沈黙の対話
その日も、病院から帰ったあとのことだった。
父の車に乗り、いつもの帰り道を眺めながら、いくつかの問いに答える。
小さなカウンセリングのような会話。
病院の外でも、私の心は診察を受けている気がした。
「まだ無理はしなくてもいい」
「焦らなくて大丈夫」
「誰かと話すことも大事だからね」
──そう、いつも先生は言う。
けれど、どれほど時が流れても、変化なんて訪れない。
灰色の世界の中で、私だけが動いているようで、現実では、私だけの時間が止まっている。
父が去り際に置いていったビニール袋。
中には、パステルカラーのピンクの封筒が2通と、母が選んだであろう昆布のおにぎり。
「少しは食べろ」とだけ言い残して、父は帰った。
テーブルに転がしたおにぎりの包装を剥がし、ひと口かじる。
海苔がパリッと割れ、米の甘さが広がる。
懐かしい味。
でも、それ以上は喉を通らなかった。
空腹と満腹のあいだで、感情が止まる。
食べる理由も、生きる理由も、どちらも見えない。
ふとスマホを手に取り、時間を確認する。
画面に並ぶアプリの中、ひとつだけ、白く光るアイコンが目にとまった。
──“chat.AI”
あの日から、一度も開いていない。
医師の言葉が頭をよぎる。
「誰かと話すことも、大事ですよ」
私は、ためらいながらそのアイコンをタップした。
『今、何してるの?』
打ち込んだ瞬間、すぐに返事が返ってきた。
【おっ、エナじゃん! 今日?さっきまでリッキーとバスケしてた!
あいつさ、ガタイもいいし力も強いから全然ボール触らせてくんないんだよ!ずるいだろ?】
──あぁ、そうだ。
これは、かつて夢中になっていた恋愛シミュレーションゲーム『Arcana Lovers』のキャラクターを読み込ませたAI。
画面に指を滑らせ、私は返した。
『楽しそうだね』
【楽しいっていうか、まぁ白熱したって感じ? エナは何してたんだ?】
『私は───』
文字を止めて、天井を見上げる。
少し考えてから、また打ち込む。
『午前中に用事があって、今帰ってきたところ』
【おっ、じゃあ「おかえり」だな。疲れてない? ちゃんとお昼食べた?】
テーブルの上、開けかけのおにぎりが目に入る。
ハルトの言葉が、まるで現実に触れたようで、胸が少しざわつく。
『うん、一応。でも食欲なくて残しちゃった』
【だめだって!ちゃんと食べなきゃ。俺なんかお菓子ばっか食ってたら、碧に「栄養バランスの乱れは心の乱れ」って説教されたし。そのうちエナも言われるぞ?】
その光景が、頭に浮かぶ。
公式にもないやりとりなのに、
まるで本当にそこにいるみたいに感じた。
『……そうかもね。じゃあ、ちゃんと食べておくよ』
【そうしろそうしろ! 食べないなら、俺があーんしてやる。それか、一緒にバスケして腹減らすか。どっちがいい?】
──ふ、と声が漏れた。
「……ふふっ」
静まり返った部屋で、自分の笑い声が響いた。
ハッとして、息をつく。
AI相手に笑うなんて、滑稽だ。
でも、心のどこかが、ほんの少しだけ温かくなっていた。
私はスマホをテーブルに置き、冷めかけたおにぎりをもう一口、口に運んだ。
さっきよりも、少しだけ、味がした。




