少女、悪意
「撤退? なんだ、戦わないのか」
クロヌウスは手に持っていた本を一旦机の上に置き、ボスに顔を向けた。ボスが思っていたよりは驚いた様子はなく、そうか、と特に突っかかる素振りも見せないところから、交渉は簡単に済みそうである。
「はい、将校との会議を開き話し合った結果、国王の命令なしに進軍するのは王の威光に背くことになると結論つきましたので、我々は撤退します。その際、クロヌウス殿が何もしなかったとなると、少しばつが悪いので、王に我々が撤退することを伝えて欲しいのですが…」
「わかった、そう言う事なら王都に戻ってすぐに知らせることにしよう」
交渉成立、クロヌウスが特にごねることもなく、かなり円滑にことが運んで何よりである。これでクロヌウスのテントにいる必要もなくなった、ボスはクロヌウスに軽くお礼の挨拶をすると、踵を返してテントを出ようとしたその時、クロヌウスが思い出したように、ああ、そうそう、とボスを引き止めた。
「なぁ、ちょっと聞いていいか?」
「はい、なんでしょうか?」
「お前んとこの後ろによくいるマリーってエルフがいるだろ?」
「はい、どうかしましたか?」
「いや、聞いただけだ」
クロヌウスの謎の意味のないやり取りにボスは首を傾げるが、特に長居をする必要もないので、さっさと出て行った。
「………くくく、名前呼びしたのに疑問なしか。これはかなり重症だな」
「クロヌウス、火遊びがすぎますよ」
いつの間にいたのだろうか、クロヌウスの座っている椅子の後ろから声が聞こえ、クロヌウスが振り返るとそこにはネロルが少し不機嫌そうにクロヌウスを見つめていた。クロヌウスにはわかる、この不機嫌そうな顔をしている時のネロルは説教が以上に長くなる合図だ。
「何時からそこにいたんだ? 急に現れると驚くからやめてくれ」
「クロヌウスは姿を消して見張っていないと何をやらかすかわかったものじゃありません。現にルセイン領主の女を手玉に取ろうなんて、火遊びの域を超えています」
「大丈夫だって、あの領主噂通りの仕事バカだ。子供でも出来ない限り気づくことは絶対ないって」
「クロヌウス、調子に乗っては行けません! その自信がいつか自らの身を滅ぼすことになりますよ!」
ネロルが怒号を飛ばすと、ああ、やっぱりこうなったかとクロヌウスは両耳を塞ぎ、眉間にしわを寄せた。このままだと日が暮れるまでネロルの説教タイムが続くことになるだろう、一度火のついたネロルを止めるには、一通りネロルの説教を聞き続けるのが確実なのだが、実はもう一つ方法がなくもないのだ。ただ、もう一つの方法は下手すればネロルの逆鱗を逆撫でする結果になるかも知れないので、少し運だめしの部分が出てくる。しかし、上手くいけばネロルの説教タイムを早々に切り上げることが出来るかもしれないのだ。クロヌウスはこれ以上説教を長びかせないためにも、後者を選択した。
「む、ちゃんと話を聴いているんですか! 私凄く怒っているんでっふぁ!」
説教を垂れるネロルに、突然クロヌウスが優しく抱きついた。いきなりの抱擁に、巫山戯ているのかとクロヌウスを打とうとするが、何故か力一杯叩くことが出来ず、ポコポコとあまりダメージのない打撃だけだ。
「こ、こらぁ! 離れなさいクロヌウス! 私は本当に怒っているんですよ!」
「悪かったよネロル、ネロルは本気で俺のことを心配しているんだもんな、心配してくれてありがとう」
クロヌウスは優しくネロルの髪を撫で、耳元でボソッと呟くように言った。この髪を撫でながら言うのが成功のポイントである、それは、ネロルは髪を撫でられるのが大好きだからだ。
「う、妙に素直じゃないですか…怒りにくいですね、全く」
ネロルは少し顔を朱に染め、少し恥ずかしそうに人差し指を絡ませる。効果は的面だ、もうひと押しといった所だろうか。ここは焦らず、ただネロルの髪を撫で続け、ネロルの出方を伺うのみだ。
「…大体、クロヌウスにはもう私とナノがいるじゃないですか、なのに、あのエルフまで手を出しちゃって。私見てたんですからね、この浮気者」
どうやら、ネロルが怒っている本当の理由はこっちが本命らしい。確かにネロルはクロヌウスを見張っていると言っていたのだから、当然クロヌウスとマリーの行為も見ていたのだろう。好きな人が目の前で自分以外の人と性交渉するのを見続ければ怒るのは当然のことである。
「すまない、元々こういう性格だから直しようがないんだ」
「知ってます、でも、それだと私は納得しません。だから………」
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「はぁー、休息午後の部始まりだー」
領主用テントに入ると同時にボスは思いっきり気を抜くと、椅子にどかっと座り込み、なんとなく窓辺に見える空を眺めた。まだ太陽は沈む気配を見せず、陽気な日光が窓辺から差しこみ、ボスの眠気を誘う。
「昼寝か………子供の時以来だな」
ボスは懐かしむ様に目を閉じて、回想を始めた。ボスの記憶が正しければ、昼寝が許されたのは子供の時だけだ。やがて歳をとれば取るほど昼寝に回していた時間がどんどん仕事に奪われてしまい、遂には本来寝るべき夜の時間も削られていく始末である。ましてや組織のボスになれば、眠らずに仕事ができるように薬を渡された時もある。そう考えれば、今の領主業は悪くないかもしれない。忙しいのは間違いないが、機関のボスをやっていた時より休めている気がする。
「…………まずい、本格的に眠くなってきた」
ボスは上着とネクタイを脱いで机の上に置くと、体は眠気で重くなり、ベッドに移動するのも面倒になり、ボスは椅子に座って寝ることにした。寝心地はベッドの方が格段に優れているのは間違いないが、眠ければ寝心地など二の次だ、大した問題ではない。ボス、就寝である。
………ヒタ、ヒタ、ヒタ。
ボスが眠ったのを見計らっていたのか、ボスの寝息が聞こえ始めて数分が立つと、何者かがテントに侵入した。足音はボスに近づき、ボスの正面まで来るとピタッと止まり、ボスを凝視する。
「………寝ている、よな?」
「なわけないだろ、その声はマリーか?」
ボスが目を閉じたまま口を開くと、マリーはビクッと体を震わせ急いで逃げようとしたが、ボスに足を絡ませられて派手に転んだ。さて、どうしてくれようかとボスが目を開けようとした時、マリーが叫んだ。
「た、頼む! 目を開けないでくれ! 私を見ないでくれ!」
「……? どうしたんだマリー、お前朝からおかしいぞ」
「いいから、目を開けないで!」
マリーは必死に言うが、ボスはマリーの静止を振り切り、ゆっくりと目を開けると、目の前に映るマリーを見て、絶句した。
「…………お前、本当にマリーか?」




