを。
同志を見付けたような感情でそんなことを一瞬思い、けれど次にはもう俺の頭の中はカレーでいっぱいになっていた。
ああ。体が軽い。頭がスッキリする。
ああ、やっとだ。
ようやっと、俺だけの、俺の人生だ。
ハレルヤ、幸いなるかな。鼻歌を歌いながら、俺は人生を言祝いだ。