その8. 赤川秀治の回想 1.
ヒデジ視点の回想。
出海の説明と違っている場合は、大概彼女が記憶違いしているだけだったり。
幼い頃の憧れといえばヒーローだった。
そして俺が子供の頃、憧れたヒーローは、間違いなく出海だった。
正直な話、子供の頃は出海に会うまではろくな思い出がなかった。
母は俺が幼い頃に亡くなり、父は男手一つで俺を育てることに限界を感じたのか、家に置き手紙を残して会社をやめて貯金を全ておろして失踪した。一応失踪直前に匿名で警察に通報しておいてくれたお陰で、俺は餓死する前に保護された。
もっとも、その時点で俺は既に栄養失調状態だった。父は俺に満足な食事を与えていなかったと思われる。
父の血縁は絶えて久しく、母方の祖父母が警察から連絡を受けて駆けつけた時には俺は病院で、既に正気を失っていた。このとき四歳だったらしいので相当な修羅場だと思う。
それでも俺は若かったせいだろうか、何とか回復して、「他人よりちょっと内気、但し時々キレる」程度になった。小学校に上がる前のことである。
祖父母は俺を養子にし、俺は赤川姓を名乗ることになった。元の苗字は思い出せない。以前一度、高校に上がる時に説明を受けたはずなのだが。
小学校に行く前に、気を利かせた祖父によって近所の同じ年の子供を紹介された。出海である。
出海にまじまじと顔を覗きこまれたとき、俺は怯えて祖父の背後に隠れた。その姿を見た出海はケラケラと笑い、ヨロシク、と眩しい笑顔と共に手を差し出してきた。
その頃俺は、内気な性格を直す為と、精神を鍛える為という名目で空手を習わされた。
その空手教室の中で一際目立ち、孤立している子供が気になった。渡である。
渡は誰も近寄らせない空気を纏っていた、子どもたちはそういう空気に敏感なので、自然と彼を避けた。
俺は俺で、親に捨てられたショックのせいか少し人間不信になっていたので、やはり孤立していた。この時の俺は殆ど笑わないガキだったと思う。
そんな中での出海の登場だった。
幼い頃の出海は、とにかくパワフルでやんちゃな悪ガキだった。
あの渡を強引に引っ張って遊びに行こうとしている出海とうっかり出会ってしまった俺は、ちょうどいい、と、これまた強引に出海に連れ回される羽目になった。
山にきれいな花のある秘密基地があるのだといって連れて行かれ、迷子になった。出海の根拠のない大丈夫に振り回されたが、なんとか日暮れまでに下山できたときは渡と二人で抱き合って泣いてしまった。
当の出海は「おかしいなあ、まあいっか。またこればいいや」と恐ろしいことを呟いていた。そしてこの時から俺と渡は出海に仲間認識されたらしい。
とにかく出海は強引だった。
俺や渡に人見知りを発揮する隙すら与えず、問答無用で我が道を行く奴だった。
何がおかしいのかケラケラとよく笑い、草むらに生えている謎の植物の謎の実を食えと渡され、あまりの渋さに三人で顔を顰めて更にそのひどい顔をみて笑う。
空をとぶ訓練だといって、地上1Mくらいの段差がある、自分の身長より高い場所から傘をさして飛び降りたりとか、とにかく思いついたことをそのまま行動し、ついでに俺たちも巻き添えにした。
こう書くと出海が非道い悪ガキになってしまうが、ああ見えて正義感は強かった。
俺の親の事情は、田舎町なのでご近所中が知っており、異分子を嫌う他の子供らによく絡まれたのだが、俺がキれる前に出海が先に怒ってとびかかり、気がつけば俺が仲裁しているという妙な構図になることがよくあった。
「ヒデジの敵はオレの敵。サド男の敵もオレの敵」と公言して憚らない出海は、単なる喧嘩好きだとは思う。が、それでも、自分の為に怪我を厭わず怒ってくれる友がいるかいないかでは雲泥の差だ。
ちなみに当時の出海の一人称は「オレ」で、決してスカートは履かなかった。お陰で俺達は出海が女であるということを、中学に入るまで完全に失念していた。
あれは小二の頃だったか。たまたま出海も渡も近くにはいたが少し外していた時だった。
一人でいるのを好機とみた頭の悪い複数の上級生に、捨て子だ孤児だと嘲られ殴られ、俺はキレた。
この間、頭が真っ白になって全く記憶にない。
ただ、気づいたら、上級生たちの姿はなくて、代わりになぜかボロボロになった出海と渡が、必死で俺の腕にしがみついて俺を止めていた。
二人とも顔面をボコボコに殴られて、鼻血も流していた。唇だって切れている。珍しい。出海は喧嘩慣れしているし、渡は俺より強かったのに、まるで無抵抗で殴られたかのようだった。
「ヒデジ、ヒデジ、大丈夫だ、あいつらもういないから、もう大丈夫だヒデジ」
その言葉で、俺は、二人をこんな目に遭わせたのは自分だと理解してしまった。
上級生の親達は俺の家に苦情を言いに来たが、渡と出海が何故そうなったかを大人たちにきちんと説明したため、上級生たちはむしろ親から叱られる羽目になった。
俺はその間ずっと、部屋の隅に引きこもって、膝を抱えて蹲っていた。自分が赦せなかったからだ。
丸一日、俺は部屋の隅で動かずじっとしていた。飲まず食わずで。自分なんか死んでしまえばいいとさえ思った。
俺は、あんな狂った姿を見られて、出海や渡に嫌われたと思った。その喪失感のあまりの大きさに、感情すらなくしていた。
自分は生きる価値がないと思った。だから父親は俺を捨てたのだろうと。
だが、相手はあの出海である、ということを、俺はすっかり失念していた。
鍵のかかったドアの向こうで、激しい音が繰り返し響いた。誰かが蹴っているのだと気づいた瞬間、ものすごい音と共にドアがふっ飛んだ。
同時に、小さな人影がゴロゴロと転がり込んできた。出海だった。蹴って駄目だったから体当たりしたらしい。既に数度の蹴りで蝶番が緩んでいたところにそんな真似をしたので、勢い余ったのだろう。
「うぉぉぉいてぇぇぇ」
今の勢いでは多分全身を激しくぶつけただろう、自分でもどこが痛いのかよくわからなくなってのたうっている出海に、「何やってんだこの莫迦」と、渡が冷たい目を向けながら入ってきた。
「ははは強行突破というやつだ! あまてらすが隠れた岩戸は力尽くでこじあけるが昔からの仕来りなのだよ!」
「何を言ってるのかよくわからん」
ある意味あまりに見慣れたやりとりを経て、出海がくるりとこちらに向き直る。
顔の青痣が痛々しい。医療用のテープも口許に貼られている。
「ヒデジ」
なのに、いつも通りの笑顔で、出海は言った。
「迎えにきたぞ、遊びいこーぜ!」
何のためらいもなく、真っ直ぐに差し出された手に、俺は戸惑った。自分にその手をとる資格などないと思っていた。
だが出海は、いつだって容赦なくこちらの内側に入ってくるのだ。このときも。
がっしり腕を捕まえて
「だーいじょーぶだって。次はお前がキレるまえに、オレがあいつらぶっとばしてやる。あ、万が一キレても、そんときゃオレがお前をぶっとばして止めるわ。とりあえず気絶させた方が手っ取り早いと兄ちゃんがいってたんでそうするし!」
笑顔ですごい宣言をする出海だった。
「ぼ、ぼく、ぶっとばされるの?」
この時の俺の一人称は「ぼく」だった。子供だったので仕方ない。
俺の間抜けた問いに、渡が答えた。
「とにかく気絶させてしまえ、とカイ兄の命令だ。そうすれば、お前も気に病むことはないだろう。被害者になるんだし」
カイ兄とは出海の兄の海人さんのことだ。ちなみに、渡にサド男というとんでもないアダナをつけた張本人でもある。後で和真さんに叱られ、その呼び名は禁止されたという裏話がある。俺たちがその「サド」の意味を知ったのはもう少し後の話だ。
「まあ、同じ失敗しなきゃいいのさ。オレを見てみろ、失敗を恐れず何事にも挑戦しているだろう!」
「いやお前、少しは懲りろ。付き合わされるこっちの身が持たん」
出海と渡がいつもの言い合いをしつつもさりげなく俺の両脇を陣取り、一気に両腕を掴んで立ち上がらせる。
「よぉっしヒデジほかぁーく! 次の作戦行動に移りまーす!」
「え、え、え」
俺はわけがわからないまま、そのまま二人によって強引に部屋の外へ連れ出され、茶の間の食卓の自分の席に座らされた。
「ごーはんっごーはんっ」
出海は相変わらずのテンションで俺の横に座り渡はその反対側に座り、俺の前には一日ぶりの食事が並べられる。
「赤川のおばちゃんのごはんおいしいよな。いっただっきまーす」
出海につられて、両手を合わせていただきますをし、そのまま、なんとなくご飯を一口食べた。
おいしい、と思った。
丁寧に食べる渡と、豪快に食べる出海に挟まれて、俺はゆっくりごはんをかみしめた。
白米なのに、何故だか途中でしょっぱくなって、視界も滲んでいた。
ごはんは、おいしかった。本当においしかった。
途中で嗚咽が漏れて、食べるのに苦労したけれども、きちんと食べた。
自分は、ここにいていいのだと。赦されているのだと。心からそう思えた。
結局その後、俺がキレたのは後にも先にもその一度だけで、後は絡まれても、宣言通りまず最初に出海がぶっとばした。
三人で色々冒険もしたし、遭難もした。命の危機を感じたことは二桁で足りないかもしれない。
でかい犬に襲われそうになったときは、出海が手近な棒切れを拾って俺たちの盾になって犬を牽制したこともある。俺は情けないことに腰が抜けて動けなかったし、渡は犬を下手に刺激しそうで動けなかったらしい。
結局犬は何もせずにどこかにいき、俺たちが出海に駆け寄ったら、出海はそれまで眼光鋭く犬を睨みつけていたというのに、ふにゃりと崩れてへたりこみ、「こ、こわかったよう」と泣き出した。つられて俺と渡も泣いた。三人でわんわん泣いてたので、近所の人が何事かと集まってきていらぬ恥をかいたこともある。
三人で冒険の旅に出ようぜ、といって小舟で海に漕ぎ出しオールを流され漂流し、真っ暗な夜の海が怖くて三人で震えあがって抱きついていたらいつの間にか寝てしまい、朝、なぜか船は地元の浜に打ち上げられていたという不思議なこともあった。
この時はさすがに激しく叱られたが、大人たちが「流石は浦河の血筋よなあ」と、しきりに首を傾げ、不思議そうな顔で小舟を眺めていた記憶がある。
後で知ったが、潮流的に俺たちの小舟があの浜に戻ってくるのはあり得ないことらしい。
「海神様に感謝しろよ」と言われたので、近くの神社に三人揃ってお参りにいったら、何故か木の上から貝殻が落ちて出海の頭に当たる、という珍事が起きた。
何故木の上にそんなものがあったのか、何故あのタイミングだったのかは、未だにわからない。しかし当の出海が全く気にしていないので、謎は謎のままだ。
落ちてきたのは綺麗な巻貝だったので、出海はそのまま気に入って持ち帰った。今でも机に飾っているらしい。
話はそれたが、まあ基本的にはそんな感じで、俺のこれまでの人生はほとんど出海によって振り回されたようなものだった。
それでも、俺にとっては、出海は何をしでかすかわからないびっくり箱のような奴で、同時に、俺にとっての『救い』そのものだった。
三人でならどんなことでもできるし、どんな所へもいける。そんな奇跡を信じさせてくれる奴だった。まあ実際は失敗の方が多かったが。
中学になって、出海が嫌々ながらスカートを穿いた。一人称が「オレ」から「私」になり、男言葉が少しずつ改められていく。
俺と渡は成長期でどんどん出海より大きくなり、中学時代はその変化を受け入れることで精いっぱいだった。
それでも、出海は出海で、俺たちの関係はこのまま永遠にずっと変わらない。
高校に入ってから時々、出海と俺たちの関係を誤解したり邪推したりする人が増えてきて、その結果出海に卑劣な罠が仕掛けられたこともあった。
渡が実家のツテを使って、裏で手を回していた女生徒を特定し、俺たちは噂で報復すると決めた。思ったより早く噂は広がって、犯人たちは町を出る結果となった。ザマアミロ。
いつもへらへらしてるせいか、善人と誤解されがちだが、とんでもない。俺は出海や渡と長年付き合ってきているのだ。そんなわけがないだろう。
俺が笑っていられるのは、出海と渡のおかげだ。恥ずかしくて本人たちには面と向かって言えやしないけど、掛け替えのない大切な友人たちだ。
そんな二人を傷つける輩に対し、俺は一切容赦するつもりはない。多分これは、出海も渡も同じことを思っているはずだ。
あの時は出海が軽症ですんだからその程度で済ませたが、もしそうでなかったら、俺達は犯罪者になることも厭わなかったと思う。
俺たちの関係は友人というか仲間というか、もはや運命共同体になっていると思う。そこに性別の差はない。
だからこそ近すぎて、俺が出海に惚れるとかありえないし、出海が俺に惚れるわけもない。渡もそうだ。
でもこんな特殊な関係は人に説明しきれないから、聞かれたときはあえて「幼馴染」と答えることにしている。便利な言葉だと思う。
もし、出海の性別が男だったらと、本人には言わないけれどいつも思う。三人でいるのにむしろ邪魔になるのが性別だったからだ。
夜通し歩いてどこまでたどり着けるか試して、途中で力尽きて、手近な小屋に潜り込んで三人でくっついて眠って夜が明けて、発見されて大目玉をくらったり、とか。
もう、そんな真似はできない。子供じゃないから、というのも勿論だが、若い男女が三人で一夜を過ごすということが大いに問題であるらしい。莫迦莫迦しい。
出海が女で、俺達が男だから。そんなくだらない違いのせいで、俺達が共にいることに弊害がでるなんて。
今の出海はかつての快活さは鳴りを潜め、巨大な猫をかぶっている。俺達の傍に居るための猫を。
けれど多分中身はそのままだ。軽く誘いをかければポロリと普段の出海が出てくる。まあそのせいで他人には暴力女と呼ばれてしまっているらしいが。
大人になるに従い、制約が増えていく。不愉快な常識とやらを押し付けられて推し量られる。
それでも、俺達はずっと一緒にいられると思っていた。
まさか、それを俺自身が崩すことになるとは、この時は思ってもいなかった。