突然の指名①
五月のうららかな陽射しが教室内に満ちあふれ、そろそろ新しい環境に慣れてきた生徒たちの眠気をひきおこす。
窓際の席ではないわたしも、うっかりと周囲の雰囲気に誘いこまれていた。
黒板の前で話す、担任である現国の先生の言葉に集中しているつもりでも、いつのまにかぼんやりときいている。
平和な日常。
ずっと続くと思われた穏やかな風景。
けれど、そのとき運命の扉が開かれた。
正確には、教室の前の引き戸がゆっくりと開けられたのだ。
何事かという表情で、先生が教科書を手にしたまま教室の入り口へと向かう。
たちまち、眠気が飛んだらしい生徒のあいだから、ざわめきが起こった。
「なにかあったのかな」
隣の席の晴香が、少し顔を寄せてささやいてきた。
わたしは小さくうなずいて、晴香と一緒に教室の入り口を見る。
出身中学の違う晴香は、高校で同じクラスになって知り合った友だちだ。
ちょっと細身の体型に新しいネイビーのブレザー、チェックでホワイトが入った膝上のひだスカートがとても似合っている。
大きな目にいつも楽しそうな口もとは親しみやすそうで、席が隣り合ったわたしは、とても幸運だ。
肩にかかるさらさらの黒髪を揺らしながら、晴香は首を伸ばす。
つられるように、わたしも興味津々の目で、先生と話をする相手は誰だろうかと呑気に伸びあがった。
その瞬間、廊下に立っている相手の顔が少しだけ見えた。
険しい表情を浮かべているが、それがさまになっている端正な横顔。
あれは三年の生徒会長だ。
たしか、綾小路凪という名前だった。
ふたつも学年が上なので直接言葉を交わしたことはないけれど、何度か生徒集会の壇上マイクの前で話をする姿を見たことがある。
家柄も良く、クラスメイトの中では憧れる子もいたが、本人は冗談も口にしない堅そうなタイプだと、いつも目にするたびに思っていた先輩だ。
その上級生が、なんの用事だろうと思ったとき。
話が終わったらしい先生が教室内を振り返る。
そして、わたしの顔に、ピタリと視線をとめた。
「木下桂、ちょっと来い」
先生の声を、まさかと思っているわたしは聞き逃して返事をしなかった。
慌てたような晴香が隣から、わたしの肘を突っつく。
「桂ちゃん、先生が呼んでるよ」
「――え? あ、はい」
自分が呼ばれたことに気がつき、わたしは急いで立ちあがった。
授業を中断してまで呼びにくるなんて。
家で、あるいはお父さんとお母さんの身に、なにかあったのだろうか?
良くないことだけが頭の中に浮かび、わたしは、クラスの皆に注目される中でクラリとめまいがした。
頭に血をのぼらせながら、なのに、手の指先だけは異様に冷えていく。
それでも、どうにか歩きだしたわたしは、先生のもとへ近づいた。
「木下、荷物はそのままでいい。いまから校長室へ行きなさい」
教室の入り口まで近づいたわたしへ、眉間にしわを寄せた先生が言った。
呆然としたまま、わたしは返事ができずに先生の表情を見る。
先生のこの顔。それに校長室?
やっぱり家で、なにかあったんだ!
そのとき、蒼白になっていたわたしの耳に、低音で凛とした声が響いた。
「先生、ぼくがつき添って木下さんを校長室まで連れていきます」
「あ? ああ。よろしく頼む」
戸惑ったような先生との会話を聞いて、まだ生徒会長が廊下にいたことを、わたしは思いだした。
先生の顔から声がしたほうへと視線を移したわたしは、そこで初めてこちらを向いた生徒会長と目があった。
その向けられた視線に、異様なほど鋭いトゲが含まれているのを感じ取り、一瞬でわたしは心臓が縮みあがる。
なんで?
どうして生徒会長は、こんな目でわたしをみるのだろう?
いろんなことが立て続けに起こったわたしは、生徒会長に促されてふらふらと歩きだした。
だから、その後ろで先生のつぶやきが聞こえたけれど、わたしの耳には意味を持った言葉として入らなかった。
「同時期に四人目か。我が校はじまって以来だ。さぞかし校長は喜ばれているだろうなぁ」
すたすたと歩いている生徒会長のあとを、わたしは遅れないように小走りでついて行く。
入学してまだ一カ月ほどしか経っていない高校生活だ。
職員室のさらに奥にある校長室など、もちろん行ったことはない。
まだ呼びだされるような事件をしでかした覚えがなく、はやく話の内容を確認したいわたしは、一年の教室がある四階から一階の校長室へ向かう階段を降りるときに、やっとの思いで生徒会長へ声をかけた。
「――あの。家でなにかあったんですか? それとも、お父さんとお母さんになにか……」
「きみは」
先に階段を降りていた生徒会長が突然立ち止まり、言いかけたわたしの言葉へ、とがらせた声をかぶせながら振り向いた。
そのために、生徒会長の背中へぶつかりそうになる。
驚くと同時に、彼より一段上にいたわたしは、目の高さが近いところで射るような視線を向けられ、思わず息をのみこんだ。
わたしの強張った表情に気がついたのだろうか、言葉を切った生徒会長は、ふっと表情を和らげる。
そして、小さく声を落として続けた。
「きみが考えているようなことは起こっていない。家は無事だし、御両親も変わらず健在だ」
そこまで口にした生徒会長は、今度は観察をするようにわたしの顔を見つめた。
生徒会長の明瞭な返事を聞いて、わたしはようやく安堵する。
大きくため息をついたわたしは、生徒会長の目があるにもかかわらず、口もとに笑みが浮かんだ。
緊張が緩んだわたしへ、生徒会長が凝視したまま問いかけてくる。
「本当に、きみが木下桂さんで間違いないだろうな」
「はい?」
まるで疑っているかのような口調の生徒会長へ、わたしは眉をひそめた。
「そうですけれど……。でも、なんでそんなことを聞くんですか?」
ちょっと心に余裕がでてきたわたしは、黙って見つめてくる生徒会長の顔を見返した。
癖のない前髪の向こう側にある漆黒の瞳は、力強い光を宿している。鼻筋が通っていて立体感のある顔立ち。
かたく結ばれた口もとは、そのまま彼の意思の強さと責任感を表しているようだ。
騒いでいたクラスメイトの様子がわたしの脳裏によぎったとき。
その整った顔のままで、生徒会長はゆっくりと口を開いた。
「そうか。想像よりもかなりイメージが違っていたからだ」
想像と違うって?
わたしは急に、自分の容姿が気になった。
百五十五センチの身長は高くない。
体重は一応バランスがとれている。
十人並の顔立ちだと思っているが、これといった特徴のない顔。
伸ばすと毛先だけふわふわクリクリとしてくる天然パーマの髪は、あまり好きではないために、肩口で切りそろえてある。
想像よりも地味だと思われたのだろうか。
それとも、野暮ったいと思われたのだろうか。
やはり、異性に少しでも良く見られたいと思う心理が働いたわたしは、可憐で女の子らしいしぐさにみえるようにと胸の前で両手を組み、小首をかしげながら生徒会長を見つめた。
そんなそわそわしだしたわたしをじっと見つめていた彼は、不意に馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「もっとできる奴が呼ばれたと思ったんだよ。――こんなぶりっこだったとは。きっとハズレだな」
そのあまりの言葉に、唖然と口をあけて絶句しているわたしを一瞥すると、生徒会長はふたたび前を向いて階段を降りはじめる。
生徒会長にとって、わたしは入学してきたばかりの一年生で、顔さえ覚えられていない大勢の中のひとりに違いない。
そんな初対面同然の人間に向かって、なんて失礼な!
さすがに抗議をしようと、わたしは身体中に怒りをみなぎらせながら階段を駆け降りる。
すると、踊り場まで降りた生徒会長はわたしのほうへ振り返ると、先ほどの蔑むような笑みを浮かべたまま、あっさりと口にした。
「そうだった。きみが呼ばれた理由は家でも御両親のことでもなく、きみ自身に関してだ」
その瞬間、わたしは傍から見てもわかるくらいに、顔から血の気が引いた。