10.
「ウィルズ卿」
「はい、ミレイユ様」
「その……今から付いていらっしゃるのですか?」
「ミレイユ様をお守りする命を授かっておりますので」
先程の疲れも相まってガクリと肩を落とした。
応接室を出るとそのまま私の後ろをウィルズ卿が付いてくる、会場に戻る道すがら何度も後ろが気になって振り返るが彼が表情を崩すことは無かった。
まさかだとは思いたいが、家まで付いてくるつもりなんだろう。
肩を落としたまま会場に入る為に扉を開けると扉の前に居た人達が一斉にこちらを振り向いた。異様な光景に冷汗が流れる。
『王太子殿下の寵愛を受けているそうだけど、案外普通じゃない?』
『伯爵令嬢が王太子妃候補だなんてどんな手を使ったのかしら』
『馬鹿言うんじゃない、今から仲良くなっておくのが得策だぞ』
あちこちで、コソコソと話している声が聞こえる。どうやらティアラの戴冠式を見ていた人達の間で噂が噂を呼び一気に話が広まったそうだ。
気まずくて肩を丸めて会場を歩くと背中にそっと優しい手が添えられた。
「……リーシャ様」
「ミレイユ、大丈夫だった?こういう時こそ堂々と歩いた方がいいわ。ハロルドの所に向かいましょう」
そんなに歳も変わらないはずなのに、リーシャ様はなんでこんなに大人なのだろう。優しくて穏やかな彼女しか知らなかったミレイユは不思議に思って彼女を見つめるとリーシャ様は苦笑いを浮かべた。
「女性に人気あるハロルドの婚約者になったときに同じ思いをしたことがあるの、その時に貴女のお母様に『こういう時は堂々とする方が良いのよ』と教えてもらったのよ」
「母様が……?」
真っ直ぐ前を見るリーシャ様は美しかった、微笑みを浮かべたまま堂々と歩くリーシャ様のおかげで私も背筋を伸ばして歩く事が出来た。
少し進むと兄様の姿が見える、声をかけようと思ったがどうやら色々な家柄の者に囲まれているようだ。
きっと、私のせいだろう。
「ウィルズ卿」
「はい、ミレイユ様」
「兄様はウィルズ卿のことはご存知なんですか?」
「ハロルド・ラズ・スティール様にはミレイユ様より先に御目通り致しました」
「ミレイユ……さっきから気にはなっていたのだけれど、騎士を頂いたの?」
私がウィルズ卿と少し話をすると、リーシャ様は少し驚いた様子で私に話しかけてきた。
「はい……王太子殿下から、護衛にと。オーター・ウィルズ卿です」
リーシャ様に軽く紹介すると、ウィルズ卿は彼女よりも、頭を下げる。
「リーシャ・ラ・ディアス男爵令嬢様、オーター・ウィルズと申します。以後お見知りおきを」
「まぁ、私の名前まで覚えていらっしゃるのですね。さすが王宮の騎士様ですね」
相変わらずニコニコと人の良い笑顔を向けながらリーシャ様は利き手を差し出した。私は疑問を浮かべながらその様子を見ていると、ウィルズ卿は慣れたように手をとりその利き手に顔を寄せる。
茶髪のサラサラとした髪がリーシャ様の手にかかるとき、不意にその手を誰かが掴んだ。
「ストップ。ウィルズ卿、フリでかまわないよ」
「ハロルド!」
どうやら、ウィルズ卿はリーシャ様の手の甲にキスをしようとしてたみたいだ。
何故そんな事をしたのかわからず、じっと見つめているとそれに気付いた兄様は小さな溜息を漏らした。
「手の甲のキスは王族や王宮での親愛の証なんだよ」
「そ、そうなんですね、初めて知りました」
ああ、だからか……。王太子殿下やフィルが私の手の甲にキスをした意味が理解出来た。
どうしてそんな大切なことを教えてくれなかったの!と言いたかったが、きっとデビュタントに向けたマナー講習で教えてくれていたはずだ。フィルの事でその講習は心ここにあらずだったし、それを見抜いて兄様は溜息を漏らしたのだろう。
「申し訳ありません、ハロルド様。ご不快にさせてしまいましたね」
「いや、俺が嫉妬深いだけなんだーーー」
ふと、疑問が生まれた。
私はオーター卿から親愛の証である挨拶をされていない。
「あの、ウィルズ卿……失礼を承知で確認させて頂きたいのですが、何故私にはその……手の甲に……」
「コホン、ミレイユ。女性から手を出すのがマナーだよ、まぁ気に入った女性であれば男性から手を取る場合もあるけどね」
ウィルズ卿に質問しようとしたら代わりに兄様が答えてくれた。ボンっと顔が真っ赤になる、私……とても恥ずかしい質問をしてしまったみたい。
私が真っ赤になるのを見かねたリーシャ様が兄様を小突く、兄様は小さな声で「ごめん、ミレイユ」と言ってすぐ話を逸らしてくれた。
その後も兄様とリーシャ様、ウィルズ卿の会話もどこか自分には関係の無いようなものに感じてしまい、ぼんやりとしてしまう。
愛し愛されている関係が羨ましい……。
私はこれから、王太子妃候補でお互いを愛し合えるような恋愛は今度すぐには望めない。
そもそもが、フィル以外の人だなんて考えられないのだ。
フィルは、今何を思っているのかな。
それに悪魔のことがあるし、今後結婚とかそういうのはどうするつもりなんだろう……。
やっと自由になれるはずだったのに、フィルの事を考えるとやるせない気持ちになってしまう。
もう、一緒に居れる日は来ないのだろうか。
それこそ私が王太子妃になってしまったり、悪魔の件が解決してフィルが誰かと結婚してしまったら手遅れだ。
ーーー辛い、
俯いていると兄様が私の様子に気付き優しく頭を撫でてくれる。
「ミレイユ、色々あって疲れただろう。そろそろ帰るか?」
「……はい、お暇させて頂きます」
「俺は最後まで居なきゃいけないんだ。リーシャ、一緒に帰れるか?」
「勿論そのつもりです。伯爵にも王太子妃候補について説明しないと」
「その件でしたらすでに早馬が向かっています。もう既にスティール伯爵家には詳細が届いたかと」
「……それなら尚更事情を説明しないといけないわ」
「……?」
リーシャ様の言葉にウィルズ卿は初めて表情を崩した。その顔には“?”が浮かんでいる、王宮の早馬が知らせを届けたというのにそれ以外何を説明するのだと思っているようだった。
娘が王太子妃候補になんて知ったら家中大騒ぎになるに違いない、きっとリーシャ様はそっちを心配しているのだろう。
「帰ったら俺からも説明はする、申し訳ないがリーシャ、ミレイユと両親を頼む」
「わかりました。ハロルド、馬車の手配をお願いします」
「それでしたら、王宮の馬車をご用意しております」
驚く間もないままにウィルズ卿はスッと片腕を上げる。近くにいたであろう使用人が近寄ってきて彼と何言か交わして離れていった。
「殿下がお見送りされるそうです。こちらでお待ち頂けますか?」
「そんな、王太子殿下にわざわざ……」
「ミレイユ様は王太子妃候補です、護衛付きの馬車でなければ危険を伴います故。ご理解を」
流石の兄様とリーシャ様も突然のことに驚いている様子だ、ただ誰も殿下の申し出に文句を付けるわけがなくそこに佇む事しか出来なかった。
「ミレイユ、もう帰ってしまうんだね」
「お見送りまでして頂いて申し訳ありません」
色んな人の視線を集めながら王太子殿下に手を引かれる、人生でこんなにも注目を浴びた事がなくて戸惑うばかりだがリーシャ様に教わった“こういう時こそ堂々と”を教訓に辛うじて視線は真っ直ぐ前を向けられていた。
舞踏会の会場を出ると辺りはシンーーっと静まり返った。門の中にはスティール家の馬車とは比べ物にならないような煌びやかな馬車が待機している。
馬車の目の前まで来ると、エスコートされていた手がゆっくり離れた。
「気をつけて帰るんだよ、ミレイユ」
「王太子殿下、その……今日は有難う御座いました」
「王太子殿下では堅苦しいから是非エドワードと呼んでほしい」
「……エドワード殿下、でもよろしいでしょうか」
「そうだね、今はそれでもいいよ」
それだけ言うとエドワード殿下はふわりと私を抱きしめた。
「フィルにはこちらから説明しておくからね」
小声でそう言い、彼はすぐに離れる。
私がパッと顔を上げるが彼の表情は崩れてもいない。
ーーーエドワード殿下は何を考えているのだろう
王太子妃候補は名ばかりだと言った後に王妃の素質と言ったり、なのにフィルとの間を取り持つような発言もする。
私が疑問の表情を浮かべているとエドワード殿下はクスクスと笑い出した。
「君はなんというか、考えていることが顔に出るタイプだね」
「そんな出ていましたか……?」
「うん、聞きたい事も色々あるだろうけどまた今度お茶会の日にでも」
そうだ、国王陛下が“茶会に招待させてほしい”と言っていた。候補だ悪魔だの何やかんやで忘れてた……。
「ふふ、忘れてた?詳細はまた手紙で」
くるっと振り返り、兄様とリーシャ様、ウィルズ卿の居る方を向くとエドワード殿下は小さく頭を下げた。
「僕はこれで失礼させてもらうよ。オーター、ミレイユをくれぐれも頼む」
「はい、お任せ下さい」
「じゃあね、ミレイユ。おやすみ」
「エドワード殿下も良い夜をお過ごし下さい」
私を馬車に乗せると殿下は兄様に視線を向けた。
「ハロルド、少し話をしたいのだけれど一緒に来れるかい?」
「王太子殿下の仰せのままに」
そのまま去っていく殿下と兄様を背に皆が深く頭を下げた。あまりにも昨日とは違う世界にまだ実感が湧いてこない。
豪華な馬車の中で溜息を吐くと丁度、馬車にリーシャ様が乗り込んできた。
「帰ったら沢山話しを聞くわ」
王宮の馬車の中で下手な事は言えないという意味だろう、こんなに広い馬車なのに私には凄く窮屈に感じてしまった。