第六十話「代償」
ーー代償
「…………」
誰も、言葉を発しなかった。
アゴンは、もう話さない。
否――話せないのではなく、
そこに“意志”が感じられなかった。
ただ、封じられた“何か”として、存在しているだけ。
その直後だった。
天音と零が、同時に――
ゆっくりと目を閉じた。
「……?」
九条が、一歩踏み出しかける。
「おい、天音――」
返事はない。
数秒。
あるいは、ほんの一瞬。
二人が、目を開く。
その瞬間、
早乙女は、息を呑んだ。
「……目が……」
天音の瞳は、もはや人の色ではなかった。
零のそれも同じ。
光を映しているはずなのに、
感情だけが、そこに存在しない。
「……なに、これ……」
カノンの声が震える。
二人は、ゆっくりと立ち上がった。
動きは、正確。
無駄がない。
だが――
人間特有の“揺らぎ”が、完全に消えていた。
九条が、叫ぶ。
「天音!!
零!!
聞こえてんだろ!?」
天音は、首を傾げた。
わずかに、機械のような角度で。
「……問題はない」
声は、天音のものだった。
だが、そこに感情は乗っていない。
零も続ける。
「我々に、もう関わるな」
早乙女の顔が、青ざめる。
「……“我々”?
零、おまえ……」
「個としての区別は、不要だ」
その言葉で、
三人は理解してしまった。
――自我が、消えている。
「……冗談じゃない……」
九条が、歯を食いしばる。
「戻れよ……
戻ってこいよ……!」
九条は天音の肩を掴む。
力を込める。
「お前が、こんな顔で終わるわけねぇだろ!!」
だが。
天音は、抵抗もしない。
ただ、事実を告げるように言った。
「感情は、不要と判断された」
「恐怖も、迷いも、痛みも」
「戦闘効率を下げる要素だ」
カノンが、涙を堪えながら詠唱を始める。
「……《アナムネシス》……!」
光が、二人を包む。
――何も起きない。
早乙女が、別の魔法を重ねる。
精神干渉。
魂の再接続。
記憶喚起。
すべて、弾かれる。
「……嘘でしょ……」
カノンの声が、掠れる。
九条が、一歩下がる。
「……追い詰められてるの、俺たちか……」
二人は、敵ではない。
だが、味方でもない。
そして――
戻せない。
そのとき。
空間が、歪んだ。
まるで、世界の裏側から、
無理やり“裂け目”をこじ開けたように。
低い足音。
一人の男が、そこに立っていた。
その奥にある瞳は――
痛みと、後悔を宿している。
「……やっぱり、か」
九条が、即座に構える。
「っ、お前!」
男は、天音と零を見て、静かに目を細めた。
「……その顔」
「懐かしいなぁ」
空気が、張り詰める。
カナトスは、低く続けた。
「安心していいよ」
「まだ――終わりじゃない」
その言葉だけが、
凍りついた戦場に、わずかな熱を灯した。
ノグティス熱い
(補足)
レテ・アンソロピノンは、詠唱者が望む結果を出す代わりに、自分を失う魔法です。




