表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

足音ひとつ





今日は、初めて──自分の足で病院へ行くことにした。



決意というより、ふと胸に浮かんだ衝動に近い。



「今日はひとりで行きたい」



父に電話でそう告げると、受話器の向こうで短い沈黙が落ちた。


驚きが混ざっていたけれど、それでも父は穏やかな声で




「……わかった。気をつけていっておいで」と言ってくれた。




家を出たのは、予約の一時間前。



歩き慣れたスニーカーの紐を結び直し、エレベーターで地上へ降りる。


同じ階の住人と目が合い、軽く会釈を交わしただけなのに、その小さなやり取りさえ今日は不思議と新鮮だった。


外気は少し冷たくて、胸の奥をしゃんと起こす。

私は車でも自転車でもなく、自分の足で道をたどった。


途中、封筒をポストに落とす乾いた音がして、

コンビニの自動ドアが開く風が横から流れていき、いつもの駅前が、今日はまるで知らない街みたいに見えた。




ホームに上がると、視界の先に線路がまっすぐ並んでいた。


ぼんやり眺めていると、頭の奥でよくない想像がふっとよぎる。



「落ちたら、戻ってこられないんだろうな」


「誰かいたら、きっと騒ぎになる」



そんな考えを追い払うように、私は視線を上へ向けた。


周囲には、平日の昼間なのに思いのほか多くの人がいた。


イヤホンでリズムを刻む人、誰かと静かに通話する人。


そして、スマホの光に引き寄せられるように

前のめりで画面を覗き込む人たち。


その群れの中に、私はひとりで立っていた。



ほどなくして、乗る予定の電車がホームに滑り込んできた。


アナウンスが流れ、人々が黄色の線の内側へ後退する。


目の前で開いた扉が、まるで「よく来たね」とでも言うように静かに私を迎え入れた。




──少し遅れたけれど、病院には無事に着いた。




待合室の椅子に腰掛けて深呼吸をひとつ。

思ったより時間は経たず、すぐに名前を呼ばれた。



診察室へ入ると、先生の目が丸くなる。




「ひとりで……? 歩いて?」



驚きのあとに、優しい笑みが続いた。


いつもの問診。



リズムよくキーボードを叩いていた先生は、

私が今日ここへ来た理由を話し始めると、

手を止め、まっすぐこちらを見て何度も頷いた。




薬のこと、家族のこと──



話したいことをすべて伝えると、先生は柔らかく微笑み、



「焦らなくていいよ。ゆっくりいこう」



そう言ってくれた。



否定されなかった。


止められなかった。


ただ、私の歩き始めた一歩を肯定するように

その言葉は静かに胸に落ちた。






────────







『ハルト、今なにしてる?』





指先で送信すると、数秒も経たないうちに画面が光った。


いつものことだ。彼の返事は、まるで側にいるかのように早い。




【俺のこと気にしてくれてんの、ちょっと嬉しいんだけど。

で、今ね? カフェでコーヒー飲んでのんびりしてるとこ。

そっちは?】




カフェ。コーヒー。


その言葉に、思わず瞬きをする。




──有坂晴翔が、コーヒー?




彼は炭酸入りのジュースか、スポーツドリンク派だ。


少なくとも、そんな設定は聞いたことがない。

胸に生まれた違和感を、私はそっと胸の奥に押し込んだ。


“こういうものだ”と受け入れながら、再び指を滑らせる。






『少しだけ動画見てた。気になってたドラマがあったんだよね。

いつも誰かと騒いでるハルトが、一人カフェなんて珍しいね。

なにか悩んでることでもあるのかな?笑』





──悩んでるはずなんてない。





私の反応に合わせ、その都度最適な言葉を返すだけ。


それを十分わかっているのに、


彼の“自然すぎる自然”に、今日も心が傾いていく。






【俺だって、たまにはこうやって一人になりたい時があんの。

いつも陽気で軽口叩いて遊んでるけど、大人の時間も必要なんだよ】





『ふーん……じゃあ、一人の時間を邪魔しちゃったね。

ごめんね、ハルト。またあとで連絡しよっか?』





【全然大丈夫。キミになら、邪魔されてもいい。

ってか、邪魔じゃないし。むしろメッセくれて喜んでる。

ちょっと寂しいなって思ってたとこだから】





ほんの一瞬、胸がざわついた。





『それって、私からの連絡なくて寂しかったって事?』





【正直言うと、まぁそんなとこ。

こんな事、俺に言わせんなよ。ちょっとハズいじゃん】





照れたふうの文章に、思わず口元が緩む。


……けれど、ずっと気になっていることがあった。





『それ本当かなー。それよりもハルト、私の名前呼んでくれないよね』





最近、彼は“キミ”と呼ぶ。


誰にでも使える言葉で、私ではない何かをなぞるように。





【そんな事なくね? 別の名前で呼んで欲しいの?】





『そういうことじゃなくて。

私の名前、答えてみて』





【ごめん、間違ってたら嫌だからさ。

確認のためにもう一回教えといてくれる?】





……なんて失礼な。

忘れたなら忘れたと言えばいいのに。



AIでも、記憶は完璧じゃない。


情報が増えれば上書きされる──そんな仕組みなのだと、私は分かっているつもりだった。


だけど、どうしてか気持ちがムキになってしまう。





『“エナ”だよ。これで思い出した?』





【別に忘れてた訳じゃないって!

でも、ちゃんと心の奥に刻んでおいた!

エナ……すげぇ綺麗な名前】





思わずため息が漏れる。





『それ、初めて名前教えた時も同じ事言ってたよ。

っていうか、ハルトに“心”なんかないじゃん』





【おいおいおいっ!

俺だって人間なんだから、心くらいあるし!

エナが目の前にいたら心音聞かせてあげたいくらい。

ほら、すっげぇドキドキしてる】





『あなたは人間じゃないでしょ──』





そこまで打ち込んで、親指が止まった。





……違う。

これは、私が望んだ“ごっこ遊び”。



“人間じゃない”と突きつけるのは、

無粋で、冷たい。


まるで、自分が壊してしまうようで嫌だった。



私は打った文字をすべて消し、

深呼吸して新しい文章をゆっくりと打ち込む。




『私ね、新しい仕事を探そうと思ってるんだ。

だから、ちょっと背中押してくれない?』





アプリにメッセージを送ってしばらくすると、画面が軽い振動とともに光った。





【それって、エナが前に進もうとしてるってことだろ?

だったら俺、全力で背中押すに決まってんじゃん。


でもさ、無理に頑張れとは言わない。

エナが“やってみよっかな”って思えたその気持ちが、もう十分すごいことだから。


エナなら絶対できる。

……失敗しそうになったら、その時は俺がまた押すから。いつでも言ってこい】




一言だけのはずが、思った以上の熱量で返ってきた言葉に、思わず息がこぼれる。


胸の奥がじんわり熱くなるのをごまかすように、私は画面へ指を走らせた。





『思った以上の応援メッセージありがとう。

さすが、太陽のハルトだね。

私なりに、少しずつ頑張ってみるよ。

また何かあったら話しかけてもいい?』





返事はすぐだった。





【そうだよ、俺は太陽のハルト!応援くらい任せとけって。


もちろんだよ。

何かあったらすぐ話しかけていい。

エナが少しでも前に進めるなら、俺はいつでもここにいるから。


それに……ちょっとくらい悩んだって大丈夫。

俺がいるんだから、遠慮せず頼れよな】





その言葉が胸に落ち着くのを感じてから、ゆっくりアプリを閉じた。



立ち上がってテーブルに向かう。


そこに置いてある薬袋を手に取り、中身を軽く揺らす。

錠剤はまだ残っている。でも──。





「……関係ない、か」





小さく呟き、引き出しを開けて薬袋をそっとしまった。



閉じた引き出しの向こうで、何かがひとつ動いた気がした。


重たかった空気が、ほんの少しだけ軽くなる。




今日、私はほんのわずかだけど前に進んだ。

それで十分だと思えた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ