第九章ー2
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右足の脱臼の痛みが、いくらかさみしさをやわらげてくれた。涙がまぶたの上を通り額から飛翔していく、とそのとき、ボクの足に水が落ちてきた。流した涙が瞬間移動して戻ってきたような感覚だった、そんなはずはない、雨だ、とすぐに理解した。最初はポツポツ。次第にポポポポ。最後にフゴオーッとなった。このままぶら下がっていても仕方がない。まずは反転してロープをつかんで身体を持ち上げよう。そんな体力あるかな、途中で力尽きたらまた落下して脱臼している足をもっと痛めることになると思う、ダブル脱臼? なんじゃそりゃ。ははは。と涙を流しながら笑っていると、ガクンと、ロープウェーが動き出すときのような衝撃とともにボクの身体が上昇した。
ほううう、と安堵したボクは数秒後、窓から救出された。救出され、痛む足をさすり、恩人を見上げたとき、そのままぶら下がっていたほうがよかった、と恐怖した。
血と雨が入り混じった液体を身体中から滴らせる、可子がそこにいたのだ。
稲光が走る。その閃光に浮かぶ可子の顔は、もう可子なのかボクには判断できなかった。いろいろな要素が全身を取り巻いているような風貌だった。今なら納得が出来る。可子はトラだが、その内部にチーターとヒョウを宿しているのだ。これまではどちらかひとつが表に出ていたのだがどうもその法則が崩壊してしまっているようだ。今の可子はトラでありチーターでありヒョウなのだ。それが何を意味するのかボクは絶望のうちに知った。
ボクは可子の背後にある出口へと視線を巡らせた。ドアまで十メートルくらいだろうか。片足でこの距離はまず逃げられないと悟った。悟ってあきらめて大きく息をついたら何だか気が楽になった。だからボクは可子に訊いた。
「男だけを殺す理由はなんだ?」
「すでに聞いているはずよ」
ボクは、ああ、我十院真子とのことだな、と思い出して、彼女の眼を見据えながら云う。
「たしかに、これまで男は散々ひどいことをしてきた。数々の非人道的なことをしてきた。人類の歴史は女性軽視の歴史と云ってもいい。だからといって、殺したらダメじゃないか。けっきょく、君のやっていることは、男性のそれとなんら変わりないと思う。それにボクは、女性のほうが、男性をはるかに凌駕していると思ってる。だって、次の世代を産み、未来をつくるのは、君たちだろ」
説得してこの場を脱しようとかそういう想いはなかった。ただただ、可子の行為を許せなくて、説得じゃなくて説教になってしまったことに少しは後悔したけど、それを訂正するつもりなどない。父親がこの場にいたのなら、可子をなんとか上手く言いくるめられただろうな、と最後に見た彼の微笑が、脳裏に浮かんできた。
しかし、すべてが無駄だと、可子の次の言葉で知ることになる。それは同時に、獣人化現象の新たな脅威を垣間見ることになった。
「男男うるさいのよ。あああ、男男は好きよ大好きよ。強くしっかりしている特質をもった男を愛してるわ。期待して裏切られて男男男、あああ、男男、名誉の本当の意味を知らないくせにおろかな男男男、どうでもいいの。本当は男が大好きなの。男男うるさいのよ。エヒエヒ。私はワタシはわたしは男が好きなの。男男うるさいのよ。((ワタシ(わたし)私))は男なんてどうでもいい人間が許せない人間が憎い人間が嫌い((わたし(私)ワタシ))は強くなんてならなくてもよかったのエヒャヒャヒャ伐採虐殺虐待乱獲エヒャヒャヒャ。男男うるさいのよ。エサエサエサエサ。ただ……愛が欲しかった」
そこで可子はくずおれて顔を両手で覆った。
「男を滅ぼすまで私はやめないやめられない。だから許してちょうだい、お父さんお母さんこんな娘を許してちょうだい」
そこで顔を上げて可子は云う。
「だから、ね、死んでくれる?」
血の涙を流し、口はしからも赤い液体をたらし、二度目の稲光に浮かぶ可子の顔はもう、人間と呼べるものではなかった、いや、もう、獣人とも呼べない。
ああ、舞亜が住んでいた町、つまり、忌憚町事件の犯人は、やっぱりこの人なんだ、と理解したと同時に生き残ることは不可能だと思い至った。
いつの間に泣きやんでいたのか、可子はなんの感情も持たない冷やかな眼でゆっくりと立ち上がった。その瞳には、食うか食われるかやるかやられるか、一切、妥協のない真剣な色が浮かんでいる。それは野生を物語っていた。中途半端な気持ち、やる気、行動などでは到底生き残れない世界。その研ぎ澄まされた、洗練された光が、可子の眼窩から放たれていた。
一歩、また一歩と近づいてくる可子。それが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のクライマックスのようで、一瞬、我を失った。だけど迫りくる暗い未来が、すぐにボクを現実に戻す。
おそらく、一撃だ。ボクなんか――いや、人間なんか、それで事足りる。ボクは死ぬ前に、心に残った最後の言葉を吐き出した。
「たった十数年の人生で、人間を嫌いになるのは早すぎるだろ。もっともっとすばらしい世界が広がっているのに、もう結論をつけるのか?」
「殺してつぶして切り刻んで両親を破壊した。人間以下の私には、地獄の底を這いずるしか道は残されていない。もう、遅いんだ」
「あきらめるなよ。ひとりで無理ならボクが手を貸す。罪を償うのはそう簡単じゃないかもしれない。それでもボクは君の助けになってやる。人間を憎むなよ、男を恨むなよ。蘭も、舞亜もいる。みんなで、君を救ってみせるよ。どれくらいの時間が必要かわからないけど、いつまでもいっしょに居てやる。役不足かもしれないけど、ボクが、男の良さを教えてやる。だから遅いとか云うなよ。諦めたら、そこで終わりじゃないか」
心にわだかまっていたものをすべて吐き出した。もう死んでもいいや、ボクが死ぬことによって、可子の内で何かが芽生えて、それで犯罪に手を染めることをやめるならそれで本望。ボクの死は無駄ではなかったという証拠。それでいいや大満足。
一歩、また一歩、殺意を込めて可子がゆっくり前へ進む。その姿を見るたびやっぱり死ぬのはイヤだという思いが鎌首をもたげる。なら見なければいいとひらめいて眼を閉じる。そこですぐに後悔する。闇は想像力を掻き立てるのだ。今このとき可子は右腕を振り上げているのではないのか? 左足に重心を乗せて右足を繰り出そうとしているのではないのか? あまりにも恐ろしいので眼を開けることにした。同じ死ぬにしても、眼をしっかりと見開いているほうが恐怖は少ないだろう。そう決心して眼を開けると異常な光景が。その異常さを認識したとき、ボクは自然と声を上げた。
「舞亜!」
「無事か? またせたな」
ええ待ってましたよ今回はものすごく待ってました。ボクの顔に笑顔が戻る。
☆
舞亜には勝機があった。
チーターの敏捷性、ヒョウの機動力はこの狭い部屋では上手く機能しない。それらは距離と空間があってのものだ。だから実質的にはトラとの一対一の戦い。
犬はオオカミが進化した形だ、と云われている。進化の本質が、《生き残る確立》なのであればまさしく進化と云えるだろう。しかし、身体能力に関しては、犬は、オオカミの退化した姿だと云わざるをえない。食肉裂脚亜目イヌ科最大最強であるオオカミ。舞亜は自分の力を信じていた。
トラ対オオカミ。しかしこれは野生動物同士の戦いではない、肉体的不利、重量の差がほとんどない獣同士の戦いなのだ。ネコ科ではライオンの次に強いとされるトラだが、舞亜は臆することがなかった。
トラの戦い方は、その黄褐色の毛と黒い縞模様を活用して背景に溶け込み、カモフラージュし、獲物に忍び寄る。射程距離に入ってから、襲う。
オオカミの戦い方はその頭脳と忍耐にある。連携プレイ、もしくは獲物との一対一の根競べ。その根競べでは獲物と数十キロの追跡劇を成すこともある。
能力の過信ではない。能力の妄信でもない。優れていると信じる至誠――オオカミのほうが強い、勝っている、と舞亜は固く確信していた。
至誠……①きわめて確実なこと ②まごころ ③超難問クイズに出てくるような言葉
すべては一瞬の出来事だった。
舞亜は可子の攻撃、もしくは行動を読んでいた。ある程度の予測を立てていたのだろう。
可子の岩をも破壊する右の振り降ろし、しかし舞亜は、可子が攻撃を繰り出す直前に身を避けていたのだ。横の壁を蹴り、宙を舞い、膝が、可子の顎をとらえる。
脳を揺さぶられた可子は、白目をむいてその場に倒れ伏した。
つづく




