トンチンカンな男が、独り蓮池を覗く。
紫金の雲が薄桜色のお空に、薄く千切った様に広がっております。そよりそよりと柔らかく通り過ぎる風は、甘く涼やかな桃の花の香りで染められております。
極楽蜻蛉がふうわりふうわりと、湖面をすれすれに、水を揺らして飛んでおります。時折、空に留まり、尾をまあるく曲げ、つくつく、つんつんと水を突いておりました。
お釈迦さまがお独りで蓮池の畔を、ゆうらりゆうらりと歩いておられました。ちろちろろ、ちろちろろとお釈迦様の御身の周りには、細かな五色の光が、生まれて弾けて消えていきます。
――、岸辺にて、男が独り四つん這いになり、池の底をじっと見ているのに気が付かれたお釈迦さま、男にお声をかけられました。
「これ、池の底をあまり見るでは無い、辛かろう?」
深く重いため息をつく男を哀れに思われ、彼の側近く寄られました。お釈迦様もそろりと覗き込みます。
玻璃のように澄んだ水、浮かぶ大きな蓮の葉、開いた桃色の蓮の花。生まれた蕾、蜂の巣の様な実が、にょきにょき、にょきにょきと伸びております。
涼やかな風が通り抜けます。極楽鳥が、るるる、りゅいりゅいと、長い尾を引きながら舞い飛びつつ囀っております。
――、揃い覗き込む水底。通って見えるは地獄の光景。亡者達が冒した罪科を清める為に、獄卒達の手により責苦を受けています。阿鼻叫喚の世界がくっきりと視えておりました。
「ああ……あんなに責められて」
白き清らかな絹の衣に身を包んだ男が、小さく声を上げました。
「あの者達は現世において、罪を犯したのだ。それ故ああして責苦を受けておる。しかし永遠ではない、清らかになればここに来るのだから」
お釈迦様がとつとつと語られます。男はせつなげに溜息をつきました。
「あの亡者の中に……誰ぞ知り合いでもおるのか?ならば辛かろう」
優しく包み込むように話されるお釈迦様。男は無言で首を振ると、煉獄の炎で焼かれ、釜で茹でられ、針の山に追い立てられる亡者達を、一心に眺めております。変わった男もいるものだ。お釈迦様は男に興味を持たれます。
「知り合いもいないのに、何故に眺めるのじゃ?何故に悲しむ?」
「……俺は何故にここに来たのかと、思うのです」
お釈迦様のお言葉に男が答えました。
「それはそなたが、現世において、他者から感謝されておったからであろう、その徳によりここに導かれたのじゃ」
男の言葉にお釈迦様が答えられました。
「俺は生きている時に良い事はしていない、仕事をサボり早朝から並んで飯を食い、会社には外回りしてたって嘘をつき、虫を見れば叩いて殺し……、友達の悪口を言い、親の葬式にさえ行かなかったのに……何故に極楽浄土なのかと……」
お釈迦様のお言葉に男が話します。
「そなたは……」
お釈迦様は男に御手をかざされます。男の記憶がとろりとろりと流れて入り伝わります。ふむふむ、そうか、この男だったのか……珍妙なる亡者を預かれと、閻魔から話があった、この者の事だったのか……。お釈迦様は、跪き見上げてくる男に語られます。
「そなたが並んだ事により、その店は潰れるところを助けて貰うたと、殺生は、ボッカブリ(ゴキブリ)を駆除してもらい、助かったと、友の悪口とは、母親の名前を呼んだだけであろう、珍妙なる名前じゃったが……姓を『青空』名を『雲子』とはよくもまぁ、あったものじゃ。そして親の死に目に行かなかった事で、ご近所お年寄りの命が救われたのじゃぞ」
極楽浄土に相応しかろうと仰られます。
「店に並んだのは間違えて、ただそれだけだし、虫にも五分の魂って聞いてるし、いくら名前でも呼んだらダメだろ?俺わざとで呼んだもん。みんな青空さんってたのを、俺名前でしかも『うんこ』って!……そ、そりゃあの時、俺は、確かにインフルエンザになっちまって、帰るのが面倒くさくて、酷い息子と電話越しに怒鳴られた。そう!酷い人間だったのに!何故に極楽浄土なのかと……」
お釈迦様のお言葉に懸命に言い立てる男。
「ならばそなたは、地獄に行きたかったのか?」
呆れたお声をかけられたお釈迦様。
はぁぁ……、と悩ましい溜息をつく男。
『釈迦よ、この亡者をそっちで預かってくれ、どうでも地獄が良いと言いおってな、ちと調べて見たら……はぁぁ、何というトンチンカン……』
閻魔大王の声を思い出されたお釈迦様。ふぅぅと吐息をおつきになられると、頭をふるふると動かされた後、切なく地獄を見つめる男をそのままにして、その場を去られました。
紫金の雲が、薄桜色のお空に広がっております。そよりそよりと吹く風は、桃の花の香りで染められております。薄く千切った様な雲が流れて形を変えていきます。
極楽蜻蛉がふうわりふうわりと、湖面をすれすれに、水を揺らして飛んでおります。時折、空に留まり、尾をまあるく曲げ、つくつく、つんつんと水を突いておりました。
お釈迦さまがお独りで蓮池の畔を、ゆうらりゆうらりと歩きつつ物思うておられます。ちろちろろ、ちろちろろと、お釈迦様の御身の周りには、細かな五色の光が、生まれて弾けて消えていきます。
――何というトンチンカンな男がいるのやら、世も末というのか。あの亡者、ここを地獄だと思うておるな。責苦を自ら求めておるとは、閻魔もさぞや困っただろう。
ぽん!と音立て蕾が開いて蓮の花が咲いて行きます。はらりほろりと散って行く花もあります。花の蜜を吸おうと、五色の蝶達がついついつい、ついついついと花と戯れております。
極楽鳥がるるる、りゅいりゅいと、長い尾を引きながら舞い飛びつつ、伴侶を求めて囀っております。
岸辺にて男が独り、四つん這いになり、水底を眺めつつ、胸をじりじりと焦がして、悶々としながら、熱い溜息をついています。
――、ああ、一度でいい、あの虎柄ビキニ……だっちゃ!女鬼に折檻をしてもらいたい、ああ……あっちの……、アチョー!な筋肉ムキムキ太眉男鬼に金棒で、いや!ここはやはり……
アチョー!チョッチョッチョッチョッ的な……ふううん、ほぅ……それもいいな、まさに恍惚の世界、まさに天国!至福の時。ああ!どうして俺はここにいるのだろう。
「何というトンチンカンな男が居るものだ。お前たちそう思わないか?」
お釈迦様が空に御手を差し伸ばされます。袖からすんなりとした、白い腕が顕になられます。恋の唄を交わし合う番の極楽鳥が、その御手に触れようと、長い尾を引きながら、るるる、りゅいりゅいと降りてきます。
「ああ!いいなぁ、いいなぁ!しかしここに飛び込んでも……岸辺に戻るだけ、ああ……あんなに鞭打たれて、気持ち良さそうだなぁ」
トンチンカンな男は極楽浄土の蓮池を、胸焦がしせつない想いで、今日も今日とて悶々としながら、独り覗き込んでいるのです。
終。