少女、退却
コージュラ皇国の軍勢を打ち破って二週間がたった頃、ルセイン領軍は撤退を始めていた。陣に配置されていたテントは見る影もなく、兵士達は物質を荷馬車に詰め込む作業に精を出している。そんな中、ルセインには早目に撤退出来るようにと、数人の騎兵による
護衛と、馬車が用意されていた。
「領主様! 早くお乗りください!」
馬車の中から体を出し、銃兵軍司令が、ルセインを急かした。領主であるルセインに早足に移動してもらわないと、軍の足並みに支障が生じるのをかんがみているのだろう。ルセインは後ろから着いてくるマリーに、一度目を向けると、銃兵軍司令に返答をした。
「先にマリーを乗せてやってくれ!」
「マ、マリー様からですか? いや、しかし領主様の安全を最優先に確保せねばなりませんし………」
「マリーは今子供を身篭っているんでな、何かあったら大変だ」
「こ、子供!?」
銃兵軍司令は目を見開き、驚きを隠せないまま、マリーに視線を向けた。銃兵軍司令と一瞬目が目が合い、マリーは少し伏せ目がちに目をそらした。妙なよそよそしさに、銃兵軍司令は疑問の念を抱いたが、下手なことを言って領主であるルセインの怒りに触れては、溜まったものではない。銃兵軍司令は疑問の念を払拭するかのように一瞬こめかみを抑え、ルセインに頭を下げた。
「領主様、おめでとうございます!
跡取りが生まれたとなれば、領主様の領土は更に安泰することでしょう。こうしてはおられません。マリー様、お速くお乗りください!
いち早くルセイン領に戻り、領内をあげて祝福せねばなりません!」
そう言うと、銃兵軍司令は笑顔でマリーに手を差し出した。マリーはその手を掴み、最後まで銃兵軍司令とは目を合わさなかった。続いてルセインが馬車に乗りこみ、銃兵軍司令が二人が乗ったことを確認すると、馬車から降りた。
「私はここの撤退の指揮をします。では、どうかお気を付けて!」
銃兵軍司令は勢いよく馬車の扉を閉めると、騎兵に何か指示を出して、颯爽と撤退準備中の兵士達の所に向かった。
「前進!」
騎兵の声と共に、馬車は一度大きく揺れ、ルセイン領に向けて歩を進めた。しばし沈黙が馬車の中を支配し始め、何か話すことはないかとマリーは忙しなくキョロキョロを目を動かしながら考えながら、ボスの顔を伺った。
「そ、そういえばデュランダルはどこに行ったんだ? 馬車には乗っていないようだけど………」
「ああ、あいつは先に帰っていったぞ。なんでも、館に戻ってやらないといけないことがあるらしい」
「そ、そうなのか…」
「……なんか妙に大人しいな、何か言いたいことでもあるのか?」
「い、いや! 別にそんな……」
マリーの慌てぶりに、ルセインは軽く眉間に皺を寄せて首を傾げるが、すぐにルセインの視線は馬車の外の風景に注目は変わった。マリーは軽く安堵の溜め息をつくが、それと同時に今後の不安に、ついつい思考が片寄ってしまう。この先、なんの問題もなくお腹の子供を産むことが出来るのだろうか、産むことが出来たとして、その先ルセインとの子供でない事がバレてしまった場合、ルセインは自分のことを捨てないだろうか。そんな考えがマリーの中でドクロを巻き、クロヌウスの誘いに乗ったあの時の自分を恨んでも恨みきれない。
「………マタニティーブルーか?」
「…へ?」
ルセインの問に、マリーは思わず再び視線をルセインに戻す。普段そこまで表情を変えないルセインが、心配そうな面持ちでマリーを見つめている。今まで見たこともない表情だ。
「まあ、俺は男だから大したアドバイスはできないが、あんまり不安にならないほうがいいんじゃないか? お腹の子供にも響くぞ」
「………うん」
今までルセインに心配されたことがなかったからか、素っ気なく答えてしまったが、表情はかなり緩んでしまう。形こそ歪ではあるが、マリーが欲しかった暖かい家庭のような空間が、今馬車の中で広がっているように、マリーは感じていたからだ。
「触ってみてもいいか?」
ルセインがぐいっと身を乗り出し、マリーに尋ねた。マリーは無言で頷き、お腹をルセインにさらけ出した。薄らと腹筋が浮かんだ健康的な腹部にルセインがそっと手を置き、優しく撫で回した。ここに新たな生命が宿っていると考えると、なんとも感慨深い神秘だ。ルセインは撫でているうちに、マリーの鼓動と、もう一人の生命の鼓動を感じるような気がした。
「も、もういいか? 少し恥ずかしいんだが……」
マリーは恥ずかしそうに少し頬を火照らした。何度かルセインに肌を見せ合った間柄ではあるが、執拗に腹を触られた経験は一度もなかったからか、少し気恥ずかしさを感じたようだ。ルセインは頷くと、マリーの腹から手を離した。
「悪かったな」
「い、いや、そこまで気にすることはない」
赤面のまま、マリーは首を横に振った。一度は手を離したルセインではあるが、興味はマリーの腹部から離れることはなく、ずっとマリーの腹を見続けている。ルセインの人生に置いて、結婚は疎か、恋人がいた経験は一切ない。あるとすれば、ボスになる前の軍人時代に通ったお世辞にも綺麗とは言えない風俗街での夜遊びか、ボスになった後に仕事仲間の官僚と身分を隠していった会員制の高級風俗店ぐらいだ。詰まるところ、ルセインにとって子を成すのはかなり新鮮なのだ。もっとも、マリーが孕んでいるのはルセインとの子供ではなく、クロヌウスとの子供なので、実際はルセインの子など存在しない訳ではあるが………。
「………なあ、赤ちゃんの名前、決めないか?」
「赤ちゃんの名前? まだ気が早すぎないか」
突然のマリーの提案に、ルセインは乾いた笑いと共に、少し戸惑った様子で答えた。もしエルフの妊娠期間が人間と同じなら、出産までに約10ヶ月はかかるだろう。超音波エコー検査機器があれば、腹の中の様子を探り、男か女か判断することができるが、そんな物は存在しないので、生まれるその瞬間でないと男女の判断が出来ないので、今から名前は決めづらいのである。
「いや、今のうちから熟考したほうが、生まれてくる子供を深く愛せると思うんだ。私は男ならダナン、女ならクラーナがいいと思うんだが、ルセインはどう思う?」
「俺か?そうだな…………」
ルセインは顎を触りながら、暫し熟考を始めた。やはり自分の子供ともなると、子供の一生を左右する事になる故に、此処は慎重にならざるを得ないようだ。暫く考え抜いた挙句、ルセインは遂に答えをだした。
「女なら、俺もクラーナでいいと思う。男なら……………ユダ」




