少女、一時帰宅
「ふう、久しぶりに戻った気がする」
ボスは馬車の窓の外から見える領主の館を見てため息と一緒に呟いた。ここ最近エルフの里で多忙の日々を極め、屋敷に帰る暇など全くなかった。その上月末には王会議に出席し、見事な演説をしてエルフ族解放の理解を得ないといけない。元いた世界での仕事も大変ではあったが、この世界での領主という仕事もなかなか大変である。
「館に戻ったら王会議まで軽く書類仕事して、ゆっくり寝て過ごすか」
ボスはどこか哀愁を漂わせ、まるで仕事終わりの独身中年サラリーマンのような事を言った。その発言に、マリーは眉を顰める。
「ルセイン、そんな初老の神官みたいな言葉聞きたくないぞ、今夜は私とみっちりしっぽりするんだからな」
「はぁ………あのなマリー、俺は連日の内政にかなり疲れているんだ。少しぐらい休ませても撥は当たらないと思わないか?」
「むむ、ここでセッ〇スレスか? だが私は屈しないぞ」
め、めんどくせー!
ボスは思わず口から飛び出しそうになるが、なんとか胃の中へと飲み込む。大体ついさっきのフランドルのイタズラを見て焦っているのか、それともライバルのデュランダルがいるから焦っているのか良く分からないが、そんな理由で生まれてくる子供は間違いなく不幸であろう。その事を考えると余計マリーと行為をしようとする気が失せる。あ、これがセッ〇スレスか。
「………ルセインは覚えているか? アポライト神殿の地下室で話したこと」
さっきまでハツラツと話していたマリーが、急にしんみりとした面持ちで話し始めた。そこまで気にかけることないだろ、とボスは思ったが、もしかしたらボスが思っている以上にマリーはこのことを真剣に考えているのかもしれない。なんとかくではあるが、ボスも神妙な面持ちになり、記憶の片隅を掘り返し、頷いた。
「ああ、覚えているとも」
「あの時ルセインは、保留だって言っていたけど、いつになったら返事を聞かせてくれるんだ?」
「…………すまんが、やはり返事をすることは出来ない。今俺を取り巻く様々なことが多すぎて、考えている余裕がないんだ」
「…………そうか、でもなルセイン」
ずいっとマリーはボスに近づき、ボスの瞳を覗きこむ。ボスの頬に伝わるマリーの生暖かい吐息から伝わるマリーの呼吸回数、少し興奮しているのか呼吸のペースが少し早く、マリーの顔はほんのりと紅に染まっていく。ボスはこれと言った抵抗を見せず、ただマリーの瞳を見つめるだけである。
「私にも我慢の限界があるからな。いざとなったらルセインの手足を切り取ってでもヤるかもしれんぞ?」
「おいおい、そこまですることはないだろ」
「ふふふ、冗談だ」
すっとマリーはボスから離れ、してやったりと言わんばかりに満足そうな笑みを浮かべる。この短いやりとりに一体どんな意味があったのだろうかとボスは模索するが、マリーの気まぐれだろうと言う結論に留まり、深く考えないことにした。
「領主様、到着致しました!」
使用人が大声で言うと、ボスは軽く首を鳴らしてから馬車を出た。玄関まで進んで扉に手を掛けると、ほのかに異臭が臭ってくるのに気が付いた。まるで腐った卵を数日感放置したような生臭さ、一体中で何があったんだとボスは勢い良く扉をあけた。
「んぐ!? く、臭 !!」
目に見えない強烈な異臭の波がボスに襲いかかり、思わず鼻に布を当てた。女中さんが便所の掃除をサボったのか、はたまた床にネズミの死骸でも埋めてあるのか、そう思うくらいの強烈な臭いにボスは一瞬意識をもってかれそうになるが、マリーが肩を叩き、なんとか保った。
「大丈夫か? ルセイン」
「なんでお前は大丈夫そうなんだよ………つか、どっから臭ってるんだ?」
「アリサの研究室だよ」
「アリサ……………ああ、あの錬金術師様か」
アポライト神殿の研究室と一緒に思い出し、ボスは納得したように頷いた。片付け専用の女中さんまで用意したのに、なんでここまで酷いことになっているんだと女中さんの職務怠慢を疑ったが、今はそれどころじゃない。元の快適な領主の館を取り戻す為、ボスは研究室までの行軍を開始することにした。
「マリー、なんで大丈夫なのかわからんが、一応ここらで待っててくれ、俺がなんとかしてくる」
「うん、わかったぞ」
マリーと別れ、研究室に歩みを進めていくと同時に、臭いもどんどん濃くなっていく。布切れ1枚で進むにはちと難しい所があると判断したボスは、近くの部屋に避難して新鮮な酸素を補給する作戦に出ることにした。
ガチャ………。
「つ、使い魔さん、早く扉を閉めてください!」
開けて早々アルシーに怒られてしまった。せめてただいまの一言が欲しいところだが、ここは素直に素早く扉を閉めた。この部屋にはアルシーの他にも魔女、デュランダルとみんなそろって篭っていたのだ。
「アルシー、いつからこの部屋に閉じこもっているんだ?」
「使い魔さんが仕事で館を空けてからです。
アリサさんが研究がいいところまで進歩したからと言って私達はもちろん、メイドさん達も研究室に入れなかったんです。それから少しずつ異臭が出るようになって、今に至るわけです」
アルシーの話を聞いて、ボスは顎に手を当てて考察を始めた。こんなひどい臭いを発する研究とは一体どんな研究なのだろう、もし館で劇薬の研究をしているのなら有毒ガスが出る前になんとか研究を中止させねばならないが、異臭こそするものの、死人が出ていないところを見ると、その線は薄いだろう。
「ル、ルセイン…なんとかならないかしら」
デュランダルが心底困憊しきった顔で、ボスに嘆願する。デュランダルがここまで追い詰められるとは、明日は我が身となってもおかしくはないだろう。ボスは魔女の肩に手を乗せ、真っ直ぐな目で語りかける。
「魔女よ、臭いをかき消す魔法とかないのか」
「あ、あるにはあるけど…………嗅覚を無くす魔法とか」
「それを俺にかけてくれないか?」
「で、でも当分後遺症が……」
「構わん」
ボスが応じたことにうーんと悩む魔女ではあるが、正直自分もこの臭いに参りそうになっていたので、魔法をかけることにした。人差し指をボスの鼻の頭に乗せると、ブツブツと呪文を唱える。するとボスの鼻の頭に魔法陣が出現し、妖しく輝きだした。
「はい、これでもう大丈夫だよ」
魔女がそういうので、ボスはすぐさま部屋の外に出ていった。魔女の言う通り、先程の異臭が消え失せ、まさに無臭と呼ぶにふさわしい状態になった。ここまで完璧だと魔女が言っていた後遺症が気になるが、魔法が解けないうちにアリサの研究室に行くべきだろうと判断し、駆け足で研究室にむかった。
研究室の前に到着すると、その汚さに思わず驚愕する。入り口に無惨に捨て去られた廃材と思わしきもの、ハエのたかった瓶、そしてネズミとゴキブリ達である。思わず溜息しかでないボスではあるが、これだけ汚いとアリサが生きているかさえ不安になってきた。
全く気が進まないが、ボスは研究室に足を踏み入れた。
「………うわ、この瓶中身何かと思ったらションベンじゃねえか! 便所くらいいけよ!!
食いカスも散乱してるし、ゴキブリじゃあ飽き足らず蛆虫まで沸いてんじゃねえか!」
文句をたれながら進んでいくと、机に向かって何かを一生懸命作っているアリサを発見した。まず何から苦情を言ってやろうかと考えながらボスは近づき、肩を叩こうとした時、アリサは声高々に宣言した。
「出来たー!」




