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58. 壁をひとつ

 北川が現実世界から消えて、数日がたった。

 いまのところ翼の周囲に、動きはない。

 北川が名前をあげた企業も国家権力も、接触してこなかった。


 夕とはあの後、お互いが知っていることをすべて打ち明け合った。


 ――あの野郎、すっとぼけやがって。


 しれっと夕とのことを隠していた北川に、直接文句を言わねば気が済まない。

 でも結果的に、彼の勝手な行動が後押しになった。

 北川が夕と関わらなければ、翼はまだひとり悶々としていたはずだ。

 この現実世界で『アカバネ』の秘密を共有できる仲間ができたことが、翼に良い影響を及ぼしたのだろう。


 その日、翼は自分の体からひとつ重しが外れたのを感じた。

 今なら世界の壁を、楽に越えられる気がする。


 まずは念入りに自室の掃除を済ませる。

 そして翼はベッドの上で胡坐をかき、目を閉じた。

 思いつきのインチキ兵法。出鱈目な形で印を結ぶ。

 適当な呪文は何も思いつかなかった。

 だからただこう呟いた。


「ツバサに会いたい」


 10を数えてから、翼は目を開けた。

 いつも通りの制服姿のツバサが、目の前に立っていた。


「やぁ」

「……」


 翼の軽い挨拶に、ツバサは無言で頭を下げて応えた。

 この前のことを気にしているんだろう。少し緊張の色が見える。


「さ、座って。イチゴ食べる?買って来たんだ」


 ツバサが笑顔になった。


「翼さん、会いたかった」

「僕もだ」


 ボウルに一杯、山盛りのイチゴ。 

 小さなちゃぶ台を挟んでふたりで頬張る。


「さっそく『アカバネ』世界に渡ろうと思う。ツバサ、その前にこっちの世界で、やっておきたいことはある?」


 ありません、とツバサは答えた。


「わたしも一緒に、向こうまで連れてって下さい」

「ああ、ツバサを落っことさないように気をつけないとね」


 翼は自分の両頬を軽くたたいて気合いを入れた。

 出発の準備の準備はそれで完了だ。

 荷造りなんて必要ない。簡単なものだ。


 ふたりは並んでベッドの上に腰かける。

 翼はこのベッドを、ふたりを運ぶ列車に見立てた。

 ふいにツバサが手を伸ばし、翼に触れた。


「な、何?」


 つむっていた目を翼はひらいた。


「こっちの世界の翼さん、髪が伸びてる」


 ツバサは翼の前髪をひとさし、すくうように撫でた。


「本当だ。戻ってきたら散髪に行かないと」


 このふたりの間を流れる、時間やイメージの溝もやがて埋まる。

 いや翼自身が埋めなくてはいけない。


「ツバサ、お願いがあるんだけど。少しの間、僕の手を握っていてくれないか」

「はいっ」


 ツバサは翼の手に自分の手を重ねた。そしてキュッと握る。

 その確かなぬくもりが羅針盤になった。

 今度は着地も完璧だ。

 一瞬もおかずに、ふたりはあの屋敷の書斎へと降り立っていた。



                 ***



 『アカバネ』世界の時間で、たった数日過ぎただけだ。

 けれど翼が不在にしていた間に、確実に事態は動き始めているようだった。

 翼を出迎えた蝋月は、山高帽にインバネンスという旅装だった。

 蝋月の足元に置かれた荷物は、思いのほか大きい。


「ご旅行ですか?」


 なぜだか翼は、胸騒ぎをおぼえた。

 そして、北川の姿も見えない。


「帝都で臨時の仕事だ。大丈夫、行くのはわたしだけだよ。国本さんはここに残していく。中野君は気にせず、くつろいでいてくれ」


 小鳥の世話をよろしく頼む、蝋月はそう言って笑った。

 その急な仕事の内容は、ふたりには教えてくれなかった。

 蝋月がこの街を離れる理由は、自分も関わることなのかもしれない、と翼は思った。

 ツバサも心配を口に出さなかった。

 気まぐれにも見える蝋月の行動には、理由があることを察したからだ。


 ふたりは蝋月を見送りに、城門近くの発着場までやってきた。


「もう君は大丈夫だ。ひとつ壁を越えたんだから」


 別れ際、蝋月は翼にそう言った。


「しばらくの間、わたしたちは離れ離れだ。でもいずれ、君の手でこんな距離なんて無意味にしてくれるんだろ?」

 

 蝋月の乗りこんだ魔法船が、空間の裂け目に飲み込まれ完全に消えてしまうまで、ふたりは手を振り続けた。


 そしてツバサも、屋敷を離れなければならない。

 翼と再会したばかりなのにと、ツバサはしょんぼりしていた。

 わざと冗談めかして、翼は彼女に耳打ちをする。


「今度は僕が、あの学園まで会いにいくよ。あの塀にハシゴをかけて、こっそりとさ」

「ダメですよ。いまでも、あそこは男子禁制の女学園なんですから」


 生徒はわたし一人だけだけど、とツバサは笑った。


「翼さんが、落ちてきた時はわたしが一緒だから良かったですが。許可なしに学園の敷地内に侵入すれば、警報が鳴り響き、罠が作動します」

「いちおう聞いておく。罠ってどんなの?」

「ケルベロスちゃんが出てくるの。3匹。可愛いですよ。翼さんも会ってみたい?」

「……遠慮しておくよ」


 9つの頭に、噛みつかれてはたまらない。


「必ず毎日、この携帯電話から手紙を送ります。翼さんもお返事くださいね」



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