02-03
02
「今宵も世界には、濡れた満月が揺れてて~♪ 溺れそうな僕を、照らしてくれる♪」
玲奈は軽トラックの荷台で歌を口ずさむ。
バックミラー越しに見るその姿は、まるでドナドナの子牛。
平時に首都高をこんな風に走っていれば、すぐさまパトカーに追いかけられて、捕まってしまうこと請け合だろうと思う。
でも、いまや空っぽになった車道は――隅っこに乗り捨てられた虫食い車両はあるにしても――照りつける太陽の光が、ただアスファルトを焼きつけているだけで、他に走る車は一台も見当たらない。
突き刺すような光量に、わたしの見ている眼が目蓋を細める。
もう十二月も終わるというのに、まるで夏のような日差しに目が眩む。それも見える景色全てが、雪原よろしく真っ白に染められているのだから尚更だ。
「……おい、舌噛むぞ。もうちょっとで着くんだから、大人しくしてろよ」
真也は慎重にハンドルを操作しつつ、少し不機嫌な調子で言った。
玲奈は半分隠れた無邪気な笑顔で応じる。
「だって仕方ないじゃん? 退屈なんだもん。真にぃってば、玲奈の顔ぐるぐる巻きにしちゃうしー。それにこの車お尻痛いよ。もっと玲奈のお尻に優しい車が良かったなあ……」
その揶揄するような台詞に、真也は決まり悪そうに頭を掻く。
玲奈の顔には、両目を塞ぐようにして包帯が巻かれていた。
これはきっと彼女が家を出る前に、真也が無理やり施したものだろう。
「ねえ、真にぃ。これ外していい? せっかく東京に来たってのにさー、真っ暗でなんにも見えないよ」
「ダメだ。それは約束しただろ。約束はちゃんと守れ」
「ぶー」
玲奈は唇を尖らせて、乗りだした足をバタバタさせる。
それは可愛らしい少女にだけ許された、とても愛くるしい仕草。
表情。
声。
わたしには、到底無理。
真也の本音を汲めば、彼だってこんなことはしたくないし、そそっかしくて危なっかしい妹を荷台になんて乗せて置かず、助手席に乗せてやりたい、という気持ちだって当然ある。
けど……それはこの車では少し難しそうだった。
真也はちらりと助手席を見る。
シートは白い砂で覆われていて、ドアとガラスは虫に食われたように穴だらけになっている。
流石に、こんなところに玲奈を座らせるなんてできやしない。
「……お前は余計なモン見なくていいんだよ。それより、あんまりはしゃいでると、道路に落っこちちまうぞ」
「なにそれ! そこまでドジじゃないもん――きゃっ!?」
よそ見した束の間、車が砂に乗り上げ、軽い車体が大きく跳ねた。
咄嗟に真也はブレーキを踏む。
ぐわんぐわんと身体が揺れた。
やがて落ち付き、はたと振り向くと、ちいさなお尻をさすっている玲奈の姿が目に入った。……どうやら、乗り上げた拍子にお尻が宙に浮き、荷台に叩きつけられたみたい。
こんなところまでいちいち可愛いくて、どこかオチャメ。
ずるい、と思う。
「おい、大丈夫か?」
「いたた……もう、バカにぃのバカっ! 安全運転してよっ!」
「悪ぃ、すまん」
あやうくこの寒空に玲奈を放り出すところだ、というのは真也の思考。
真也はハンドルを握り直し、努めて慎重に車を走らせた。
03
やがて首都高を降りると、東京の街に出た。
「夜が明けること夢見て~♪ 部屋の隅で縮こまってるぅ♪」
玲奈はまた歌っている。
歌うのが好きな子だというのは、わたしが“これ”を視るまでわからなかったこと。
とりわけ、人が人らしく振舞うには心許す存在がないと駄目。
それは、
『歌』
であったり、
『大切な人』
であったり。
その『心』は、環境に適応するために、知らず知らずのうちに脳が勝手に構築した、どうしようもなく継ぎ接ぎの一部に過ぎない。『ある環境』においてのみ作用する、自分として生きるために必要だった実体のない空疎な存在。
ともあれ。
静かな東京の街には、軽トラックのエンジン音と、玲奈の幼い歌声だけが響いて止まない。
連なるビル街は殺風景のそれだった。
真っ白に雪装飾された街――荒廃、荒涼的と言えば少しおしゃれ過ぎるかもしれない。
営業しているテナントは見当たらなくて、商店街に人の姿なんてもちろん見当たらない。いるとすれば、崩れたショーウインドウの中で着飾る、雪化粧したマネキンのオブジェくらいなもの。
「今度はちゃんと掴まってろよ。ちっと揺れるぞ」
真也が玲奈に聞こえるよう大きめの声で言った。
車を走らせる道路も、やっぱり平坦なものじゃない。
放置車や事故車などで塞がれてたり、あまつさえ陸橋が崩れていたりと、迂回を余儀なくされる。街に入ってからそれは顕著で、主要道であればあるほど、その事故の痕跡が大きく残っていた。
……大変そう。
ちなみに、これはわたしの素直な感想。
道路に乱雑に放置された車は例によって虫喰い状態――道こそはかろうじて無事なものの、元の形状を完全に保っている車両は全くないと言っていい。玲奈がゴネているこの虫喰い軽トラだって、これでも比較的まともなやつをチョイスしたのだろうと思う。
真也は優しいから、いつも自分以外のことばかり考える。
センスはないけど。
「……しっかし、酷ぇもんだな。ひとっ子一人いやしねぇ」
車が消え去っただけで、街はここまで静かになるのか……と、そう真也は思考する。
それもそのはず。
ここがかつて人口数百万人を抱えた大都市だったというのだから、“これ”を見返しているわたしだって驚きを隠せない。かつて絶え間なく人が行き来していただろう歩道を見ても、その雪景色さながらの荒廃的な白は変わらない。
ただ、風に流されることなく、山になった砂が多く見受けられた。
……このぶんだと、渋谷あたりはマジで地獄なんだろうな……行ったことねえけど。
と、真也はまた思考する。
「ああ――」
呟く言葉を選びかねているうちに、あくびのような声が口から洩れる。
……なんていうか……疲れた。
わたしは心の代弁者。とても局地的だけど。
ここ一ヶ月は、真也にとっても非現実の連続だったに違いない。
そんな彼の思考はこう続く。
……街に入ったことだし、そろそろ休憩を挟もうか――玲奈の身体も心配だ――と、交差点を曲がったところで、不思議な光景が目に映る。
突然、視界一面が霧に覆われたように真っ白になった。
霧……というか、真っ白な壁。
それが砂丘だと気が付いたときには、もう遅かった。
「――やっべっ!」
真也は咄嗟にブレーキを踏む。
減速こそするものの、砂に取られたタイヤが面白いくらいに横滑りし、砂丘に側面から突っ込んだ。まるで新雪に飛び込むソリのように。サンタのソリだったら空を飛んだだろうけれど、軽トラにそれを望むのは無理がある。
玲奈の小さな悲鳴が響き、車体が大きく横に揺れて、ややあって車は停止する。
そこまでの衝撃はなかった。
横転してもおかしくない勢いだったけれど、皮肉にも砂が緩衝材となって衝撃を吸ってくれたみたい。
「……やっちまった」
真也が窓から顔を覗かせ車体を見てみると、白い砂に乗り上げばっちりハマっていた。
これは簡単に抜け出せそうにない。
「おい、玲奈。大丈夫か?」
「……ううぅ……真にぃの運転もうやだ……。玲奈のお尻に恨みでもあるのかなぁ……」
またお尻を打ちつけたのか、玲奈は細い唇を尖らせる。
無事そうな妹の姿に、真也はほっと一息。
だけど、この状況は胸を撫でおろせるようなものではなかった。
それは二人にとっても。
わたしには、とっても。
「――大丈夫ですか?」
と、遠くに聞こえた『わたし』の声に、真也は振り向く。
見遣る交差点の向かい側――薄手の白いカーディガンを羽織ったわたしが、慌てた様子で駆け寄ってくるところだった。
手入れを怠ってボサボサになった髪が目につくけれど、違う視点で見るわたしもわたしで、遠目に見れば少しは可愛らしく映る。
「大変! 逃げてください! 早く!」
「え?」
わたしがなにを言ってるのか理解出来ず、真也はぽかんとする。
束の間、なにか大きな流動音が聞こえた。
はっと正面を見て、真也は驚愕した。
大変の意味にやっと気がつく彼。
ぶつかった砂丘が、少しずつ崩れようとしている――。
「……おいおい、嘘だろ……これ洒落になんねえっ!」
真也は慌てて助手席に置いてあるリュックを手に取り、車外へと飛び出そうとする。
けど、ドアが開かない。
車体の半分が砂に浸かっているから、押しても引いてもビクともしない。
「窓から出てください!」
差し伸ばされるわたしの手を借り、真也は引きずり出されるように車外へと転がる。
口の中に砂が入り、ざらついた嫌な食感が口内を満たす。
けれど、真也はそれを気に留めることなく――すぐさま身を起こし、荷台へと駆け寄った。
玲奈のことを真っ先に心配する彼。
「えっ? なに? なにが起こったの?」
必死の真也とは裏腹に、視界の利かない玲奈は、まだ状況が把握できていないようだった。
でも、だからといって悠長に説明していられるほど猶予があるわけではもちろんない。真也は玲奈を乱暴に抱き抱えると、その場から一目散に離れた。
振り返ってみると、軽トラの車体は頭まですっかりと呑み込まれていた。
……危うく生き埋めになるところだった……。
というのは、やはり真也の思考。
ふと、運転席に転がるリュックを見つける。
当面の食糧などを詰め込んだそれは、名残惜しそうに真也のほうを見ていた。
「……マジか」
マジだった。
ついでに言うと、このときのわたしが着ていたカーディガンは、シュウに買ってもらったもので。真也を助け出そうと引っ張ったときにやぶれてしまい、わたしは死んでしまいたいほど落ち込んだ。