08-10
玲奈の容体が急変した。
……いえ、玲奈の体内にあるナノマシンが急速に活動を再開した。
ゴミ処理場から漏れだした機械は、悪意なく目的をもって幼い少女の身体を苛んでいる。もう玲奈の舌は上手く回っていない。唄も歌えない。翼をもがれ、鳴くことさえも奪われた小鳥。
真也には時間がなかった。
玲奈が分解され、粒子となって散ってしまう前に、せめてその目に望んだ景色を映してやりたかった。
思い出の中にあった小さな約束。
東京タワーに連れて行ってやる。
望んだ景色を、見せてやる。
黄昏を背に、わたしたちの足は東京タワーへと急いだ。
スカイツリーが出来、電波塔としての役割を終えた東京タワーだったけれど、その特徴的な外観と、かつて東京に住んでいた人たちの思い願いから取り壊されることなく、観光名所として未だに残っている。
けれど、その特徴的な外観も分子器械災害の弊害で、サビついたボロい鉄塔にしか見えず、もちろん観光地として機能しているはずもない。ゲートを越えた入口のラウンジ、おみやげコーナーのもろもろはすでに白い砂として分解されていて、そんな東京のどこにでもある砂を売っているのはなんだかシュールだった。
もちろんその砂がおみやげなのか、それとも人間だったのか判別は利かない。
かつて生きてカタチを成していたはずの砂――そんな脅迫的な意味合いを持つ白い砂を、だから真也は強引に目隠ししてでも玲奈に見せたくなかったんだろう。
ここ一ヶ月、東京を襲い続けた悲劇に、わたしの感覚も麻痺しているのかもしれない。
いまさらなにが壊れようがなにが分解されようが――それこそ人間の命が――砂になったところで、それをモノめずらしく感じることは正直難しい。命ついでに言うと、水族館の生き物は全滅していて、水槽の底で沈澱していた。
「クソ! 電気が来てねえ、止まってやがる!」
真也はエレベーターのパネルを叩き、白い息を吐いて吠えた。
非常電源はあるのか、非常灯の小さな明かりは灯っているけれど、暖房やエレベーターなどに回す電力はどうやらないらしい。肌寒さに二の腕をさすりながら、わたしは周囲を見回す。
これといって使えそうなものはない。
階段を使う外なかった。
いまにも崩れ落ちそうな玲奈を背負う真也。
その後ろには玲奈の欠片が道しるべのよう零れ、通路を新たな白で彩っている。
5Fまで登り、大展望台へと続く外に設置された階段を使う。ナノマシンの届かない高所ということもあってか、そこはペイントが犯されることなく鮮やかな赤色が残されていた。けれど、タワーの土台部分が侵食されてしまってひしゃげていたので、ところどころ歪み、鉄骨がねじ曲がり、下手すればいまにも崩壊してしまいそうな不安定さがあった。
階段に積もった十センチ程度の白も、ともすれば足を滑らせて地上に落下するかもしれない危険を孕んでいたけれど、それでも真也は急かす足を緩めようとはしない。
途中から真也の足取りがぎこちなくなるけれど、わたしはそれに気が付けなかった。
わたしは雪を振りまく二人の後に続く。
――そうして、わたしたちが第二展望台に辿り着いたのは、すっかり夜が落ちた頃だった。
零れおちそうな満月。
ボロボロになった白いビル。虫食い車両が点々とする白い道路には誰の足跡も残っていなくて……さながら夢の中にでもいるかのように、月の薄い明りが物の形を朧げに浮かびあがらせている。うっすらと光り輝く街は幻想的なそれだったけれど、気味の悪いくらいに静寂に包まれていて、音というものがまるで聞こえなかった。
まるで静かな嘘のようだった。
割れたガラスの向こう側に広がる世界に、わたしは立ちつくしたまま息を呑んだ。
「綺麗……」
と、玲奈が吐息のように呟く。
真也の腕の中で、玲奈の身体はもう半分も残っていなかった。
一度侵食が始まり、原型を保てなくなって一部でも崩れてしまえば、誤認したナノマシンは行動を活発化させる。指を落としてしまった玲奈はその部分から犯され……もう誰が見ても長くはない。
「玲奈がいなくなっても……だれもいなくなっても、この景色は残るのかな……」
「さてな」
こんなときだっていうのに、真也の声はどこか明るかった。
玲奈がゆっくりと真也の顔を見上げ、真也は微笑む。
「残ろうが残らまいが、そんなことはどうだっていいだろ。空も街も、誰も好きこのんで夜に染まってるわけじゃねえし、こんな白に染まってるわけでもねえ。見える風景なんてもんに意味なんかねーし、綺麗なんて想いも見てる側の感想でしかねえ」
「真にぃ……」
「だから、大事なのは玲奈。お前の想いだ。これはお前が見たいって言った景色で、ついでに俺がお前に見せてやりたかった景色だ」
それ以上も以下もねえよ、と真也はぞんざいな口ぶり。
迷いがなければ、選択はない。
選択がなければ、全てはただそう在るだけ――。
ここから見える狂気的な白に蝕まれた東京は、まるでわたしを描いたような風景をしている。卑しくも自意識を持ったわたしと、ただされるがまま浸食されていく東京の街。
それを背景にする兄妹の姿は、景色なんかよりもずっと強く輝いて見える。
「にぃ……玲奈のわがまま利いてくれて、ありがとね」
真也はやれやれと微笑み、
「やけに素直じゃねーか。こっちこそだよ。ありがとな、玲奈……」
玲奈は言葉を返さない。
もうすでに形を失っていた。まるで零れ落ちる砂時計の砂のように。
真也の腕は、玲奈を抱いていた形を保ったまま動かない。
やがて、真也の手のひらから最後の粒子が風にさらわれ、得も言えない空虚だけが残った。
その後ろ姿ったらなかった。
わたしは胸の前で手を組み、固唾を呑んでいる。
ふと真也が振り向き、わたしはびくりと肩を震わせた。
「……なんであんたが泣くんだよ」
わたしは泣いていた。
「ごめんなさい」
と、謝るわたしの顔は涙と鼻水でボロボロ。
もはや自分の裡から溢れ出る感情を押しとどめることはできなくなっていた。
単純に、真也と玲奈を自分にダブらせていたからだ。
シュウとわたしに。
消失した日常に。
けれどそんなわたしを、わたしは冷ややかな目で見つめる。
ある状況下において必要だった感情も、喉を通り過ぎれば不必要なものとなる。
いまのわたしにとって、感情は追憶の中に忘れ去った一時的なもの、としか感じられない。
シュウと過ごした日常の中で必要だった、嬉しい、という感情。悲しい、という感情。切ない、という感情。そうしたそれぞれの想いも、ある環境において必要だった――日常という風景を彩るファクターでしかない。
わたしは泣いていた。
それが、この場で必要な感情だと思ったから。
「……あのなあ……」
真也は居心地悪そうに頭を掻きながら、わたしを見る。
その目は真に迫るものがあった。
「知ってるか? “泣く”って行為は、実は自分のためにしか出来ないことらしいぜ。大切なモノを失って悲しんでいる――その自分が可哀想で人は泣く。俺らは……玲奈はそんな段階もう超えてんだ」
もう全部わかっていて、最後に大切な人のために笑顔を残して消える。
それはどれだけの覚悟なのだろう。
鏡面から視るわたしは、ふとそんなことを思う。
「だから、別れ際に涙なんて流してんじゃねえよ」
「……ごめんなさい」
「またすぐそうやって謝る」
「…………」
これは私には関係のない二人の物語だ。
外野がその枠に入って涙するなんて、おこがましいにもほどがある。
わたしは頑張って嗚咽を呑み込む。
けれど、抑えきれるものではない。
「……いや、謝るのはこっちだな。キツイもんを見せた」
真也はぎこちなく笑い、
「ありがとな白姫さん。あんたがいなかったら、俺は玲奈との約束を果たせなかったかもしれねえ」
そう言いつつ、手を差し出す。
わたしは鼻をぐずらせながら、無言で真也と握手を交わした。
真也の表情がわずかに歪んだ。
わたしの手から、砕けた真也の手が零れ落ちた。
さながら、砂糖菓子のように。
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10
本当にありがとな。
もう行ってくれ。
俺はここで玲奈を見送るよ。
じゃあな。
そんなあっさりとした別れのあいさつの後。
真也の気配が遠くなってから、わたしは階段を降りながら自分の手を見つめた。
手のひらに残る、ざらりとした真也の感触。
おぞましさは――けれど、なかった。真也は玲奈の望んだ景色の中で玲奈を送り、そして自分の望んだかたちで景色に溶け込んでいった。そこには、わたしが思っていたような終わりのもの悲しさなんかなくて……。
「……もっと強くなりたかったな」
あの二人みたいに。
全部わかってて、笑顔で最期を迎えられるくらい。
ふと、彼のことを思い出す。
あのクリスマス・イブ――シュウは最後になんて言ったのだろう?
その答えがわかった気がする。
シュウは魔法の鏡だった。
わたしとは違う、最後まで純粋な魔法の鏡。
ただ映し出すだけじゃない。
シュウは選択した。
景色を彩るのは物語じゃない。選択だ。だからわたしの風景は、さながら侵食された東京のように荒廃的で排他的な白に染まっている。景色を鮮やかに色づける選択を、わたしはしてこなかった。
白は嫌いだ。
白は嫌いだ。
白は嫌いだ。
わたしなんて大嫌いだ。
それを今更になって理解したところで、けれど、いまのわたしに残されたのは、どうしようもない言い訳と、もう一度その目に――その景色に――わたしのとびっきりの笑顔を映してほしい、っていう叶わない願いだけ。
だから、
「……ごめんね、シュウ」
ごめん。
本当に、ごめん。
わたしはカーディガンのポッケから小瓶を取り出し、それをぎゅっと握り締める。
容器の中で彼の欠片が揺れた。
開けて彼に触れてみる。
砂をにじる感触が手のひらに残った。
――そして、わたしの口元から白い息が消える。
実体のあるわたしは階段に崩れ落ち、
さらさらと分解されて足元に散らばる。
実体のないわたしは、ただそれを見下ろしていた。
雪が降り続いている。
誰にも顧みられることなく。
音もなく、ただ降り、積もってゆく。
「……冬は、寒いね」
わたしは手のひらにシュウを思い出しながら呟いた。
最後にわたしを抱いてくれたシュウ。
言葉なんてなくたって、わたしはちゃんと感覚していたはずだ。
あの二人のように――わたしの見た景色の中で。
“これ”を視終わったわたしは小さく微笑む。
夜風冷たさが頬に沁み込み、さらりと流れた。
彼と混じった砂を見て、また一つになれたような気がした。
ごめんね、シュウ。
ありがとね、シュウ。
さよなら、わたし。
fin