64. 帝都へ
それは、蝋月が帝都へと向かう前日のことだ。
その封書は、書斎の机上に置かれていた。
昨夜、部屋を出るその時までは、そこになかったものだ。
「意図せぬ速度で、ほころびは拡大し続けている。ふたつの世界に渦巻く力は、濁流となり、唯一開かれた門へ押し寄せるだろう。不完全な門は負荷に耐えかね、いずれその力を喪うことになる……」
手紙は、そんな書き出しで始まっていた。
脅迫めいた言葉のひとつもあれば、蝋月は決して心を動かされはしなかっただろう。
しかしそこに挙げられていたのは、整然とした事実だった。
それを書いた人物は、推測や所感さえも付けくわえることをしなかった。
中野翼を覚醒させ、2つの世界を繋ぐ門の恒常化を図る……
絵空事だ。
以前の宣言通りだ。
世界のような大きなものに、蝋月の興味はない。
その理を作り変えようなど、思うだけおこがましいのだ。
北川に与えた無位の双眸の模造品は、ぜい弱な梃子だ。
ただ一度きり少しの間、エンジンを回すだけ。
一度きりの役目を終えれば、その梃子は折れ、二度と使いものにならなくなるだろう。
それは中野翼の中にある、棘を取り除くだけのものだ。
彼の抱える根幹的な歪みを、治すことはできない。
彼が、完全に目覚めることはなかった。
世界の理が、それを拒んだのかもしれない。
中野翼と、彼の背後にある世界を繋ぎとめておく策など存在しない。
どうにかなるさなんて。
ツバサに言ったことは、ただの気休めだ。
いま自分は、娘の思い出作りのために動いている、と皮肉を混じりに蝋月は思う。
最後にみんなで美味しいものを食べて、酒でも飲もう。
そして笑顔で、彼を見送ろう。
それが叶えば、もう上出来じゃないか。
ツバサが悲しみから立ち直るまでには、長い時間がかかるかもしれない。
けれどできる限りのことはしたのだ。この別れは避けられない。
しかしこの手紙は、その結論に水を差した。
「ねえ、国本さん。これどう思う?今朝届いたものなんだが」
国本女史に、蝋月は手紙を見せた。
「え?ご自分でお書きになったものでしょう?」
「ん、確かにうちの便箋と封筒だ。ご丁寧に蝋印まで押してあるから、偽装は無理だね。筆跡だってわたしのものだ。けど困った。記憶だけがない。これを書いた記憶がね」
そこで国本女史も、ようやく事情が呑み込めた。
「これも彼の力ですか?」
「ああ、この手紙を書いたのは、どこかの”ねじれ”にいるわたしだ。配達人は間違いなく、中野翼君だろうな」
中野翼は、2つの世界の壁を超える能力を持っている。
壁を超えるために高く跳躍するとき、翼は眼下に時の川の流れを見る。
彼はその中に、小さな裂け目を見つけた。
ふたつの世界の間に存在するひずみ……それを翼は利用した。
その小さなひずみに手を伸ばし、手紙を差し込んだのだ。
「この手紙を書いたわたしは、ここにいるわたしに、何を伝えたかったんだろうね?」
少し考え込んだ後に、国本女史が答えた。
「”あちら側の蝋月様”は、中野様にここに来る理由を作って差し上げたんだと思います。伝えたいことがあったのは、蝋月様ではなく中野様だったんじゃないでしょうか」
「へえ?中野翼君は、何を言いたかったんだろう」
「”僕はまだここから消えたくない”。そう、おっしゃりたかったんだと」
「……参ったね」
彼とは出会ったばかりだ。
けれど蝋月にとって中野翼は、決して小さな存在などではなかった。
エルフの蝋月は、人より長い寿命をもつ。
中野翼との別れを、そして自分が彼を突き放した記憶を、この先ずっと抱えていくことになるだろう。
けれど彼の為に、他のみんなを危険に晒すわけにはいかない。
「この手紙のことは、ツバサちゃんと北川君には内緒にしておいてね。大丈夫、わたしひとりで何とかする」
いま決めた。
まだ中野翼のためにできることがある。
きっと手紙を書いた、蝋月が言いたかったのはそれだ。
代価を払うのは自分だ。
「国本さん、支度を手伝ってくれないか。帝都にいってくる」
しかし、国本女史は反対した。
元・評議会員としての山井蝋月には、地位故の敵もいる。
「こちらを探っているのは、姫様だけではありません。偏狭な人間は、いつだって貴方の足をすくうことだけを考えているのです。こんな時に、そんな輩のそばに近づく真似をするなんて……」
「どうしても、帝都で友人に会わなきゃいけなくなった」
「ご友人というのは、もしや……」
「うん、余目某だよ」
蝋月の長年の友人であり、同じ評議会のメンバー。
そして彼は『アカバネ』の主要登場人物である。
警告の書かれた手帳の件を、蝋月は翼から聞いていた。
こちらの事情、特に『アカバネ』に関することは、彼に知られるわけにはいかない。
しかし、某は独自に今回のことを掴んでいるようだ。
「事態の打開に繋がるか分からない。けれど、他にあてがない」
「私もお供させてください」
「国本さんは留守を頼む」
「でも、蝋月様の身に何かあったら……」
「十中八九、わたしの試みは徒労に終わる。中野翼君は消えるだろう。だから国本さん、その時ツバサちゃんのそばにいてやって欲しいんだ」




