15.はじめましての握手
日が西の空へと沈むころ、屋敷に一台の馬車が到着した。
出迎えたツバサに伴われ、客は蝋月と翼の待つこの書斎へとやってきた。
客は翼と同年輩の青年だった。
「北川ビオラ、参りました」
一風変わった名前の青年は、蝋月の前へと歩みよると頭を下げた。
短く蝋月が答える。
「ん、長旅ご苦労さま」
やや暗いトーンの金髪と、ごく明るい青い瞳。
整った顔立ちだ。だがごく僅か、眉間のあたりに険がある。
丈の長い外套に、首元で結ばれたマフラーという姿。
上背があり肩幅も広い。
歯切れのよさと真っ直ぐな姿勢。
軍服を着ていなくても、それと分かる。
彼は軍人だ。
「で、これが問題の……」
北川が、クルリと翼の方へと向きなおった。
「は、はじめまして」
しかし翼の挨拶は無視された。
「んー……?」
視力の弱い人が小さな文字を読もうするように、北川は翼の顔をみつめた。
頬が寄るほどに翼に顔を近づけ、眉をしかめ目を細める。
そして次に彼のとった行動は、予想もつかないものだった。
「ガッチガチに固めてあるな。これは脱がせるのに手間がかかる」
ちょうど一小節分。早いテンポで。
指揮者がタクトを振るように、北川は翼の顔前の空間を指で切った。
その指が翼に直接、触れたわけではない。
しかし翼の顔をその時、確かに何かが撫でた。
ごく弱い温風を受けた時のような感覚だ。
「なるほどねぇ、素顔はそうなっているのか。確かに奇妙だ」
思った通りの効果が現れたようだ。
北川は改めて翼の顔を確認すると、満足そうな笑みを浮かべた。
「コホン」
その様子を見ていたツバサが、咳ばらいをした。
「……失礼した」
北川は先ほどと同様、翼の顔前で指を振り空を切った。
「よし、これで元通り」
そして彼は翼に、右手を差し出した。
「改めて、はじめましてだ」
魔法使いで軍人。
北川……キタガワ……?
差し出されたその手を、握ろうとしたタイミングで翼は思い出した。
彼が誰なのか。
『アカバネ』で、どんな役を演じたのかをだ。
「あっ……」
握手に応えようと手を出したまま、翼は一歩後ろに飛びのいた。
彼が立っていたのは、主人公たちの反対側。
つまり北川は『アカバネ』という作品を彩った、悪役のひとりだった。
翼は救いを求めるように、ツバサに視線を向けた。
だが気付かないのか、それとも気づいていない振りをしているのか……ツバサはまったく動こうとしない。
『アカバネ』は少年マンガの王道だ。
正義は勝つ。
もちろんこの北川だって、主人公たちの前に破れ去った。
しかし翼は主人公・朱音吾輝人ではない。
正義でもない。
勝てる気なんて、まったくしない。
もしここで急に襲われたら……そんなことは起こりっこないと分かっていても。
心臓がバクバクいってきた。
すっかり固まってしまった翼をみて、北川がうつむいた。
その肩が小刻みに震えだす。
「ふっ……クックックッ……アッハッハハハ!うっ……ゴホッゴホッ……」
何も咳き込むまで笑わなくても。
「君を取って食ったりはしないさ!お願いだから、悲壮感たっぷりな顔はやめてくれ」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……ただあまりにも驚いて……」
思い出すのが遅れたのは、いま目の前で大笑いをしている彼と、『アカバネ』の中にいた彼との落差のせいだ。
『アカバネ』の中にいた北川は、怒りに身をたぎらせその剣をふるっていた。
さもなくば主人公たちを陥れる企みを、暗い微笑に隠していた。
「分隊長殿は、翼さんの力になろうと駆けつけてくださったんです」
見かねたツバサが言った。
翼の態度に、北川に代わり少し腹を立てたようだ。
北川はツバサの言葉を聞くと、顔をしかめた。
「分隊長殿っていうのは、やめてくれないか。いまは悠々自適、浪々の身だ。ただの北川。ナカノ君もそう呼んでくれればいい」
そして北川は、いまだ縮こまっている翼の手を強引に取った。力強い握手だった。
「もう自己紹介の必要はないな。『アカバネ』劇中で愚かにも、神にも等しい存在である主人公様がたに楯ついて、速攻のされたドサンピンですよ。まっさか、自分の醜態が本に刷られ、異世界で衆目に曝されていたとは夢にも思わなかった!」
あっけらかんと本人からこう言われると、翼は何も返せない。
「あ、え、えーっと……その北川さん?あの時斬られて。血がドバー、ドバーッと出てましたけど……もう、お体はいいんですか?」
ようやく翼が絞り出した言葉がこれだ。
「おかげ様で」
にこやかに北川が答える。
翼はもう泣きたくなった。
***
晩の食卓では、『アカバネ』に関わる込み入った話は出なかった。
主人の蝋月は、寒々しい広間の空気を暖めるほどよくしゃべった。
猫の目のように、話題はくるくると変化した。
知らない地名に人名。
会話についていくことのできない異邦人の翼は、国本女史の作った料理を平らげることに専念していた。
それでも、蝋月と北川のやり取りを聞いていて気付いたことがある。
評議員と帝国軍の兵士。
ふたりは互いの名前ぐらいは知っていたのかもしれない。
しかし、これまで付き合いらしい付き合いはなかったようだ。
食事が終わると、ツバサは無人の学園に帰っていく。
戻ったところで、いつ終わるともしれない自習時間が続くだけだ。
それでも帰るのは、彼女をあの場所に押し込めている蝋月にたいする意地だ。
現在この屋敷には、国本女史以外の使用人はいない。
もちろん御者も馬車もない。
学園に戻る車を捕まえるためには、一度中心街まで出る必要があった。
翼は彼女のお伴を買ってでた。
国本女史がマントを持ってきてくれた。肩にずっしりと重いが暖かい。
「馬車なんてもったいない。走って学校まで戻ってもよかったのに」
「もう日は暮れているんだ。女の子の一人歩きは感心しないよ」
「わたしを送ったあとの、翼さんの帰り道の方がよっぽど心配ですけど」
月の明るい秋の夜だった。
小さなランプをぶら下げて、ふたりは肩を並べて歩いた。
ようやく、ふたりきりになれたこのタイミング。
翼は気になっていたことをツバサに尋ねた。
もちろん北川のことだ。
「分隊長……いえ北川さんに、すべてをお話することに決めたのはわたしです。あの方の持つ力は、翼さんの来た世界と親和性が高い。お父さんもそう言って賛成してくれました」
北川のもつ力?
さきほどの指揮者のような動作か?
『アカバネ』劇中で見せた剣撃か?
翼は首をかしげる。
それがどう、翼の暮らす現実世界と繋がるんだろう?
「でも北川さんの力のことは、当初わたしの頭には浮かんでいませんでした。ただ今起こっていることを分かってくれるのは、あの方しかいない。そう思ったから、打ち明けたのです」
北川とツバサが顔を合わせるのは、今日で3回目だ。
ふたりが出会いは3年前、彼女の兄・中野司の葬儀の席だ。
2度目に顔を合わせたのは、2ヵ月前。場所はこの東菜種ヶ原市でだ。
それは学園が閉鎖される直前のことだ。
そのときツバサは見習いとして、帝都から派遣された北川の仕事の補助についたのだという。
もちろん、それは『アカバネ』で描かれなかった場面だ。
劇中で、北川とツバサは並んだことはない。
「手伝いといっても、わたしは何の役にも立てませんでした。北川さんのお仕事を、そばで勉強させていただいただけです」
短い任務の時間の中で、ツバサが北川と個人的な話をする機会はなかった。
ツバサが、本当に彼を知ったのは『アカバネ』を通してだ。
「ぼくも『アカバネ』を読んだ。もちろん、北川さんが出ていた場面も。だけど、分からない……ツバサの言う理由がさ。事情があったとはいえ、あの人は君のお兄さんと戦うことになった人だ」
なぜツバサは、恩人の二条桜木でも、主人公の朱音吾輝人でもなく、北川を選んだんだろう?
翼には分からなかった。
「たしかに北川さんは『アカバネ』で、悪役という役回りでした」
でも、それが彼のすべてではないとツバサは言った。
「北川さんとわたしは似ているんです。ふたりとも『アカバネ』という物語から落ちこぼれて、同じ場所で立ち止まっている。わたしたちは、吾輝人さんや二条隊長のように強くはなれなかった」
ツバサと北川の共通の傷――それは中野司という存在を喪ったことだ。
北川は、中野司が隊長を務めた三月十三日隊(さとみたい)の元隊員だった。
「北川さんはいちばん兄を慕い、いちばん兄に甘えてくれた人です。やり方は間違っていたかもしれない。でも北川さんは兄のために、怒って、涙を流して、大きな声で口惜しいって叫んでくれた」
ああ、そうか。
翼は今さら気付いた。
今の今まで、ひとこともツバサは口に出さなかった。
けれど『アカバネ』を読んで、彼女が傷つかなかったはずがない。
ツバサは、中野司の死に立ち会うことはできなかった。
『アカバネ』を通じて、その場面を眼前に突き付けられたのだ。
「二条隊長から兄の死の真相を聞いたのは、すべてが終わってしまった後のことです。そして、その重みを知ったのは『アカバネ』を読んでから。隊長にどれだけのものを負わせてしまったか、わたしは何も知らなかった」
「……ツバサ、ごめん。辛いことを思い出させてしまった」
「翼さんが謝ることなんて……聞いてほしかったから話してるんです。それにもう大丈夫。二条隊長や吾輝人さんが、わたしを守ってくれたから。そして北川さんも……あの方はわたしの代わりに、たくさん泣いてくれました。たくさんの人に、わたしは救ってもらった」
涙をこぼすことなく、ツバサは言った。
「『アカバネ』は吾輝人さんの物語です。でも物語はすでに完結している。この先の空白のページと呼べるものがあるのなら、わたしと北川さんはそれを見届けなければならない……そんな気がしたから。だからあの方をお呼びしたんです」
***
ようやく一台の馬車を捕まえる事ができた。
「明日、また屋敷に顔を出します。それまで絶対に、この世界にいてくださいね!」
大げさなくらいツバサはそう念押しした。
あの日ツバサは抵抗することさえできず、翼の部屋から元の世界に連れ戻されてしまった。
それが相当くやしかったらしい。
「うん、分かった。頑張ってみる」
頑張るといっても、何の策もない。
けれど口に出して約束すれば、それだけ可能性が高まる気がした。
「指きりげんまん」
真剣な顔をしてツバサが、小指を差し出した。
「はいはい」
苦笑しながら、翼は指を絡める。
ツバサを乗せた馬車が完全に見えなくなるまで見送ってから、翼は屋敷に向かって元来た道を歩き始めた。
『アカバネ』の中で過ごす、最初の夜がはじまるのだ。




