第五十一話「深淵」
――即興
ピアノが、鳴る。
重く、低く、逃げ場のない和音。
その一拍目で、
レクイエムの姿が――消えた。
「全員、散れ!!」
天音の叫びと同時に、全員が動く。
だが、動けるのは拍の内側だけ。
半拍でもズレれば、身体が拒絶する。
次の音。
――ガァン。
空気が、裂けた。
早乙女の前方、
何もない空間に“軌跡”が走る。
天音の〈天之〉だった。
視認できない光。
音よりも先に、空が切り裂かれる。
しかし――
レクイエムは、
矢が到達する“前”にそこを離れていた。
「惜しい」
声が、背後から落ちる。
早乙女「っ!?」
早乙女が振り返るより早く、
大鎌が横一文字に振られる。
「伏せろ!!」
早乙女を突き飛ばす。
鎌は空を切った――
だが、当たっていないのに、魂が冷える。
「……魂に触れてるみたいです……!」
次の小節。
弦が鳴り、
ピアノが高音へ跳ねる。
その瞬間、
レクイエムは二人に分かれた。
「分身じゃない……!」
演算が、即座に否定する。
「“可能性の同時演奏”……!」
二つの未来を、同時に鳴らしている。
一体が九条へ、
もう一体がカノンへ。
「来やがれ!!」
踏み込む。
だが、
半拍、遅い。
柄が腹を打つ。
「ぐっ……!」
吹き飛ばされ、地面を転がる。
致命傷ではない。
だが、確実に削られていく。
カノンが詠唱に入る。
「――《」
その瞬間、
ピアノが短く叩かれた。
――カン。
音が、刃になる。
詠唱が、断ち切られた。
「……っ」
「詠唱は旋律を乱す」
「第三楽章では、不要だ」
大鎌を、結界が辛うじて止める。
楽しそうだった。
戦っているというより、
音楽に身を委ねて踊っている。
天音が歯を食いしばる。
「……ふざけんな」
次の拍。
天音は、踏み込む。
〈天之〉が、再び走る。
今度は――
連続。
空間に、幾筋もの“見えない斬線”。
しかし。
レクイエムは、
拍の外側にいる。
矢は、すべて“あと一瞬”で空を裂くだけ。
「君の彗星は、美しい」
「だが――まだ音楽の中だ」
その言葉と同時に、
鎌の刃が天音の頬をかすめる。
血が滲む。
零の視界が揺れた。
演算が、追いつかない。
「……即興だ……」
レクイエムは、
楽譜に縛られない。
オーケストラとピアノが“基盤”を作り、
その上で、彼だけが自由に壊している。
早乙女が息を荒げる。
「……勝ち筋、見えねぇぞ」
答えは、誰にも出ない。
ピアノは止まらない。
演奏者が席を離れた今も、
鍵盤は、意思を持つかのように鳴り続けている。
そして、
レクイエムの即興は――
一切、ミスをしない。
次の和音。
レクイエムが、鎌を振り上げる。
「続けよう」
「君たちが――音楽に潰されるまで」




