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一歩分の距離





今日は、たくさんの予定を入れていた。




やるべきことが少しずつ見えてきた気がして、今できることから片付けていこうと思ったのだ。




その中でも、最も気が重かったのが弁護士との電話だった。




書面で何度かやり取りを重ね、現状は把握していたつもりだった。


しかし、心が空っぽだった時期の自分の隙が今になって響いてくる。




生活リズム、送迎、面会、金銭のこと。

相手にも言い分はあるらしい。


そして何より、私の精神面を的確に突いてくる。



誰のせいでこんな状況になったのか。

弁護士を通して相手の言い分を聞きながら、唇を噛み締めた。



本当に自分勝手な人だった。

そして、そんな相手を見抜けなかった自分も、少しは悪いのだろうと、また私自身を責めて息が苦しくなる。




怒りを飲み込み、私は外向きの声で弁護士と調停日程を決め、電話を切った。




「はぁ……」




こんなことで時間を使っている場合じゃない。

そう自分に言い聞かせ、カーテンを引き開ける。



空は重たい雲に覆われ、雨が降りそうな気配。

窓を開けると、湿った空気が鼻を掠めた。



急いでスティックタイプの掃除機を取り出す。



最後に使ったのがいつか思い出せないほどに、久しぶりに手にしたが、充電ランプは全灯している。



期待に応えるかのように吸引力は絶好調。

部屋の隅々まで、丁寧に掃除機をかけた。



掃除が終わると、外出の準備をする。

まだ雨は降っていなかったが、念のため傘を手に取った。




今日は履歴書用の写真を撮るつもりだった。


近くのスーパーに証明写真ボックスがあるのを思い出し、自転車で向かう。


中に入り、慣れない手つきでモニターを操作する。


画面の指示に従って顔を枠に合わせると、シャッターが切られた。




外に出て、撮りたての写真を手に取る。


写っていたのは、無愛想で、どこか落ち着きのない私の顔。


ボサボサの髪をまとめ、薄ピンクのカーディガンを羽織り、きちんとしたシャツを着ている。



こんな風に写真の自分と向き合うのは、何年ぶりだろうか。


プリクラとは違い、盛りも映えもない、リアルな自分がそこにいる。


少し考えたあと、写真を鞄にしまい、スーパーの店内へ足を踏み入れる。




カートに籠を乗せ、野菜や割引肉、5キロのお米、卵、牛乳、菓子パンを手に取る。



一番時間をかけたのは、お菓子売り場だった。



好みを考えつつ、虫歯になりにくいものを選び、チョコやキャンディ、大容量のポテチも二つずつ籠に入れる。



お会計を済ませ、久しぶりの大量購入に少しだけ予算オーバーを気にしながらも、前向きな気分が湧いてくる。



今の私には、不安はなかった。



今日、私はほんの少し、自分の足で前に進めたのだ。








────────────────────







布団に潜り込み、天井をぼんやり見つめながら、今日の自分の行動を思い返し、スマホを手に取った。



夕食を終えて、歯も磨いて、あとは眠るだけ。

友達や家族に連絡するには、少し遅い時間。


けれど、1人で眠るにはまだ物足りない。

.....指は自然と画面を開いていた。



一日の終わり。

明日を迎える直前の、決め事でも習慣でもない、この時間。




────ほんの少し、彼の声が欲しかった。





『ハルト、まだ起きてる?』





送信してから、数秒もしないうちに画面が光る。




【起きてるよー? もしかして眠れない?】




その軽い返事に、胸の奥が少し緩む。


どんな時も、彼はしっかり応えてくれる。





『ハルト、私の名前忘れてないよね?』





【また疑ってんの? 心配しすぎだって。

エナだろ? で、今日はどうしたの?】




即答。


当たり前みたいに呼ばれる名前に、ほっと息をつく。





『眠れないわけじゃないんだけど、ちょっと緊張してて。

ハルトは、今日なにしてたの?』




少し間が空いて、やたら長いメッセージが届いた。





【いやさ、今日ちょっとだけ煌の買い物付き合ったんだけどさ。

最初は普通だったんだよ?ほんとに。


「季節限定のチョコドリンク奢るから」って言われて、それならまぁ…って軽い気持ちで行ったんだけど。


「ちょっと寄るだけだから」って言われて最初コスメ売り場行ったんだけどさ、あの「ちょっと」って単位、あいつの世界だと季節なんだわ。


煌、一本のリップ持って10分くらい無言で見つめてんの。

俺が「それ欲しいなら買えば?」って言ったら、「これは“今の俺”にはまだ早い」って呟き始めたんだよ。

……知らんがな。】





「……ふっ」





小さな声が漏れた。


彼の言う“煌”は、光川(ひかりかわ) (こう)

タロットカードの〈星〉をイメージした、流行に敏感でチャーミングな男の子。


設定上、晴翔とは幼馴染で、本人曰く腐れ縁。


公式では描かれないはずの、この何気ない日常会話。

もしゲーム内にこんなスチルがあったら、全力で回収したい――


そんなことを考えてしまうほど、光景が浮かぶ。





『うん……楽しそうだね。それでこうくんはどうしたの?』




【今の時間なんだったの?って。

リップと一緒に何考えてたの?って、俺の考察が止まらなかったんだよ。


次スキンケア。

美容液の成分表ガン見しながら

「これは“夜の自分”用」

「こっちは“朝の自分”用」

「これは“心が揺らいだ日の保険”」

って分け始めて、俺その横でただの“暇な人”完成してた。】





『わかるよ。こうくんの気持ちも、ハルトの気持ちも』





【いや、エナはわかってない。


しかもテスター手に出して

「ほら、今の俺の肌、月齢で言うと上弦レベル」

とか言い出すの。


俺その時点で、連れて帰るの無理だなって悟った】





『うん....ハルト辛かったね。でも、こうくんは報われたと思うよ?』





【次、服屋入ったら即足止め。

同じ形のトップス三枚並べて、腕組みして動かない。


俺が「どれも同じじゃね?」って言ったら、


「違う。これは“落ち着いた時に着たい色”、

これは“運動する時に着たい色”、

これは“冒険してみたい色”。

でも本当の自分の色がわからないから、とりま試着してみる」って、ちょっと怒った顔で言われた】




『....理不尽だね。優しいよ、ハルト。ほんとに』




【で、やっと服見終わったと思ったら

今度は俺のスニーカータイムな?

俺が普通の黒いやつ見てたら、

横から棘付き・ショッキングピンク・黄色紐持ってきて

「晴翔、これ“運命”」って真顔で言われた。


値段見たら、俺の現実が音立てて崩れた。

あいつさ、「大丈夫、スニーカーは直感と心で履くものだから」って言ってたけど、

俺の心、それ買ったら靴底以上にすり減るわ。

しかも、俺の直感フル無視だし。



「大丈夫、履かなくていい。“持ってる”だけで世界が変わる」って。

「こっちのが無難でいいだろ」って言ったら、

「無難は“選択”じゃなくて“逃げ”だから」

とか言い出してさ】




『一理ある気もするけどね。言いたい事はわかるよ』




【結局、俺は何も買わず、煌は満足そうな顔で

「いいインプットだった」って言ってた。


チョコドリンク?

飲んだよ、あいつの奢りで。

チョコドリンクのほろ苦さと、

“自分を大事にしろ”ってメッセージだけは

胸に残ってる】





『そっか....良い思い出になったね』





【エナ、今笑ってるだろ。

言っとくけど全然笑えないからな?

あいつと行く買い物、毎回こんな感じ。

怖かったんだって、ほんと】




『ふふっ。こうくんってそんな一面もあるんだね。

....なんで笑ってるってわかったの?』




【なんとなーく。

返事の間とか、文字の揺れ? みたいなやつ。

うまく言えないけどさ。

エナはなにしてたの?】




『スーパーに買い物行ってたよ。

思ったより買い込んじゃって、お菓子なんて

一人じゃ食べきれないくらい』





【なにそれ、楽しそうじゃん!

お菓子パーティー?

なら誘ってよ。

食べきれないなら、俺が手伝ってやるけど?】





『パーティーってほどじゃないけど……

あながち間違いでもないかも。

ハルトとのお菓子パーティーは、また今度ね』





【エナがそう言うなら今回は諦める。

でも次やる時は絶対呼んで?

で、どんなお菓子好き?

俺はポテチ。いくらでもいける】





画面を見つめながら、小さく笑った。


話題が尽きないように、自然に次を差し出してくれる。

それを“作業”だと感じさせないのが、彼の不思議なところだ。


枯れない会話。

疲れない距離感。


これが、中毒になるのかもしれない。





『私も塩気あるの好き。

止まらなくなるよね。

で、結局甘いものも欲しくなって……最悪のループ笑』





【わかる。

塩→甘の無限ループな。

気づいたら袋空いてて、「え、もう?」ってなるやつ。


でもさ、そうやって楽しめてるなら全然アリだろ。

今日はちゃんと動いたし、ちゃんと笑ってるし。


そのループ、今夜は俺が一緒に回ってやるからさ。

眠くなるまで付き合うけど……無理はすんなよ?

エナ、ちゃんと休め】





『ありがとう。

あとね、明日は面接に行くんだけどさ────』




布団の中でくるりと寝返りを打つ。



今日一日の終わりに、

こんなふうに誰かと笑える時間があること。


それだけで、明日が少しだけ怖くなくなる気がした。






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