境界線
透明、カメラ、通り雨、名のない彼女に続く作品です
「ここから落ちたら死んじゃうのかしら」
「縁起でもないこと言わないでください」
「でもほらほら、とっても高いの」
先輩はフェンスの向こう側で空中散歩を楽しんでいる。
こちらの方が見ていてヒヤヒヤさせられる危なっかしい行為だけれど、先輩は怖くないのだろうか。
僕はフェンスを越えて先輩の側に行こうとは微塵も思わない。
怖いからだ。
万が一にも死ぬ可能性がある事が怖いからだ。
だから先輩が命を賭けた空中散歩をする理由が分からない。
僕が頑としてフェンスを乗り越えないのを眺めて、先輩は薄く笑う。
「変ねえ」
この場合変なのは僕なのだろう。
「だって、君は五秒後に心臓発作で死ぬかもしれない。一週間後に殺されるかもしれない。一年後に事故死するかもしれない。
何時死ぬか分からない。
どうやって死ぬか分からない。
君が屋上から転落して死ぬ確率は君が心臓発作で死ぬ確率も殺害される確率と事故死する確率と全く同じ」
「心持ちが違うでしょう」
「そんなのは一瞬よ」
先輩はフェンスの網目に指を絡ませた。
それが彼女と僕を繋ぐ唯一の命綱のような気がして、僕はその白魚のような指に焦点を合わせる。
フェンスの網目から覗く彼女の目は吸い込まれるように黒い。
僕はその瞳に囚われかける。
何処かに落ちてしまいそうになる。
「こっち、風通し良いわよ?」
「こっちも風通しは良いですよ」
「つれないなぁ」
残念そうに聞こえない声音で彼女は呟く。
そのまま網目から指を外し、僕から目線を外して後ろに振り向いた。
風通しもなにもスカートを履いている時点でフェンスの向こう側に行かなくても風通しは充分だと思うのだけれど、流石にそのような言葉は言えない。
「先輩、危ないですから」
後輩として止めるべきだと判断し、彼女に声をかける。
「貴方はこちらには来ないのね」
「びびりなので」
「私が手を引いてあげましょうか?」
「そういう問題じゃあ」
「ならどういう問題なの?」
彼女は紡ぐ。
背後に吸い込まれるような青空を携えて、僕に向かって手を伸ばす。
その手が助けを求めてるように、僕には見えた。
「私ね、多分このまま死んだとしても後悔はしないと思うの」
「何言ってるんですか」
「ごめんなさい」
「先輩冗談はもう良いですから、早く戻ってください!」
「怖いの」
突如、先輩はポツリと漏らした。
怖いとそう言葉を紡いだ。
僕と同じように彼女も死ぬことが怖いのだろうか。
何が、怖いのだろうか。
「貴方はこちら側には来てくれないのね」
「僕は…」
そちら側には行けない。
怖いからだ。臆病だからだ。
僕は彼女にはなれない。
どんなになりたいと願っても恋い焦がれても彼女には近付けない。
僕の言葉を聞いた先輩は悲しそうに目を細める。その目には僕が何も出来ない蔑みや怒りなどは含まれていなくて、ただただ悲しみだけが色を作っていた。
「それでいいの」
先輩は言う。
「貴方はこっちには来なくて良い。貴方は私じゃないからこっち側には来れない」
やはり僕と彼女の間には壁がある。
目に見えない透明な壁が。
この隔たりは壊せる物ではないし、壊していいものでもないのだろう。
僕と彼女は交われない。
「これが貴方と私の境界線」
そろそろ完結ですかね…