表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/27

第七章ー2

     2


 眼が覚めてみんなの朝ごはんを用意するためキッチンへ行き料理しているところに夫が歯磨きをしながらやってきました。すぐできるからちょっと待ってて、と云いながら振り返ると、夫は生タマゴを落としてしまったときのようなまぬけな顔をしながらこちらを見ていたのです。邪魔だから向こう行ってて、と云うと、返事もせずに奥へと消えて行きました。どうしたのよいったい、とあきれましたが、急いでいたのでそのままにしておきました。それと入れ替わりに、息子が下りてきたのですが、夫と同様にこちらを見て言葉をつまらせているのです。ずっと後ろに立っていられるのも気持ちが悪いので、あんたも早くテーブルに行ってなさい、と云ったはいいけど、ふたりの変な行動に自分もなんだか不安になってきて料理を中断しお手洗いへ。するとどうでしょう。鏡の前に立っているのは、イノシシ、だったのです。

 食卓は無言のまま進み、夫が先に立って、そのあとすぐに息子も腰を上げました。それからふたりとも、行ってきます、とそっけなく云い残して出て行きました。ダイニングに戻った私はテレビをつけ、そのとき、世界中で起こっている異変を知ったのです。

 イノシシになったからといって別にどうこうしようとは思いませんでした。騒いだところでどうにもならないような気がしたからです。自分よりも頭のいい学者やら哲学者やら何とかの卵が原因なんかすぐに見つけてついでに治療法も見つけてしまうから慌てても仕方ないと思ったからです。だからいつも通りの生活を続けることにしました。


     ☆


 通雲宇美(つううんうみ)は自分の考えを外に出すのが苦手で、まわりによく冷たいと云われた。しかし無関心なわけではなく自分の中で行動や言動をすべて完結させてしまって、それをいちいち口にすることもなんだかな~というだけであった。日本の風習が、ただ、宇美という存在を浮き上がらせていただけなのだ。

 宇美は夫、園竹を愛していた。しかしその想いを口にすることはほとんどなかった。云わなくても自分の中で完結していたからだ。それでもこれまでは問題などなかったのだが、自分の外見が変わり、感情を表に出さない性格が、色濃く夫の中で不信感となって浮上してきたのだろう。浮気の気配こそなかったものの、心の機微(きび)なる変化は鮮明に見てとれた。しかし宇美の性格が、この獣人という病気が治ればすべて元の形に収まると信じさせていて、夫婦仲が悪化するのに拍車をかけていたのだ。

 園竹が死に、園竹以上に愛している恵造だけは、失うわけにいかなかった。

 恵造が産まれて、自分の未来に待っている幸せは、すべて恵造絡みになっている。たとえ自分が不幸になろうとも、恵造が幸せになれるのならばそれが自分の幸せだと信じていたし確信もしていた。

 恵造の幸せ=自分の幸せ。それを横取りしようとしている障害を、宇美は心の底から憎んだ。

 自分を引っ張っている必死で懸命な形相の息子。息子にこれほどの表情をさせる相手が許せなかった。

 自分は人間を超越した存在――イノシシだ。()()目イノシシ科。どんなにスピードを出していてもほぼ直角に曲がることが出来る脚力。時速四十キロからの突進力を侮ってはいけない。猪突猛進なんて愚の骨頂。相手の動きを読んで突進。許さない、許さない。


     ☆


 地の利はこちらにある、と恵造は自信があった。入り組んでいる狭い路地は初心者にとって、モロッコのフェズまでとは云わないが、かなり難易度の高い迷宮だ。方角を予測して進んでもかならず袋小路にぶちあたる。京都のような碁盤とはわけが違う。この辺はかなり複雑な地形なのだ。

 右へ左へ暗くて細くて狭い路地を行く。どうだ? と、背後を振り返る。はいダメです。ぴったりくっついて来ています。というか、なになに? 何でブロック塀などにへばりついてるの? 

 壁を蹴り、反対の壁に身体をひねってまたへばりつく。完全に重力無視。でもトリじゃない。侵入者は間違いなく脊索動物門脊椎動物亜門哺乳網の哺乳網食肉目で裂脚亜目に属している。ものすごい脚力だ。

 逃げ出して数分後、あっという間に追いつかれて侵入者はボクにその恐ろしい豪腕を披露する。そこで母親がピタリズズズクルリと足を止めて振り返って侵入者を迎え撃つ。両手を上げ侵入者の攻撃をとめた。イノシシは充分パワーを持っている。人間の大人を軽々と吹き飛ばすほどの力だ。じゃあ、ここは母親に任せればいいんじゃないの? いや、もしかしたら勝てるんじゃないの? とボクの脳裏にそんなことがよぎるけど物事はそう簡単に行くものではないと同時に気づかされる。侵入者は身体を回転させぐるりと母親の右サイドに移動した。イノシシの脚力はすごい、しかし、侵入者のほうが器用さでは上だった。母親が逃げる前に炸裂する侵入者の突き。右わき腹をとらえ、母親は悶絶を打って塀にぶつかりそのまま膝を折る。ぐったりとするお母さん。

 首をひねった侵入者とボクの眼が合う。動けない。足先をボクに向ける侵入者、しかし、余裕からか、普通にゆっくりと近づいてくる。母親がやめてと悲痛に叫ぶ。大丈夫大丈夫心配しないで、意識を集中してこいつの神経の動き筋肉の収縮体重移動などから攻撃を予測して身をかわすから余裕余裕、と自分自身に言い聞かせるのだけど足はガクブルガクブル、歯はカココココ。そもそも夜の狭い路地で相手の姿すらまともに見えないのに無理な話。それにボクは格闘技の師範でも名人でもない。ああなるほど、ここで死ぬんですか。事故や病気や自然死ではなくて殺されるんですね。はいどうぞ。死は新たな生命の始まり神聖で尊くて清らか、楽園でお会いしましょう、などと、悟りを開いたようなよくわからない感傷に浸っている場合ではない。死んでたまるか。ボクはまだ十六歳で心ときめく未来が待っているのだ。死にたくない。殺されてなるものか。

 ヒュッ! と侵入者の左腕が消えたかと思うと、気づいた瞬間、ボクは首をつかまれていた。そのまま上空にポーンと投げられる。スポーンと飛んだ。家々が小さくなる。またまた『アイキャンフラ~イ』だ。でも今度降り立つ場所は屋上などではなくて地獄。やっぱり空はいい。最後に空に浮かべてよかった。人間のDNAに刻まれているであろう願望、それをかなえられてよかったよかった。

 ところが、世界は、地球は、未来は、ボクを見捨てていなかった。


     ☆


 出会いのすべてに感謝します。

 ひとりひとりの想いはとても小さいけれども、小さい人間にはそれでも大きすぎる。

 人は幸せを追い求めるけれども、もてあましてしまう。

 だから少しの幸せで満足しなければならない。

 それはとても短くて一瞬の出来事かもしれない。

 ならば、断続的に手に入れて行けばいい。

 少しずつ、少しずつ……。

 (はかな)いからこそ、それらのひとつひとつを大切に、慈しみ、感謝しなければならない。


 ボクは思う。

 こんなことは幸せでもなんでもないと思っていることそれ自体が、実は幸せというものではないのだろうか……と。


     ☆


 やがて上昇が止まり、世界が止まり、それから下降が始まる。ここまでの一連の動作はまるで『マトリックス』や『300《スリーハンドレット》』や『ソードフィッシュ』のようにスローモーションというかコマ送りのように進行した。だけどそれらの動きは通常のそれに戻り、急激に加速度を増す。迫り来る地面を見ると、侵入者は拳を振り上げようとしている。

 手を振りかざしても、両脚で防御しようとも、すべてを粉砕されてしまうだろう。

 侵入者とボクの間合いが短くなる。地獄の入り口に立たされてもボクは抗おうとした。出来る限りのことをためそうと思った。だけど同時に、《諦め》が、ボクの中に渦を巻いていた。

 そこに、天使が現れたのだ。翼を生やした天使。

 ボクの身体がニュートンの法則を無視して弧を描きながら再び上昇する。

「間に合ったわね」

「南先輩!」

「空を散歩していたらちょうどアイツをみかけてね――キャ!」

 先輩の悲鳴とともに、ガクンと下降を始めた。何が起こったんだと見下ろすと、南先輩の足首をつかむ侵入者の姿があった。

「南先輩、振りほどいて!」

「無理よ。なにこのちから?」

「じゃあ、もっと上昇を」

「それも無理よ。重すぎる」

 地上に降り立った瞬間殺されるだろう。なんとかならないのか、と策をめぐらせているとき、もうひとつの奇跡が起こった。

 緑色のボール? が飛んできたかと思うとそれが侵入者にぶつかった。ぶつかった瞬間、ボールからなにかデロッとしたものが飛び出した。謎の液体が身体中にまとわりつくと、たまらず侵入者は手を離して落ちて行った。南先輩はジャンプしても届かないであろう位置まで上昇してから止まった。

 侵入者はゴロゴロと地面を転がり、眼でも回しているのか、起き上がったあともフラフラと足元がおぼつかない。と、そこに舞亜が現れた。

「待たせたな」と云うけど、南先輩が先に救世主を演じていたのでボクはただ、驚いただけだった。


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ