1.中野翼という名前
世の中には自分の同姓同名さんが、案外たくさん存在する。
中学校の入学祝に買ってもらった自分専用のパソコンを通して、中野翼はそのことを知った。
検索サイトに自分のフルネームを打ち込んで、検索ボタンを押す。
単純なエゴサーチだ。
自分の名前を書いた小石を、インターネットという情報の海に投げ込む。
あまり意味のない、ちょっとした占いめいた行為。
絵画コンクールで銀賞をもらった小学生の中野翼君。
内分泌の論文を発表した女医の中野翼さん。
あまり有名ではないが、ボインなアダルト女優の中野翼ちゃんだっている――もっとも彼女の場合、中野翼というのは芸名だろうけど。
実業団のバレーボール選手、不動産屋の営業マン、小劇団の役者、飲酒運転で捕まった公務員。
男も女も。子どもも大人だって。
インターネットの中に、何人もの中野翼を見つけることができた。
とびっきりの有名人はいない。
だがその中でも自分が一番、カラフルではない生活をおくっているようだ。
パソコンのモニタを眺めながら、中野翼は思った。
それから5年が過ぎた。
平凡な男子中学生の中野翼は、平凡な男子大学生の中野翼となった。
5年の間に、インターネットの海にポツリポツリと漂っていた中野翼たちはすっかり姿を消してしまっていた。
抜群の知名度をもつひとりの中野翼が現れて、他のみんなを検索結果から押しのけてしまったのだ。
翼自身は、5年前と変わらず埋もれたままだ。
翼には日課があった。
それは日記をつけることだ。
一人暮らしを始めた2年前から欠かしたことがない。
インターネットの無料のレンタルブログ。
そんな古式蒼然としたサービスを利用して、彼は日常のこまごまとしたことを綴っていた。
瑣末なことでも書きとめておけば、思わぬときに役に立つこともある……ような気もする。
その日買ったもの、食べたもの。
映画や音楽の感想。
書いた本人以外には何の価値もない、雑多で無味乾燥で人畜無害な、ただの走り書き。
インターネット上のサービスを利用しているとはいえ、翼はその日記を公開していなかった。
もっとも表に出したところで、見向きもされなかっただろうけど。
鍵のついた翼の日記。
しかしひょんなことから翼以外の目に、その日記は晒されることになった。
翼が先日落とした携帯電話。
その中から彼女は、日記の鍵を見つけ出した。
***
そう、その日まで中野翼を取り巻く日常は、平凡で穏やかなものだった。
その日の夕刻、翼は5限目までの授業を終え自宅アパートに戻ってきた。
ドアを開け、玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、翼は気付いた。
―――中に誰かいる。
翼の感覚が鋭いわけではない。
しかし広くはないワンルームの我が家だ。人ひとりの存在に、気付かない方がおかしい。
いくつかの可能性が穏便な順から、翼の頭に浮かんでは消える。
合鍵を渡した恋人?
残念。そんなものいない。
じゃあ離れて暮らす家族?
それとも大学の友達?
でもすぐに翼は、それらの選択肢を打ち消した。
なぜその誰かは、帰宅した翼に声をかけない?
明かりもつけないで、じっと待ちかまえているなんて普通じゃない。
まさか、サプライズパーティーだったりして?
翼が明かりをつけた途端に、クラッカーの紐が引かれて、隠れていたみんなが「おめでとう」と声をあげ……るわけがない。
だって今日は翼の誕生日ではない。
そしてそもそも翼は、この部屋のスペアキーを家族にも友人にも、誰にも預けてはいない。
部屋の奥にいる誰かは、尋常ではない手段で忍び込んできたのだ。
ここまで考えるのに使ったのは、後ろ手に閉めたドアが音をたてて完全に閉じるまでのわずかな時間だった。
最初に訪れたショックが過ぎると、恐怖がジワジワとせり上がってきた。
こんな貧乏学生の部屋に泥棒?
それとも、ここを女の子の住む部屋と間違えてやってきた変質者?
なんにせよ、いま翼の前方ほんの2.5メートル先には見知らぬ誰かがいる。
「うぅ……」
無意識に翼からうめき声が漏れた。
臆病な心臓がバクバクと脈打つ。
このまま、ここから逃げ出すか?
いや翼が玄関のドアを開けた音が、そいつに聞こえなかったはずはない。
外に出ようと、背中を向けた途端に背後から襲われるかもしれない。
翼はそっと靴を脱いで、室内に一歩踏み出した。
いつでも助けを呼べるように、ズボンのポケットの中、携帯電話を左手で握りしめた。
右手で、肩にさげていたショルダーバッグを持ち直す。
今日は第二外国語の授業があった。バッグの中には分厚い辞書が入っている。
十分すぎるほど重量があるこのバッグを振り回して、侵入者の顔面に叩きつけてやる。
「そこにいるのは誰だ……!?」
だが翼から出た声は、自分でも情けなくなるほどに弱々しい。
それでも翼は覚悟を決めると、壁に手を伸ばし部屋の明かりのスイッチを入れた。
***
ナカノツバサ。漢字に直すと、彼と同じ「中野翼」。
中野翼の日記を読むことになったのは、この同姓同名の彼女だった。
悪気があって彼女は、拾った携帯電話の中を覗き見たのはではない。
そもそも携帯電話を「拾った」というのも、正確な表現ではないのだ。
問題の携帯電話は、寄宿舎で暮らすツバサの机の上にいつの間にか置かれていた。
機体には「T・N」と、彼女のイニシャルのチャームがついたストラップが下げられている。
さきほどこの部屋を訪ねてきた、後見人が置いていったんだろう。
後見人は人を驚かせることことが大好きなのだ。
これはわたしへのプレゼントなのかもしれない。
きっとそうだ。
ツバサはそう早合点した。
「…………んー?」
でもこれは、どうやって使うものなのだろう?
そうナカノツバサは、これまで携帯電話という道具を見たことがなかった。
しかし贈り主の後見人に、使い方を尋ねるのも癪だ。
最初の一歩、電源ボタンを見つけるのにも時間がかかった。
しかしナカノツバサは暇だった。
根気よく携帯電話をいじくり倒し、どうにか操作方法を掴もうと奮闘する。
「???何これ?呪文??暗号??」
電話帳に並んだ電話番号とメールアドレスを見て、ツバサは首をひねった。
画面をこすると、文字や画の出てくる珍しいオモチャ。
ただそれだけのものだと思っていた。
これが通信に使う為の道具だとは思いもよらない。
「えーっと?入力して検索??」
でたらめに操作をするうちに、携帯電話はいつの間にかインターネットに接続されていた。
そして、なんとなく。
ナカノツバサは、いつかの中野翼と同じ行動をとっていた。
自分の名前を検索エンジンに入力し、エンターキーを押す。
検索結果は、彼女ひとりのことで埋め尽くされていた。
「……ふう」
携帯電話を手にしてから、約10時間。
ナカノツバサはふたつの事実に気付いた。
ひとつは自分は知らないうちに、知らない場所で、ちょっとした有名人になっていたこと。
もうひとつは、やはりこの携帯電話は自分のものではないということ。
携帯電話の中に大量に詰まっていた情報がそれを教えてくれた。
通話、メール、各種SNS、ショッピング、ゲーム。
中野翼は、どのサービスもさほど活発に利用していない。
しかしすべてを重ねてみれば、その人物像がおぼろげながら浮かび上がってくる。
ツバサがいちばん興味をひかれたのはやはり、その鍵のかかった日記だ。
日記は長い日でもせいぜい5行。
毎日欠かさないことだけが取り柄の、ぶっきらぼうな日記。
ナカノツバサにはまるで分からない固有名詞が散りばめられた、叩きつけられたようなぶつ切りの文章。
ツバサはその日記を、繰り返し繰り返し読んだ。
まるで5歳の男の子が、真剣に怪獣や電車の名前をおぼえこむように。ツバサは日記に出てきた単語、そのひとつひとつを大切に刻みつけていく。
平凡な男子学生・中野翼のささやかな生活。
ツバサはそれをきらびやかな宝石のようにいつくしみ、どこまでも想像を膨らませた。
中野翼が面白いと言ったもの。
つまらないと言って捨てたもの。
中野翼が買ったもの、食べたもの、会った人に、行った場所。
ツバサはそのすべてに触れてみたかった。
中野翼に会いたかった。
自分がここで貴方のことを考えていると伝えたかった。
携帯電話の中には、中野翼本人が写った写真も一枚だけ入っていた。
酒の席で取られた写真。
翼の友人がふざけて、彼にむけてシャッターを切ったのだ。
画面は暗く、おまけに大きくぶれていた。
写真が消去されなかったのは、翼本人もその存在を忘れていたからだ。
その写真に「中野翼」とタイトルが付いていたわけではない。
けれどツバサは一目見て、それが彼だと分かった。
この携帯電話という機械の、小さな液晶画面の向こう側。
ツバサの知らない世界に、中野翼は暮らしている。
どうすれば、そこにいけるんだろう?
携帯電話の操作をおぼえても、言葉のひとつも中野翼のいる場所まで届けることはできなかった。
ツバサはただ、一方的に流れてくる中野翼の情報を見ることだけしかできない。
自分のところにやってきたこの携帯電話は、きっと中野翼からのメッセージだ。
そう思ったら、ツバサは居てもたってもいられない気持ちになった。
***
そしてある日、願いは叶った。
目覚めたら、ツバサは液晶画面の向こう側の世界にたどり着いていた。
はじめて見る世界。
でも、怖がることなんて何もない。
あの中野翼がツバサの手を掴んで、ここまで連れてきたくれたのだのだから。
ツバサはそう信じていた。