第七十話「氾濫」
ーー予想外はつきもの
「じゃあ、使徒が来たら――今の作戦でよろしくね」
テニカは、鍛冶屋の作業台に腰掛けたまま、そう言った。
その声音は、どこか現実味が薄い。まるで“いつか来る未来の話”をしているようだった。
「まあ、まだ破られはしないと思うからさ。街の観光でもしておけば?」
肩をすくめながら続ける。
天音は零と視線を交わした。正直、観光という言葉が似合う状況ではない。だが、待つしかないのも事実だった。
「……そうだね。少し歩いてみようか」
そう言いかけた、その瞬間だった。
――轟音。
空気が、裂けた。
地面が震え、建物の窓ガラスが一斉に軋む。
「なに……!?」
三人は同時に外へ飛び出した。
街はすでにざわめいていた。人々が空を見上げ、立ち止まり、あるいは逃げ惑っている。
天音も、視線を上げる。
そして――息を呑んだ。
はるか上空。
そこに、“人の形をした何か”が浮かんでいた。
輪郭は確かに人型。だが、存在の密度が異様だった。空間そのものが、その存在を中心に歪んでいるように見える。
「……使徒だ!」
テニカが、驚きの声を上げた。
「なぜこんな早く……テイコス・ステレオンはまだ――」
言葉は途中で止まる。
その瞬間。
上空の存在が、ゆっくりと顔を下げた。
視線が――合う。
天音の背筋を、冷たいものが走った。
理由は分からない。ただ、本能が絶叫していた。
危険だ。
逃げろ。
戦うな。
だが足は動かなかった。
空の存在の周囲で、空気が変質していく。密度が、濃くなる。見えない重圧が、街全体を押し潰そうとしていた。
その時だった。
「……仕方がないか」
テニカが、小さく息を吐く。
「作戦を決めておいて良かった」
彼女は懐から、一つの立方体を取り出した。
透明な結晶でできた箱。その内部には、極小の幾何学構造が幾層にも重なり、微細な光が巡っている。
テニカは、それを高く掲げた。
「――アナスタシス・ボックス」
次の瞬間。
世界が、静かに書き換わった。
音が消える。
ざわめきが消える。
逃げ惑っていた人々の姿が、まるで最初から存在しなかったかのように、淡くほどけて消えていく。
街路を歩いていたロボットも、飛行していた輸送機も、窓の向こうの生活の気配も。
すべてが消失した。
残ったのは――
天音。
零。
そして、テニカ。
「一時的に、この空間から私たち以外の生体反応を避難させた」
テニカは短く説明する。
「生き物の被害は出さない。これが、最優先」
「建物なんかは、どうとでもなる」
天音は頷き、前を向いた。
広場へと駆ける。
数秒遅れて、重力が揺らぐ感覚が走る。
そして――
空から、一人の男が舞い降りた。
音もなく。
衝撃もなく。
ただ、そこに“存在した”。
長身の男だった。白とも灰ともつかない衣装が、風もないのにゆらりと揺れている。瞳は、生命を観察する研究者のように冷静だった。
男は、天音を見下ろす。
「貴様は、プロメテウス使徒か?」
声音は穏やかで、抑揚がない。
天音は一歩前に出る。
「……そうだ」
短く、答える。
男は、わずかに首を傾げた。
「はて?」
視線が、ゆっくりと周囲をなぞる。
「ここにいるのは“技術”だけだとの情報だったが」
その言葉が終わるのと、ほぼ同時だった。
地面から――一本の植物が伸びた。
いや、“伸びた”という表現では足りない。
射出された。
天音の胸元へ向けて、目視不能な速度で。
避けられない。
そう理解した瞬間。
植物が――止まった。
空間に固定されたように、ぴたりと静止している。
「……」
天音が横を見る。
そこに、零が立っていた。
――アリスモス・クリオス
対象半径一メートル。
演算停止領域。
男は、その光景を見て、ほんの僅かに目を細めた。
興味を持った研究者が、新しい標本を見つけたような反応。
「……また、情報にないやつか」
小さく呟く。
そして、手を下ろした。
植物が、さらさらと砂のように崩れ、地面へ溶けていく。
「まあいい」
男は、一度距離を取り、二人を観察するように視線を巡らせた。
零が、静かに口を開く。
「君は――ガイアの使徒の『氾濫』アピロゾイオスだね」
その名に、男は小さく笑った。
「なるほど。こちらの情報は知っていると」
軽くため息を吐く。
「面倒だな」
だが、その表情には苛立ちは無い。ただ事務的な確認のようだった。
男は、両腕をゆっくりと広げる。
周囲の地面が、微かに脈動を始める。
「改めて名乗ろう」
静かな声が、広場に響いた。
「私は――『氾濫』アピロゾイオス」
足元から、無数の芽が生まれ始める。
「この世界を――我が生命の糧に」




