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リリィとレインは満月を笑う  作者: 千のエーテル
6/16

お腹を空かせたケット・シー05

五月五日。

 昨日の疲れとマイナスのオーラの大半を残しながらも本日は学園に嫌々登校。

 精神的理由とはいえ昨日学園をサボったこともあり、私の選択肢は若者は若者らしく勉学に励むの一択のみに限定された。

 一昨日血痕が付いていたグラウンドに再び生徒達が集まっている。少し急ぎ足でその場に向かうと野次馬の隙間から一瞬一昨日に見たものと同様の赤い水溜りが見えた。


「まさかまた血かレイン?」

「おはよう近藤。そうみたいだね」

「イタズラだとしてもやった奴はいかれてる」

「本物の血なのかどうかまだわかってないの?」

「ああ。上原に聞いたけどスルーされた」

「昨日は?」

「昨日もあった。初めは警察が前の日の状態を維持してるのかと思ったけど。話に聞くとそうじゃなかったみたいだ」

「じゃあ今日で三日連続ってこと?」

「だな」


 私は朝から近くで二度も血の水溜りをまじまじと見る必要はないと感じ教室に向かった。近藤もついて来る。

 本日も教室は朝から賑やかだった。

 それぞれが自由気ままに意味の無い情報交換を繰り返している。たまに、ごくたまにこの暴力的なまでのノイズが私をたまらなく苦しめた。さっそくここに来てしまったことに後悔する。


「おいレイン知ってるか?」


 私の心情などお構いなしに、できることなら教室の外に席を置いて欲しかった男子ナンバー1の近藤がズケズケと遠慮なしのフルスロットルで話しかけてくる。

 ちなみに彼が私を下の名前で馴れ馴れしく呼ぶことを、許可した覚えはない。

「ハァ……なにが?」

「昨日休んでたお前にこの俺が親切心で教えてやる。学園は昨日からこの話題でクウァーニバルさ」


 朝から中華料理屋の厨房の床みたいなギトギトぐあいでトークを切りだされた私サイドのうなぎ上りな精神汚染状態を、彼は考えてはくれないようだ。

 人間は二種類に分けられる。一つはごく普通に話せる人間。そしてもう一つは口を開いただけで人を完全にイラつかせる魔術師である。

 私は小学三年の頃からこの魔術師達をイライラマウスと命名し、そっち側の人間と認識した時は、できる限り一定の距離をとって生きてきた。

 そんな私がこの学園に入学してみれば、隣の席が彼である。

 隣の席のチョット口の悪いサラサラヘアーでイケメンな彼との恋愛を、入学式前日にシュミレートしたあの日の自分が鼻で笑う。

 今でも忘れられない魔術師見習いの近藤から私に向けられた第一声。


 俺、近藤ミナトっ シ・ク・ヨ・ロッスゥーイィィー


 二本の指を右の眉毛のあたりに合わせそこからピッと前に出した瞬間、私は寒気がした。

 というより殺意を覚えた。

 近くに手頃な重機でもあれば確実にひき殺していたと思う。

 行方不明になってしまった彼が置いて行った、悟史と書かれた金属バットがあればそっちでもいい。

 魔術師見習いの近藤が私の返答を待っているのかジッとこっちを見ている。

 こっち見んな。


「で?」

「坂下ツバメも昨日狂った猫に襲われたらしいぜ」

「え?」


 まただ。白須ミナイに続いて二人目。あのグレーの猫はこの斗明学園に何か恨みでもあるんだろうか?坂下ツバメとはほとんど会話を交わしたことがない。

「襲われた場所わかる?」

「半雷町だってよ。リサイクルショップの裏」

 私はすぐにスマートフォンを取り出し、マーブルマップのアプリを立ち上げる。

「……近くだ」

「ああ? なにがだよ」


 その場所は前日リリィと訪れた九字三町周辺から目と鼻の先だった。

「襲われた時間わかる?」


「夜八時すぎっつったかな」

「襲われたってことは怪我は?」

「ほぼないらしいぜ。少し足すりむいたのと軽く頭打ったとか言ってたかな。頭の方検査するので今日は休みだってよ」

「でも襲われたって……」

「状況はこうだ。コンビニで買い物を済ませた坂下ツバメが歩いていると後ろからヒタヒタと足音が聞こえてきた。振り返るとそこには喉を鳴らし敵意を剥き出しにするグレーの猫がいた。最初はただのノラ猫かと思ったが坂下ツバメは瞬時に、学園内で噂になってる人を襲う猫のことを想い出したらしい。コンビニの袋から買って間もないプリンを取り出し、グレーの猫のすぐ横あたりにプリンを投げつけた。コンクリートに飛び散るプリン。坂下ツバメはグレーの猫が、それを食べてる隙に、逃げることを考えた。でもグレーの猫はそのプリンを少し舐めただけで食べようとしない。奇妙な鳴き声で近づくグレーの猫。その時偶然坂下ツバメがいたその通りで、昼間に道路工事をやってた。ホラあの赤いコーンとコーンの間を繋ぐ黄色と黒のバーみたいのあんじゃん。わかる? あれの名前わかんねーんだけど」

「コーンバー」

「ええ? あれコーンバーっいうの? まんますぎ」

「いいから続きっ」

「ああ。で坂下ツバメはそのコーンバーを一本取って構えた。なんたってあいつは中学の時剣道の全国大会で優勝するほどの凄腕だ。バックリと口を開け飛びかかってくる猫の背中に、坂下ツバメの強烈な一撃がクレェーンヒッツ。グレーの猫はうめき声をあげその場から逃げ出したらしい。その場から慌てて逃げた時に躓いて頭ぶつけたんだと」

「近藤その場にいたの?」

「お前俺の話聞いてたのかよ。いるわけねえじゃん。聞いた話だよ」


 気持ち悪い。

 何が気持ち悪いって、まるで自分がその場に存在していたかのように、こと細かに話す彼が気持ち悪かった。

 私は立ち上がり隣にあるリリィの教室に向かう。


「おい。どこいくんだよ。ホームルームはじまっぞっ」

「うっさい。見習い魔術師」

「み、見習い魔術師?」


 C組の扉を開けリリィを探す。

 リリィは一人で窓から外の景色を眺めていた。急ぎ足でリリィを捕まえる。


「おはようリリィ」

「レイン。どうした?」


 少しだけ声のボリュウムを下げる。


「あの後昨日私達がいた場所のすぐ近くで、私のクラスの坂下ツバメって子がグレーの猫に襲われたって」

「ホントかよっ どれぐらい近い?」

「これぐらい」


 私は拡大表示されたスマートフォンの画面を、リリィに見せる。


「なんだよこれ。クソッ ほぼ同じ場所かよっ 襲われた時間は?」

「夜八時から九時のあいだ。どうする?」

「行くよ。行くけど昨日の疲れもあるし夜にしよう。それまでは英気を養う」

「ここで?」

「入学してから、この教室で夢を見なかった日はないんじゃないかな。多分」

「養いっぱなしじゃんそれ」


 この先もトークを続けたい流れだったのに、私が嫌いな世界史担当&C組の担任でもある高山が舞台に登場。


「花園っ さっさと自分の教室もどれ〜」


 私は無言で教室を出て自分の教室に戻り席に座る。

 担任の上原はまだ来ていなかった。


「なあレイン。さっきの見習いってなに?」

「見習い 魔術師で検索すればわかるよ」

「わかった」

 近藤は自らのスマートフォンにかぶりつき、真剣な顔つきで私に言われるがまま二つのキーワードで検索を始めた。


「見つけるまで話しかけないでね」

「あん? ああわかった」


 私は知っている。そこに彼が求める答えは存在しない。恐らく彼が今見つめる画面の先には、当時子供達を熱狂させたあるカードゲームに関係したページばかりが画面を埋め尽くしているはずだ。

 彼のターンは永遠にこない。彼は気づくだろう。すでに私とのデュエルが始まっていたことに。彼は気づくだろう。検索を始めた時点ですでに自分が負けていたことに。

 担任の上原が余すことのない力強さで教室の扉を開ける。


「よぉ〜しホームルーム始めるぞ」


 こいつら教師連中の能天気ハッピーの良さは一体どこから湧き出てくるんだろう?本当はそんな元気でもないけど、仕様がなくそう見せてるだけなのだろうか?もしそうならテンションの低い日、いまいち気が乗らない日はそのまま流れに身を任せてダウナーな一日を過ごしてくれれば学園生活がもう少し快適になるのに。

 そんな自分本位な考えをグルグル巡らせていると、眠気が私の頭のまわりにフワフワと漂い始めていた。私はその眠気に逆らうことなくこれからのことを考えながら肘をついて下を向き、ゆっくりと目を閉じた。



お昼休み。

私は教室でリリィと向かい合わせになってお弁当を食べていた。隣の席にいる近藤はコンビニで買った焼きそばにMYマヨネーズをかけていた。最早あれは焼きそばではなくマヨネーズ味の麺。何度見ても濃い。そんな近藤にリリィはカエルの死骸を見るような顔をしていた。


「お前その食べ方……美味いの?」

「あ? なにが?」

「いや、そのマヨネーズ」

「はあ? 意味わかんねえんだけど。お前の家じゃ刺身に醤油つけて食わねえの?」

「なあレイン。こいつなに言ってんの?」

「知らない。放っておきなよ」

「なんでだよっ 餃子には酢醤油。刺身には醤油。焼きそばにはマヨネーズ。これ全部セットだろ?」

「いや。うん。なんか……もういいよ。きっと残念な家庭に生まれちゃったんだなお前」

「残念?」


 リリィは無視して購買で買ってきたカレーパンを食べ始める。近藤は焼きそばを瞬時に平らげ体をこっちに向けた。


「さっき聞いた新情報なんだけどな、美術教師の羽田とA組の池田、学校に五日前から来てないだろ?」

「それがなんなの?」

「レイン、少しは想像力働かせろよ」

「それよりさ、近藤はどうしてそんなに情報を仕入れてるの? 新聞部にでも入りたいわけ?」

「ちげーよ。なにもしなくても勝手に集まってくんの。大半のことを俺はどうでもいいと思ってるわけ。なのに向こうから入ってくるんだよ色んな話が。まあ俺しか頼る奴がいないんだろうなきっと。あと俺人気者だし」

「……だね」

「いやっ 最後の部分に対してちゃんとツッコメよ。さみー感じになるだろっ」

「羽田先生と池田君が休んでることがなんなの?」

「この二人も織田先輩と同じで行方不明らしい。五日間家に帰ってない」

「……嘘でしょ?」

「マジだって。レイン、やっぱこの事件お前が解決しろよ。人を襲う化け猫。グラウンドの血だまり。三人の人間が行方不明。こんな田舎で立て続けに気味の悪い事件がリアルに起きてる」


 近藤は知らない。行方不明はトマリを入れてこれで四人。この数字はもはや異常だ。行方不明になっている四人が斗明学園に通う人間ということ以外になにか関連性があるのだろうか?きっとあるに違いない。誰かがこの四人を誘拐した?犯人は斗明学園の人間?だとしても犯人の目的がわからない。一向に前に進まない。残るのは?マークの山。


「なあ近藤。アタシが思うに行方不明の三人がグレーの猫に綺麗に喰われた可能性は無いのかよ?」

「それは絶対に無いな」

「なんで言い切れるんだよ?」

「市内で化け猫に襲われた正確な人数を俺は知らねえけど、調べただけで十人以上はいる。もし俺達が知らないだけでもっと大人数が綺麗に喰われてたら、行方不明者の人数が跳ね上がることになる。考えてみろよ。二十人綺麗に喰われたら、忽然と姿を消した行方不明者が二十人だ。この小さな街でそんなことが起これば大事件だろ? そしたら東京から報道関係者がわんさか来る。けどそんな話は聞かない。だからその推理は残念だけどありえない」

「お前……以外に考えてるんだな」

「当たり前だっつーの。俺だって大量に入ってくる情報をただ右から左に流してるわけじゃないんだぜ。その都度俺なりに真面目に考えてるっつーの」

「自分が解決しようとは思わないのかよ?」

「思わないね。絶対に」

「なんでだよ?」

「俺かレインなら、どう考えてもレインの方が名探偵向きだろ? だったら俺は助手でいいよ。レインがホームズで俺がワタサン」

「和多さん? ホームズの助手にそんなおにぎり握るの上手そうで純正日本人みたいな名前の助手いたっけ?」

「いない、いない。近藤はとりあえず一旦ドイルに謝れっ ホームズの助手の名前も知らないような助手は私に必要無い」

「あれ? そんな名前じゃなかったっけ?」

「近藤はもう存在ごと永久に迷宮入りしてていいから」

「あ〜あまたレイン怒らせちゃったよ」

「なんだよ。ちょっと名前間違えただけだろ」


 残念だけど近藤の言う名探偵を演じる気はない。私にその気がない以上にトマリすら発見できない私が三人の行方不明者を探し事件を解決するなど夢の中でも不可能だ。なぜあの時グレーの猫にもっとしつこく聞かなかったのか?なぜ諦めたのか?もっと上手くやれたのではないだろうか?後悔ばかりがゴッホのひまわりのように上塗りされ続けた。あのグレーの猫の抽象的な話し方を思い出すとイライラが止まらない。いや違う。本当にイライラしてるのはトマリを見つけられない自分に対してだ。



十九時三十分

 私は再び白須ミナイが襲われた九字三町に来ていた。リリィは坂下ツバメが襲われた半雷町でグレーの猫を捜索中。別れて捜索した方が遭遇する確率が上がるというリリィの提案を了承し、私達はそれぞれ別々にグレーの猫を探していた。

 一人だと不安ではあるが発見時には、お互いの携帯電話を鳴らすことになっているので相手の元にすぐに駆けつけることができる。

 現在十九時四十五分

 未だグレーの猫は発見できず。

 私は7、80メートルある合田ピアノ教室の前の道路を行ったり来たりしていた。このあたりに軒を連ねる住民の方々に、不審者として警察に通報されないか心配である。

 まあ警察に何か聞かれたら正直に、ユニコーンをこの辺で見たという噂があったので探していたと言えば何とかなるだろう。

 そんなどうしようもなく下らない妄想を、キッチリと警察署を出るあたりまで脳内でシュミレートしていると時間はそれなりに経過していった。

 二十時二十三分

 携帯電話が鳴った。

 画面を見るとリリィという文字が視界に入りこむ。すぐに通話ボタンをタップ。

「リリィ? 見つけたの?」

「レインっ 駅とは反対方向にある国道あるだろっ」

「うん」

「国道に出たらすぐにデカイ橋があるだろ。さくら橋。その橋の下に奴が今入って行った」

「わかった。すぐ行くね」


 私はスマートフォンを握ったまま全力で走った。ちなみに運動はあまり得意ではない。それでもなりふり構わず全力で走る。

 やっとのことで国道219号線にたどり着いた。

 さくら橋が50メートルほど先に見える。

 唇を噛み再びダッシュする。お腹が痛い。こんな些細な距離なのにも関わらず、体が悲鳴を上げていた。

 川沿いに設置された立ち入りを防ぐ白い柵を乗り越える。

 橋の上りと下りを分けている隙間がスポットライトのように、リリィを照らしていた。

 ゆっくりと近づくが様子がおかしい。よく見るとリリィの右肩が赤一色に染まっていた。

 私の到着に気づいたリリィが前を向いたまま左手を挙げる。


「レインっあまり近づくな。こいつ、ついに本性を現したぞ」

 その強めな口調に私はさらに慎重に近づく。

 グレーの猫が大きく口を開けリリィを威嚇中。

 その猫を視て私はあることに気づいた。

 だけどそれを今リリィに伝えても状況は変わらない。

 ただ視えてしまったのだ。

 鼓動の加速が止まらない。

 頭がパニックになる。

 リリィに伝えるべきか迷う。

 最後の言葉が脳髄の中で再生された。


 この世に存在する数々の問題は、その問題が発生したときと同じ考え方では解決できない。


「リリィ今言うべきじゃないのかもしれないんだけど……」

「どした? 急にそんな大声出して」

「この猫……あの喋る猫とは……別の猫だ」

「ウソだろ?」

「本当。断言できる」

「どうなってる?」

「とりあえず後で説明する。それより今は……」

「ああ。今はこいつを殺してやるのが先だ。まあ些細な勘違いがあったのは事実だけど、お前を殺すことに変わりはない。なんたってこっちはずっとお前を探してたんだからなっ」


 リリィはそう言いながら力一杯左足をグレーの猫目掛けて蹴り上げる。

グレーの猫はその蹴りにひるむことなく全速力で突進し、リリィの蹴り上げた足に駆け上る。リリィの全力で蹴り上げた力を利用し、足が一番上に到達したと同時にグレーの猫は手を離し上空に飛び上った。

 足を下げたリリィはグレーの猫を見失う。


「リリィ上っ」


 私の声にリリィは上空を睨みつける。

 グレーの猫は大きく口を開け、リリィの顔面に向かって急降下していった。口の端がメリメリと裂けて、あり得ない大きさに拡大していく。もはや口とは呼べないその部位から唾液が滴り落ち、リリィの顔にぬらぬらとひかる液体が二、三滴張り付く。

 ホラーだ。

 この生き物は化け猫なんかじゃない。純粋な化け物だ。

 初めて化け物を見た私の足がガクガクと激しく震え始める。

 リリィは一度後ろに大きく下がり、降下するグレーの猫を待ち受ける。

ほぼ一歩前辺りに着地するのを予想し、少し前から左脚を上げグレーの猫が地面に着地したのと同時に踏みつけた。

 かつて耳にしたことのない断末魔が橋の下全体を覆った。踏みつけられたにも関わらずすぐに体制を立て直し、顔を左右にふるふると振り、リリィを睨みつける。

 その瞳の奥には生きとし生ける物を超越した、得体の知れない意思の強さのようなものが感じられた。


「ホラ、早くこいよ。残念かも知れないけど教えてやるよ。間違いなくお前は人間を襲い、その命を奪う猫だ。その点においてお前はもう普通の猫とは別の生き物だ。だからってお前の勝ちにはならないんだよ」


 グレーの猫は猫とは思えない奇声をあげリリィを威嚇する。

 今度はグレーの猫が自らの力で飛び上がる。その跳躍はリリィの胸ぐらいの位置まで到達した。

 リリィは無駄のない綺麗なフォームで右の拳を真っ直ぐ突き出し、グレー猫の顔面を打ちぬいた。

 地面に着地してすぐに何事もなかったかのように、リリィに飛びつく。

勢いよく飛びかかるその姿は、まるで人間に寄生しようとする地球外生命体のようだ。そんな得体の知れない生物の首を、リリィはなんの躊躇いもなく右手で摑んだ。

 そうしたことで化け物はより化け物らしい姿に自らを変化させる。グレーの猫の顔がぐるぐると半回転した。口と目の位置が逆転した顔がリリィを見つめる。

 すでに口とは呼べなくなってしまった闇を閉じ込めた洞窟の入り口のような穴が、ポッカリと大きく開かれ、自らの首を掴んで離そうとしないその手の持ち主の手首を噛みちぎった。

 リリィの手首から先の肉がゴッソリとなくなっていた。

 思い出したかのように血液が噴き出し、足下に不思議で不気味な赤の模様が作られていく。

 胃液の逆流が意思に反して繰り返される。

 涙が止まらない。

 鼻水も出続ける。

 スタートを始める後悔。

 強制的にフラッシュバックされるトマリの笑顔。

 ここに来た理由を否定する私。

 止まらない嗚咽。

 続かない呼吸。

 全てが目まぐるしくランダムに発生し、変拍子のリズムを響かせ、悲しみの私をあざ笑っていた。


「リリィ……」


 風に消えてしまいそうな私の声に、リリィの身体が一瞬ピクッと反応した。


「そんな声だすなレイン。安心しろ。ほら見てみろよ。なんたって今日は最高の満月だ。治りは早いはずだ」


 私の声とは正反対にリリィの声は驚くほど明るかった。

 リリィは橋の隙間から差し込む光に導かれるように、ゆっくりと右手を光にかざした。

 その一連の動作はどこか儀式のような神聖さと清らかさを兼ね備えていた。

 安堵よりも先に疑問が訪れる。かかげられたリリィの右手首の失われた部分が、まるで映像が巻き戻されていくかのように徐々に再生され元通りに再構成された。


「な? 大丈夫だろ?」

「……なんで?」


 リリィは私の方を振り返らずに真っ直ぐ前を見ながら、新しいおもちゃを自慢する子供みたいにそう言った。


「こっちも後で説明する。やっぱり白須ミナイの助言に逆らわずに、お互いの秘密はさっさと告白しとくべきだったな」


 そう言った後リリィの肩が上下に揺れた。大きく深呼吸をしている。

その後ろ姿から敗北や撤退といったマイナスの因子は、微塵も感じられない。

 リリィの傷が癒されたことを理解しているのかは不明だけど、グレーの猫は攻撃の手を休め、ジッとリリィを見つめていた。

 一歩。また一歩と開かれたグレーの猫との距離を、リリィはゆっくりと回収していった。ピッタリと目の前まで近づくとリリィは突然しゃがみ込みグレーの猫に目線の高さを合わせた。

 顔なのか口なのかすでに区別のつかない大きな闇の中に素早く右腕をねじ込んだ。

 グレーの猫が激しく暴れながらミリミリとリリィの腕に噛みつく。

 肌にまとわりつく痛みと恨みを混ぜ合わせたような声に、私は耐えきれず耳を塞いだ。

 ボリュームダウンしたことにより全ての音が囁きに変化した世界は、自らの血管が奏でているであろう低い地鳴りのような音を鳴らし、余計に恐怖を増幅させた。

 後ろ姿であってもリリィが何をしているか理解できた。

 腕を引き抜こうとしている。

 すでに腕半分が皮一枚の状態であるにも関わらず、リリィは呑み込まれつつあるそれを左手で引き抜こうとしていた。

 傷が何事もなかったように元通りになることを頭で理解していても、真実のみを一方的に映すその光景に耐えきれず私は背中を向けた。

 数十秒の静寂。

 恐る恐る振り返る。

 さっきまでしゃがんでいたリリィは、なぜかサラサラと流れる河の上空を見つめていた。

 その視線の辺りに私の視線もリンクさせる。

 腕だ。

 リリィのちぎられた腕が空を飛んでいる。

 その後を必至に追いかけ自らも上空を舞うグレーの猫。

 この地球のルールである重力に逆らえずにキャンセルされる上昇。

 水面に向かい一直線に降下していく二つの異常。

 水面に呑みこまれた二つの異常とは正反対に水しぶきが舞い上がり大小様々な大きさの水の粒がさくら橋の隙間から射し込む光で、キラキラと輝きを魅せつけた。

 ジャバジャバと音を立ててもがくグレーの猫を、リリィは無表情で見つめていた。

 ただただジッとその動きが停止するまで見つめていた。

 死んでいくのを待っている水面に反射した自分の姿と一緒に見つめていた。

 水面に映る満月と一緒に見つめていた。

 どれぐらいの時間が経過しただろう?リリィは暫らく何も喋らず動くこともなく、水面を見つめていた。

 気づくと水面はいつものおだやかさと日常の景色を取り戻していた。


「帰ろう。レイン」

「……あのままで……いいのかな?」

「おいおい。引き上げて埋めてやるとか言うんじゃないだろうな?」

「……そうだよね。でもあの腕は? 見つかったら事件とかになるんじゃ……」

「明日になれば消えてるよ。太陽の光を浴びれば消えてなくなる。」

「そうなんだ。じゃあ行こうか」

「ああ」

「帰りにあの高台に寄らない?」

「そうだ。聞きたいこともあるし話したいこともある。そうしよう」


 私とリリィは立ち入りを防ぐ白い柵を再びまたぎ、国道をとぼとぼ歩いた。

 今回の事件における謎はほとんど解消されることなく目の前から消えようとしていた。これではまるで出来の悪い三文にすらなっていない素人小説である。こんな形で終わってしまう物語を読まされた方は、時間を返せと切に願うことだろう。

 どこかモヤモヤとした不満を引きずりながら、私とリリィはお気に入りの高台に向かった。

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