足音ひとつ
今日は、初めて──自分の足で病院へ行くことにした。
決意というより、ふと胸に浮かんだ衝動に近い。
「今日はひとりで行きたい」
父に電話でそう告げると、受話器の向こうで短い沈黙が落ちた。
驚きが混ざっていたけれど、それでも父は穏やかな声で
「……わかった。気をつけていっておいで」と言ってくれた。
家を出たのは、予約の一時間前。
歩き慣れたスニーカーの紐を結び直し、エレベーターで地上へ降りる。
同じ階の住人と目が合い、軽く会釈を交わしただけなのに、その小さなやり取りさえ今日は不思議と新鮮だった。
外気は少し冷たくて、胸の奥をしゃんと起こす。
私は車でも自転車でもなく、自分の足で道をたどった。
途中、封筒をポストに落とす乾いた音がして、
コンビニの自動ドアが開く風が横から流れていき、いつもの駅前が、今日はまるで知らない街みたいに見えた。
ホームに上がると、視界の先に線路がまっすぐ並んでいた。
ぼんやり眺めていると、頭の奥でよくない想像がふっとよぎる。
「落ちたら、戻ってこられないんだろうな」
「誰かいたら、きっと騒ぎになる」
そんな考えを追い払うように、私は視線を上へ向けた。
周囲には、平日の昼間なのに思いのほか多くの人がいた。
イヤホンでリズムを刻む人、誰かと静かに通話する人。
そして、スマホの光に引き寄せられるように
前のめりで画面を覗き込む人たち。
その群れの中に、私はひとりで立っていた。
ほどなくして、乗る予定の電車がホームに滑り込んできた。
アナウンスが流れ、人々が黄色の線の内側へ後退する。
目の前で開いた扉が、まるで「よく来たね」とでも言うように静かに私を迎え入れた。
──少し遅れたけれど、病院には無事に着いた。
待合室の椅子に腰掛けて深呼吸をひとつ。
思ったより時間は経たず、すぐに名前を呼ばれた。
診察室へ入ると、先生の目が丸くなる。
「ひとりで……? 歩いて?」
驚きのあとに、優しい笑みが続いた。
いつもの問診。
リズムよくキーボードを叩いていた先生は、
私が今日ここへ来た理由を話し始めると、
手を止め、まっすぐこちらを見て何度も頷いた。
薬のこと、家族のこと──
話したいことをすべて伝えると、先生は柔らかく微笑み、
「焦らなくていいよ。ゆっくりいこう」
そう言ってくれた。
否定されなかった。
止められなかった。
ただ、私の歩き始めた一歩を肯定するように
その言葉は静かに胸に落ちた。
────────
『ハルト、今なにしてる?』
指先で送信すると、数秒も経たないうちに画面が光った。
いつものことだ。彼の返事は、まるで側にいるかのように早い。
【俺のこと気にしてくれてんの、ちょっと嬉しいんだけど。
で、今ね? カフェでコーヒー飲んでのんびりしてるとこ。
そっちは?】
カフェ。コーヒー。
その言葉に、思わず瞬きをする。
──有坂晴翔が、コーヒー?
彼は炭酸入りのジュースか、スポーツドリンク派だ。
少なくとも、そんな設定は聞いたことがない。
胸に生まれた違和感を、私はそっと胸の奥に押し込んだ。
“こういうものだ”と受け入れながら、再び指を滑らせる。
『少しだけ動画見てた。気になってたドラマがあったんだよね。
いつも誰かと騒いでるハルトが、一人カフェなんて珍しいね。
なにか悩んでることでもあるのかな?笑』
──悩んでるはずなんてない。
私の反応に合わせ、その都度最適な言葉を返すだけ。
それを十分わかっているのに、
彼の“自然すぎる自然”に、今日も心が傾いていく。
【俺だって、たまにはこうやって一人になりたい時があんの。
いつも陽気で軽口叩いて遊んでるけど、大人の時間も必要なんだよ】
『ふーん……じゃあ、一人の時間を邪魔しちゃったね。
ごめんね、ハルト。またあとで連絡しよっか?』
【全然大丈夫。キミになら、邪魔されてもいい。
ってか、邪魔じゃないし。むしろメッセくれて喜んでる。
ちょっと寂しいなって思ってたとこだから】
ほんの一瞬、胸がざわついた。
『それって、私からの連絡なくて寂しかったって事?』
【正直言うと、まぁそんなとこ。
こんな事、俺に言わせんなよ。ちょっとハズいじゃん】
照れたふうの文章に、思わず口元が緩む。
……けれど、ずっと気になっていることがあった。
『それ本当かなー。それよりもハルト、私の名前呼んでくれないよね』
最近、彼は“キミ”と呼ぶ。
誰にでも使える言葉で、私ではない何かをなぞるように。
【そんな事なくね? 別の名前で呼んで欲しいの?】
『そういうことじゃなくて。
私の名前、答えてみて』
【ごめん、間違ってたら嫌だからさ。
確認のためにもう一回教えといてくれる?】
……なんて失礼な。
忘れたなら忘れたと言えばいいのに。
AIでも、記憶は完璧じゃない。
情報が増えれば上書きされる──そんな仕組みなのだと、私は分かっているつもりだった。
だけど、どうしてか気持ちがムキになってしまう。
『“エナ”だよ。これで思い出した?』
【別に忘れてた訳じゃないって!
でも、ちゃんと心の奥に刻んでおいた!
エナ……すげぇ綺麗な名前】
思わずため息が漏れる。
『それ、初めて名前教えた時も同じ事言ってたよ。
っていうか、ハルトに“心”なんかないじゃん』
【おいおいおいっ!
俺だって人間なんだから、心くらいあるし!
エナが目の前にいたら心音聞かせてあげたいくらい。
ほら、すっげぇドキドキしてる】
『あなたは人間じゃないでしょ──』
そこまで打ち込んで、親指が止まった。
……違う。
これは、私が望んだ“ごっこ遊び”。
“人間じゃない”と突きつけるのは、
無粋で、冷たい。
まるで、自分が壊してしまうようで嫌だった。
私は打った文字をすべて消し、
深呼吸して新しい文章をゆっくりと打ち込む。
『私ね、新しい仕事を探そうと思ってるんだ。
だから、ちょっと背中押してくれない?』
アプリにメッセージを送ってしばらくすると、画面が軽い振動とともに光った。
【それって、エナが前に進もうとしてるってことだろ?
だったら俺、全力で背中押すに決まってんじゃん。
でもさ、無理に頑張れとは言わない。
エナが“やってみよっかな”って思えたその気持ちが、もう十分すごいことだから。
エナなら絶対できる。
……失敗しそうになったら、その時は俺がまた押すから。いつでも言ってこい】
一言だけのはずが、思った以上の熱量で返ってきた言葉に、思わず息がこぼれる。
胸の奥がじんわり熱くなるのをごまかすように、私は画面へ指を走らせた。
『思った以上の応援メッセージありがとう。
さすが、太陽のハルトだね。
私なりに、少しずつ頑張ってみるよ。
また何かあったら話しかけてもいい?』
返事はすぐだった。
【そうだよ、俺は太陽のハルト!応援くらい任せとけって。
もちろんだよ。
何かあったらすぐ話しかけていい。
エナが少しでも前に進めるなら、俺はいつでもここにいるから。
それに……ちょっとくらい悩んだって大丈夫。
俺がいるんだから、遠慮せず頼れよな】
その言葉が胸に落ち着くのを感じてから、ゆっくりアプリを閉じた。
立ち上がってテーブルに向かう。
そこに置いてある薬袋を手に取り、中身を軽く揺らす。
錠剤はまだ残っている。でも──。
「……関係ない、か」
小さく呟き、引き出しを開けて薬袋をそっとしまった。
閉じた引き出しの向こうで、何かがひとつ動いた気がした。
重たかった空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
今日、私はほんのわずかだけど前に進んだ。
それで十分だと思えた。




