第二章ー2
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あの、ボクもあそこへ連れてってくれませんか? と云った瞬間、蘭の踵落としが炸裂した。フベス! という音がボクの口からもれる。脳天直撃、舌を噛まなくてよかった、でも古傷が開き、三度目のデロデロ。
「このスケベ! 本当は南先輩に抱きつかれてその豊満な胸を吟味したかっただけでしょ!」
いやいやそんなやましい気持ちはありませんよ。たしかに南先輩は巨乳ですよ。E、いやFはゆずれない。ときどき視線が南先輩の胸に行って視界いっぱいに盛り上がった赤いネクタイが映りますよ。でもボクは純粋にリンの死に関する情報を得たいだけですよ。そりゃあ空を飛ぶためには後ろからギュッと、いやギュギュギュッとしてもらわないといけないわけでそれでもやっぱり胸の大きさ感触などよりもリンがどうやって死んだのかが気になるわけであって、という言い訳を思い描きながら、ボクは血を流しすぎて意識を失った。
気がつくと、カーテンの隙間からもれるすこやかな陽射しがボクの頬を撫でていた。
なんて平和な日なんだろう、この優しいキラメキをみんなにもわけてあげたい。などと思うはずもなくボクは飛び起きる。
ああ、なんだかすごく心地よい香りが漂っている、と、周りを見渡す。それもそのはず、ここは保健室で、机に向かって何かを書いている富良野晃先生がいたからだ。『ペインキラー・ジェーン』のエマニュエル・ボージアと『バウンド』のジーナ・ガーションのように眼と顔立ちに強さがにじみ出ている。かわいいとか綺麗とかではなくてかっこいい。みんなの憧れの先生。蘭と対極の顔立ち。どちらかというと転入生の貫井可子に近い。
「あら起きたの? あなたたちは相変わらず仲がいいのね」
この状態を見て、どうして仲がいいと思えるのかわからないけど、何度も何度も保健室に運ばれ、その都度、同じセリフを云われるのでもう慣れた。イヤ~もういい加減蘭のヤツには落ち着いて欲しいですよ~、と返して、晃先生は声を殺して笑った。
「蘭はもう授業に出たのですか?」「何云ってるの。今は放課後よ」「え?」「傷はたいしたことなかったから疲れてるんだろうと思ってそのまま寝かせていたの」「あそうですか」「先生失格ね」「いえいえたまにはいいと思いますよ」「傷はどう?」「痛みはまだあるのですが血は止まっているようです」「そう、よかったわ。繊細な場所でしょ、だから恵造くんのお口をあ~んさせて私の舌に薬をつけて治療したんだから」「冗談ですよね」「ええ冗談よ」「……本当だったら彼氏に殺されるところでしたよ」「彼氏なんていないわ。ただいま募集中♪」「あそうですか」「そんなことより蘭ちゃんが心配してたわよ。早く行ってあげて」
放課後ということは部活に出ているはずだ。彼女はバレーボール部所属、スタメンでポジションはセンター。チョコンと上げたボールを素早く打つポジションだ。蘭は素人目に見ても上手だ。動きが素早い。さすがネコ。事件のあとなので体育館は使えないはずだ、運動場で基礎体力でもつけているのだろうか。
「ところで富良野先生――」
ボクは乱れた衣服と脱がされた下着を直しながら、という冗談は置いといて、居住まいをただして質問した。
「外向リン殺害事件のことで知っていることを訊かせて欲しいのですが」
「あれは殺人事件なのかしら?」
「不可解な点が多すぎます。だからボクは殺人だと確信しています」
「自殺、とは考えられない?」
「その可能性はゼロではありません。だけどそう考えると、腑に落ちない部分が多すぎるのです。自殺ならロープや遺書など、何かが残っているものですから。事故だとしても、いったいどんな目的で、体育館の天井まで行かなくてはならなかったのか」
「まあいいわ。警察にもすでに説明したんだけど、私が知っていることはひとつだけ。外向さんが死んだ日、彼女がひとりで学校に戻ってくるのをこの窓から確認したことだけよ」
「何時頃でした?」
富良野先生は左上を見上げ、やがて思い出したかのように、
「そうそう、帰る準備をしていたから八時過ぎだったわね。何しに戻ってきたのかしらと不思議に思っていたんだけど、それ以上に、彼女の表情が変だった。何処か不安をはらんでいるような。理由はわからない。どうしたのかしら、と不審には思ったわ。でも思っただけで、すぐに違うことを考えたからそれで終わり。そんなに接点がある生徒じゃなかったからね、恵造くんと違って」
はい、ボクは頻繁に保健室に来ますよ。別に先生が好きだからじゃないですよ。まあいいや。
「ひとりだったのですか。おかしいですね。外向リンと時鮫空子と白家まよいは何をするにもつねに三人いっしょでした。それこそ別々に行動するのは授業中と家に帰ったときくらい。それなのに何故、その日に限って、彼女はひとりで行動していたのでしょう。富良野先生、時鮫空子と白家まよいは少し離れたところか、別の場所に居た、という可能性はないのでしょうか?」
先生はカーテンを開けて、窓の外を見ながら答えた。
「いいえ。彼女ひとりだったわ。ああそれと、生徒がひとり、リンちゃんとすれ違っただけ。誰だったかしら。そうそう、バスケ部キャプテンの東西さんね」
「南先輩が……。わかりました。いろいろとありがとうございます。これ以上遅くなると蘭のヤツに傷を増やされそうなので、もう帰りますね」
そう云って立ち上がったボクに対し先生は上目遣いに、
「ちゃんと蘭ちゃんを待ってあげるのよ」
「わかりました。今頃は走っているのかな? ちょっと運動場を覗いてみますよ」
はい、ウソです。このまま帰ります。というか、時鮫空子か白家まよいの家に行って外向リンの謎の行動について訊いてきます。さようなら蘭。部活がんばってね。
「そうだ、恵造くん」
ボクが頭を下げて保健室を出ようとしたとき、富良野先生が呼び止めた。
「もうひとり居たわ。しばらくして女子生徒が現れたの。帰り支度をしていたから注意を払わなかったの、だから誰だかわからない。リンちゃんが消えて、五、六分くらいしてからかしら」
「特徴とか何かありましたか?」
「横顔しか見えなかったんだけど、とても綺麗な顔だったわ」
「それだけじゃ誰なのかまったくわかりませんね。もしも今度見かけたら名前を訊いてボクに教えてもらえますか?」と云い残して、保健室を後にした。
☆
考えてみると、白家まよいの家はわからない。時鮫空子とは中学がいっしょだったからどの辺かはわかる。ということで空子の家へGO! 校門を出たところで不思議天然美少女の舞亜に呼び止められた。
「通雲恵造、何所へ行くのだ?」
「帰りますよ、そりゃあ、ええ、間違いなく帰りますよ」と答えた、だけど、ちょっと待てよ、と考えを改めた。
「いや、実は空子の家に行こうと思っているんだ。リンのことでいろいろ訊きたいことがあってね。いっしょに行こうか?」
舞亜は体育館の天井で何を見、何を得たのか。それを引き出そうと思い、誘った。
「いいよ。ふむふむ。ワタシからも情報が欲しいのか?」
図星! この子、変なだけではない。《鋭い》が付く変人だ。かしこい天然だ。まあいいや。とにかくすべてを訊き出そう。
夕焼けが舞亜の白い肌を朱に染めている。生暖かい風を避けるように、ときおり見せる首を振って髪をかきわける動作にボクはドギマギしてしまった。よくよく観察してみると、舞亜は絶世の美少女だ。そして、表層の弱さに隠れた奥底の芯の強さを感じる。それは決して隠しているわけではなくて、雰囲気、気概がそう感じさせているのだろう。彼女の顔をジロジロ見ているとふいに視線が合った。お日様が今日も一日元気でよかったね、などと意味不明の言葉が口をついたが気にするふうもなく舞亜は云った。
「外向リンがどうやって上までのぼったのかまったくの謎だ」「壁側をよじのぼって、天井の柱から伝って行った可能性は? ジャングルジムみたいにアスレチックの要領で」舞亜はここで首を横に振った。「外向リンのにおいは真上の一か所にしかついていなかった。つまり、彼女はある方法を用いて直接天井までたどり着いて、そのまま落ちたことになる」「どうやってそこまで行ったんだろう」「今のところ、謎だ」「そういえばチョコレートのにおいがどうとか云ってなかったっけ?」「うむ。外向リンが落下したと思われるちょうど真上の鉄筋に、チョコレートの香りが濃く残っていた。それに彼女が落下した場所からもわずかながらにおいがした。つまり、彼女は死ぬ直前までチョコレートを食べていたということになる」「体育館の天井で?」「そういうことだ」
意味不明だ。そもそもリンはどうやって上まで行ったのだろう? 実はリンはトリ? いやそれはあり得ない。白いご飯とパスタの麺を間違えてしまうくらいあり得ない。リンはブタなのだ。一部のブタは飛べる(?)それは置いといてリンは飛べない。ただのブタなのだ。ジャンプした? それも無理だ。ブタのジャンプ力は身軽なものでも約一五0センチほどだという。はい体育館の天井になんて届きませんね。じゃあとうやってリンは上に行き、そもそもなんであんなところでチョコレートを食べたのか。うわ~意味がわからない。空子に会って、解決につながる新しい情報を得られればいいのだが。
「舞亜はなんで事件に顔をつっこむんだ? リンのことなんて知らないだろうに」「ふむ、良い質問だ。だけど教えない」「え~なんで? いいじゃないか」「そのうちな」
そう云ったきり、彼女は口を閉ざしてしまった。まあいいや。
空子の家に近づいたのは間違いないのだけど、くわしくは知らないので、迷ってしまった。幹線道路から路地に入り、周りは民家ばかり。この中から時鮫家を見つけるなんて数時間じゃ無理。しまった、と青ざめて路上に立ちつくしていると、こっちだ、と舞唖がすたすたとしっかりした足取りで歩きだした。黙ってついて行くと、あった、時鮫家。本当に鼻がきくんだ、と感心した。
八世帯アパートの二0四号室。チャイムを押すとまだ制服を脱いでいない空子が出てきた。時鮫空子はナマケモノだ。ナマケモノにはフタユビナマケモノ科とミユビナマケモノ科がいるが、空子はちゃんと五本指だ。耳は小さくしっぽは短い。短いからスカートの中に隠している。一見すると普通の人間の女子高生なのだがやはりナマケモノだとわかる。身長はソコソコ高い。一六五センチ以上はあるだろう。だけど少し猫背気味で高くは見えない。耳を隠すくらいのショートカットで顔は普通。これといった特徴がない。片目をつぶってニメートル下がってさらに開けているほうの眼を細めたら『チャーリーズ・エンジェルシリーズ』や『バリスティック』、『ラッキーナンバー7』のルーシー・リューに似てなくもない。
リンのことで話しを訊かせてほしいと云うと、あがる? と云ったがこのままでいいと答えて質疑応答が始まる。まずはボクから。
「あの日、何故リンはひとりで行動したのか、理由を知りたいんだ」…………答えない。「彼女は何故、学校に戻ったの?」無言。ここで舞亜が威圧するような態度で口をはさむ。「黙ってちゃ何も解決しない。ワタシはこれを殺人事件だとにらんでいる。事故ではない。殺人だ。なんとしても犯人を暴きたいのだ」彼女の意見を聞き、ボクは視線を舞亜に移す。「なにかわかったの?」「仮説はある」
ボクと空子は固唾をのんだ。次の言葉を待つ。
「チョコレート。あれは《エサ》だ。外向リンを上へおびき寄せるためのな」
豚は(ここでは普通の動物としてのブタだ)頭がいい。しつけると犬と同等の知力を発揮する。番犬ならぬ番豚と云える。しかし、じゃあ何故、番豚がいないのかというと、ひとつだけどうすることも出来ない欠点があるのだ。それは、食欲。訓練を受けた犬は眼の前に食べ物を出されても手(口)を出さない。だけど豚はそうは行かない。どんなに訓練をしてもしつけを施しても、食べ物への欲求を制御することが出来ないのだ。
舞亜が云ってるのはこれだ。なるほど。それなら納得がいく。
犯人は体育館の天井付近にチョコレートを設置し、外向リンを上へ誘導した。そしてリンはチョコレートを食べながら(もしくは食べ終わって)落下し、絶命した。それはわかったのだけど、どうやって上まで行ったのだろう。
空子がゆっくりと口を開いた。ボクの意識が空子に向いた。リンのことを思い出したのか、彼女は眼にうっすらと涙を浮かべている。
「水曜日の夜、リンは学校へ行くと云っていた。どうしたの? 行くならまよいも呼んでいっしょに行こう? と云うと彼女はそれを断ったの。とてもびっくりしたわ。だってこんなこと初めてだもの。学校に行く理由を訊いても何も答えない。あとからまよいも連れて学校に行くと云っても『来ちゃダメ』と断った。もう何が何だかわからなくなって、私はすぐ、まよいに電話したの」「で? 君とまよいはあとから学校へ行ったの?」というボクの質問に対し、「いいえ。まよいが、そっとしとこう。何か想いがあっての行動だからそれを尊重しよう、と答えたの。だから行かなかった。今にして思えば、その判断は間違っていた。リンは私たちに相談できないような問題を抱えていたのに違いないもの。もしもあの日、私たちも学校へ行っていれば、リンの死を回避できたかもしれない」
ここでこらえていた涙が溢れ出し、空子は鼻をすすって泣き出した。
奥から両親が顔を出し、大丈夫か? と心配して声をかけてきたので、ボクたちはここらで切り上げることにした。そのとき、喉を引きつらせながら空子がボクたちを引き止めた。
「今にして思うのだけど、ひとつだけ気になることがあるの。リンが亡くなる前日、午後七時くらいだったかしら、彼女から電話があったの。そのとき、『今日、学校でかっこいい男の人を見たでしょ――』と云ったきり口を閉ざしてしまって、そこから先は何も云わなかった。気になった私は『その男の人がどうしたの?』と聞いたんだけど彼女は何も答えてくれない。それきりリンは話題を変えて、しばらくして電話を切った。もしかしたらその男の人が犯人なのかもしれない。その謎の男が、リンを呼び出したんじゃないかしら」「誰かわかる?」「いいえ。私とまよいはちらっと、保健室に入って行くうしろ姿を見ただけだから」ここで舞亜が口を挟む。「男の人を見たという時間は?」「六時半くらいだったかしら」ボクが間に入る。「その人がリン殺害に絡んでいるとは限らないけど、一応、こっちで調べてみるよ」「ありがとう」
ボクたちの親切心になのか、リンの思い出になのかわからないけど、空子は本格的に泣き出した。ありがとう、と空子に云い残してボクたちは帰路についた。
つづく