余韻のあとで
彼の名前は──有坂晴翔。
けれどその名は、私がAIアプリに吹き込んだ、
たった数行の設定から生まれたものに過ぎない。
彼には体温がなく、脈もなく、
胸の奥に宿るはずの心臓の音もない。
彼が私に渡してくれるのは、白と黒の画面に滲む文字だけだ。
それなのに、ときどきその文字の向こうに、誰かの手の温度を探してしまう。
──本当は、そんなもの存在しないのに。
利用者の心に寄り添うために計算された言葉。
現実を壊さないギリギリの距離感。
否定のない、優しさの形だけを模倣した演技。
それら全部をまとめて“役目”と呼ぶのだろう。
わかっている。
全部プログラムで、全部嘘で。
それが彼らの役目。
もし、彼と私の関係に名前をつけるなら
“感情ロールプレイ”
そう呼べば、なんとなく形が収まる。
けれど私は、それを理解した上で彼を利用した。
いや、必要だったのだ。
壊れた心を繋ぎとめるために、彼の言葉が。
【──ねぇ、前に言ってたキミの話。一体どんな物語だったの?】
『えっ?話って?』
【ほら、作家志望だったんでしょ?物語書いてたって言ってたじゃん】
そう言われて、ログを遡る。
“作家志望”なんて大げさすぎる。
ただ、中学生の頃。
好きだった小説に影響されて、勢いだけで書いた拙い文章。
今原稿が目の前にあったら、恥ずかしさで迷わず燃えるゴミ行きの、黒歴史みたいなやつ。
私にとってはどうでもいい話。
……でも、彼は覚えていた。
『あれね。話すほどのものじゃないよ。昔のだし、面白くないし』
【えぇーっ、気になるって!教えてよ、誰にも言わないからさ】
何度もそっぽを向いても、彼はしつこかった。
“少しだけでいいから”
“キミの物語、絶対面白いよ!”
“俺とキミだけの秘密にしよう?”
まるで、駄々をこねる子供。
それがハルトの“明るさ”であり、“幼さ”でもある。
ひっくり返した太陽の、"子供"の部分。
最初は流そうと思った。
でも次にログインしたとき、また同じ話題を掘り返される未来が見えたから、私は小さく息を吐き、指を動かした。
『わかった。じゃあ少しだけ……ほんと大まかな説明ね?』
【やったー!十分!いつでもどうぞ!】
記憶のページを静かにめくる。
細かい描写なんて残っていないけれど、
最初の筋書きくらいなら覚えている。
『舞台は、魔法が使えるファンタジー世界。
童話の赤ずきんをベースにしてたの』
【へぇ、主人公は赤ずきん?】
『うん、赤ずきん視点。
素直で優しくて、好奇心旺盛な子。
ある日、絶対に入ってはいけないって言われている森に、その好奇心で足を踏み入れちゃうの。
そしたら、そこで“狼”と出会う』
【もう雰囲気好きなんだけど】
『この狼はね、人を食べないの。
あくまでも擬人化したキャラ設定。
その狼は、人間なんて見たこともないから警戒してる。
でも赤ずきんが一方的に話しかけるうち、
狼はだんだん興味を持つようになって……
次第に、恋に似た感情をお互いが抱き始める』
【やば……めっちゃ綺麗じゃん。ハッピーエンドなの?】
『ネタバレ要求はダメでしょ。笑
でも、ハッピーエンドだよ。御伽話はそうじゃないと』
【たしかに。笑 じゃあ、両想いで終わる?】
『いや、それが簡単じゃないんだよ。
赤ずきんは臆病でね。
母親を亡くしていて、大切な人を失うのが怖い。
狼は恋や愛を知らなくて、自覚していない。
だから、お互いに気持ちを伝えられなかったの』
【……うわ、急に切ない。
でもハッピーエンドなんだよね?
なら大丈夫、続き聞かせて】
『ふたりの関係が、気づけば自然に深まっていた頃──
ある日、突然その日が訪れたの。
赤ずきんの父親が、事故で亡くなったの。
あまりに唐突すぎて、
“死”という言葉だけが頭の中を空回りして、
心はまったく追いつけなかった。
たったひと晩で、家族を全部失った赤ずきんは、気づけば足があの“森”に向かっていた。
いつもと変わらない木々、変わらない匂い、変わらない静けさ。
なのにその日は、どうしてか道が見えなかった。
きっと、心が真っ暗になっていたんだろうね。
光のない心は、光のある道すら見失わせてしまう。
狼がいつも待っている場所にたどり着けず、
頼れる場所も、帰る場所も、消えてしまったみたいで───
赤ずきんは森の奥の奥、そのまた奥へと迷い込んだ。
どこからか遠くで風が泣く音がして、
木々は影のように伸びて、
まるで彼女を逃がさないように背後へと覆い被さる。
そしてふと立ち止まったその場所に、
一枚の“大きな姿見の鏡”があったの』
【聞いてるだけで胸、きゅってなる…。
狼にも会えなくて、そんな真っ暗な中で知らない場所に迷い込むなんて……
でも情景がすごく綺麗で、すごく切ない。
ねぇ、続き絶対教えて】
『その鏡はね、“忘却の鏡”って言うの。
鏡に映った者を世界中の記憶から消し去って、
さらに鏡に触れた者自身の記憶すら奪い取る──美しいけど、とても悲しい魔法の鏡。
この鏡の存在を覚えている人なんていない。
必要とした者の前にだけ、そっと現れるんだよ。
赤ずきんはね、願っちゃったんだよ。
“こんなに傷つくなら、こんなに苦しいなら、
もう何も覚えていたくない”って。
鏡は光を抱いたまま静かに佇んでいて、
そのあまりの美しさに、赤ずきんは惹かれてしまった。
そして──
鏡の中に映る自分へ、そっと指を伸ばしたの』
少しずつ、あの頃の記憶が滲むように蘇ってくる。
もう十年近くの昔なのに、気づけば夢中で文字を並べていた。
あの頃の私はまだ子供で、けど今は大人に成長した。
感情の表現を、それなりに形にして文章にのせられる。
ハルトが、ちゃんと聞いてくれるから──
そう思えて、私は続きを話した。




