少女、破談
毒を飲んだ、その知らせにカミエルは蒼白顔で、ルセインは神妙な面持ちでマリーの部屋へと駆け足で向かい、扉を開けた。部屋の中には初老の医師と、ベットに横たわるマリーを腕を組み、眉間にシワを寄せて見下ろしている。既に遅かったか。そう拳を握りしめ、カミエルは医師に尋ねた。
「マリー様は、どう言った状態だ?」
「そこまで深刻にならずとも大丈夫ですよ、一命は取り留めていますし、意識もしっかりしている。しかし肝を冷やしました。マリー様が飲んだ毒は、我々にはまだわからない毒でしたからね。エルフ族に伝わる毒だったのでしょう。この前行われていたエルフ族の薬学講習会に行かなければ、私も薬を用意できませんでしたよ」
その話を聞いて、カミエルは安堵の表情を浮かべて一安心するが、ルセインは以前顔色は変わらずだ。まっすぐとルセインはマリーの横たわるベッドの隣に立ち、マリーの顔をのぞき込む。マリーの目は、何処にも焦点が合っていない、廃人のような目でずっと天井を眺め、口からはヨダレがだらしがなく一筋の道を、枕に滲ませていた。ルセインはこのマリーの表情には既視感がある。ボスを務めていたあの頃、拷問室を横目で通りすぎる時に、偶然見たスパイの顔。ズタボロに心身を抉り、弄り、屈辱を受け、全てを諦めてしまった時のあの顔だ。ルセインはため息をつくと、そっとマリーの首に、手のひらをかぶせるように置いた。
「マリー………死にたいならなんで真っ先に俺に殺してくれと相談しなかったんだ? 水臭いじゃないか」
ルセインの言葉に、医師とカミエルは目を見開き、顔を向けた瞬間、更に驚愕の光景を休む間もなく見ることとなる。ギリリ、と木材と木材が擦れ合うような、ロープの擦れるような音を立てて、ルセインがマリーの首を片手で締め始めたのだ。間違いない、ルセインは本気だ。そう感じたカミエルは、呆然とする医師を尻目に、ルセインの手を掴み、マリーの首からどかそうと両手を使って引っ張るが、ルセインの腕は微動だにしない。このままでは、本当にマリーが死んでしまうと、カミエルは助命を嘆願した。
「気でも狂いましたか領主様! せっかく助かった命だというのに、死んでしまいますよ!」
「ああ、だから殺すんだよ。それがマリーの幸せなんだろうからな」
「仮にも、領主様の妻ではありませんか! 愛する人を殺して、貴方には躊躇いはないのですか!?」
「ない」
眉一つ動かさずに断言するルセインに、カミエルはルセインに対する交渉の道を諦め、マリーの様子を確認する。依然、生きているのか死んでいるのか解らないような様子であり、首を締められて苦しいはずにも関わらず、依然廃人のように天井を眺め続けるのみ。むしろ、ルセインに殺されるのを望んでいるようだ。もうカミエルには四の五の手段を選べる状況ではない。カミエルは、ただ心の中で南無三と唱えると、腰に差していた短剣を抜いた。
「領主様、お許しください」
ザリュっと、カミエルの短剣はルセインの腕の筋肉を切り裂き、鮮血をシーツに塗して貫いた。ドクっドクっと心臓の鼓動とともに血が吹き出し、力が抜けていく。ルセインも苦痛の表情を浮かべ、カミエルを睨み始めた。
「カミエル……何のつもりだ」
「私を独房にぶち込みたかったらどうぞぶち込んでください。私はあくまでルセイン領の安定を鑑みて行動しているつもりです。今、領内は領主様とマリー様の婚儀で祝福ムードに包まれています。その中で、マリー様を領主様が殺してしまったとなれば、領民からの領主様に対する信頼は地に落ちるでしょう。ここは感情に身を任せるのではなく、理性に身を預けるべきです。わかりましたか?」
あくまで冷静に、と促すカミエルに、ルセインはふう、とまたため息を一つ吐き、頷いた。確かにそうだ。感情に任せて人を殺すことほど無益で馬鹿馬鹿しいことは無い。危うく間違った選択をする所だった。少し落ち着いたルセインは、腕を抑えて止血しつつ、マリーに顔を向けた。やはり変わらず廃人のような表情から変わらないマリーだか、生きてはいる。聞こえているのかどうか解らないが、ルセインはただ一言、述べた。
「マリー、もし、俺に少しでも罪悪感があるのなら、俺の話を聞いてくれ。その腹の中の子供は確かに俺の子じゃない。だが、その子供の命を奪っていい言い訳にはならない。だから、死にたいのなら俺に相談しろ、殺してやる。ただし、その腹の中の子供を生んでからだ。安心しろ、俺の手で育ててやる」
それだけ言い残すと、ルセインはマリーの部屋を後にした。カミエルはマリーの様子が気になるようだが、ここにいた所で、マリーの様態が回復する訳では無い。ここは専門家である医師もいる、彼にマリーの対応をさせるのが懸命だ、と判断し、カミエルも部屋を出ていった。残ったのは、医師とマリーだけだ。医師は見計らったように、マリーに声をかけた。
「マリー様、廃人のような振りをしなくても大丈夫ですよ。それとも、本気で欺けるとでも思っていたのですか?
領主様やカミエル様は欺けても、私を欺ける事は出来ませんよ。何たって本職なのですから」
医師の言葉にもマリーは反応を示さない。あくまで無反応を貫くつもりかと医師は察し、そのまま話を続けた。
「何故廃人の振りなど、と聞くのは野暮ですね。領主様の本音を聞きたかったのでしょう。あの言い分だと、マリー様を子供を産む家畜か何かと勘違いしているようにも聞こえますが、私が思うに、領主様が言いたかったのは、そのような事では無いと思います。領主様は聡明なお方であり、他人に対して無知です。故に言葉を適切に選ぶ能力は著しく欠けています。領主様の真意を確かめるには、やはりマリー様自身が直接動くしかありません。老婆心からのお節介ではありますが、どうか、領主様から離れないようにしてください。貴女が領主様を深く愛しているように、領主様にとっても、貴女はかけがえの無い大切な存在なのです」
医師はニコリと笑い、机の上に置いてあるハーブティーを一口啜ると、ああ、と思い出したかのように、今度はしかめ面でマリーに注意した。
「しかし、毒を飲むのはいけませんね。本当に貴女は死ぬか生きるかの瀬戸際だったんですよ。毒を飲む勇気があるのなら、領主様のケツを叩く事も容易でしょう。次はありませんからね」
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「………では、婚儀については今の所変更なしということでよろしいですね?」
時は過ぎ、太陽がどっぷりと地平に沈み、月が空を支配する頃、カミエルが計画書の束を確認しながら、ルセインに尋ねると、ルセインはああ、と頷いた。1度は中止を考えた婚儀だが、やはり高名な身分の方々が既に出席の旨を伝えていることや、領民に対する考慮を考えれば、婚儀を中止するわけにはいかない。幸いにも、マリーは生きているのだ、できないことも無い。後は医者がどれだけマリーの精神状態を回復させられるかにかかっており、最早ルセイン達には出来ることなどはないのだ。
「わかりました。では、婚儀の日程は変わらず1ヶ月後とします。………しかし、本当に良かったのですか?」
カミエルが、聞きにくそうにルセインに尋ねると、またか、とルセインは溜息を吐いた。カミエルが聞きたがっているのは、マリーとの婚儀だ。だが、ルセインは答えを変えない。
「いいと言ったらいいんだ。今回の件を知るものは最小限に留まったし、婚儀を中止した方が失うものが多いと、何度も話し合ったじゃないか。俺の腕を刺しておいて、今更聞くんじゃない」
血の滲んだガーゼに覆われた腕を見せつけ、ルセインはカミエルを睨み付ける。自らが負わせたルセインの傷に、カミエルは黙り込み、わかりましたと一言述べると、そそくさとその場を後にした。当分の間、あの傷を見せられたら首を縦にしか動かせられないだろう。
「ふぁぁぁ………………寝よう」
大きなアクビと共に、ルセインは寝間着に着替えることもなく、執務室に備え付けられている寝具にその身を預け、静かに目を閉じる。きっと次に目を開けたなら、日光が窓からこぼれ、いつもと変わりなく、朝食をとってから執務をするだろう。そう考えながら、意識を手放そうとするが、何か胸騒ぎがする。今日1日で色々ありすぎたせいだろうか、何故か体から警戒心が抜けない。心臓の鼓動が強くなり、傷口も酷く痛む。無理にでも寝ようと寝返りを打ち、呼吸を整えようとしていると、ルセインの耳元に、ある不審音が聞こえた。
「…………なんだ、この金属を擦るような音は?」
バキぃぃぃ!!
突如、けたたましい音を立てて扉が崩れたかと思えば、巨大な斧が執務室の入口からこちらを覗いている。賊と判断したルセインは身を起こし、ベッドの下から銃身の短くなったドライゼ銃を取り出して、入口に銃口をむけた。その時相手の顔を確認し、思わず見開いた。
「マリー………」
襲撃者の正体、それはマリーだった。相変わらず目は死んでおり、無表情で何を考えているのかわからない。ルセインは銃を下ろし、意思の疎通が出来るか図った。
「ど、どうしたんだ? わざわざ扉を壊さなくてもいいんじゃないか? 話があるのなら、明日にでも………」
あくまで自然に、そう考えたルセインはいつものように話しかけようと画策したが、なんの拍子もなくいきなりマリーの斧が暴れだした。ルセインの執務に使う机を両断し、本棚を叩き壊し、絨毯を切り崩しながら、徐々にルセインに近づいていく。下手にマリーを撃つわけにもいかず、徐々に後退していくルセインだが、遂に退路絶たれて、先程寝ていたベッドに足を引っ掛け、ベッドの上に仰向けになってしまった。それを確認したかのように、マリーは垂直に斧を上げ、ルセインの頭上に落とそうと、そのまま動きを止めた。まるでギロチン台に立たされた罪人のような状況に、ルセインは死を覚悟し、目を固く瞑った。
「正直に答えろ、じゃないと殺す」
「…………あ?」
突然のマリーの声に、ルセインは思わず間抜けな声を出してしまった。しかし、マリーは至って気を許さず、本気で殺すつもりのようだ。
「ルセインは………子供さえ生まれれば、私の事なんてどうでもいい? ルセインが欲しいのは家庭? それとも子供?」
カタカタ、と斧から金属音が聞こえてくる。ルセインは目を開くと、マリーの手が小刻みに震えているのが解った。結果を恐れているようだ。聞いておいて、なんて身勝手なことか。そう感じるルセインだが、無言でルセインは起き上がり、マリーの前で跪いた。
「……………斧を、仕舞ってくれないか?」
ルセインの願いに、マリーは斧を下ろしはしたが、決してしまいはしなかった。全く質問に答えないルセインに、マリーは少し苛立ちを覚えるが、ここはルセインのやることを見守ることに徹するのみだ。
…………チュル
「………………ひゃっ!?」
マリーは思わずルセインから身を引き、顔を紅に染めた。ルセインの取った行動、それは、マリーの爪先にキスをしたのだ。一見、バカにしているのかと思うが、これはルセインにとって大きな意味を持つ。
「爪先へのキスは、服従を表す。俺に跪かせて、爪先にキスをさせた奴は、この世にお前を入れて二人しかいない。この意味、わかるよな?」




