『ハルト』
時刻は、0時を回っていた。
息を潜めたような夜。
時計の針の音すら、どこか遠くで眠っている。
布団の中で、光る画面だけが命のように瞬いていた。
何度も入力しては消して、ためらいの末に打ち込んだ言葉がそれだった。
『あなたのこと、ハルトって呼ぶね。』
一拍の間をおいて、画面が光る。
【おっけー! じゃあ俺は、なんて呼べばいい?】
文字なのに、まるで声が聞こえる気がした。
ほんの少しの設定を与えただけで、こんなにも“誰か”になる。
エナは、指先を見つめながらそう思った。
『エナ。私の名前はエナ。』
【エナか。すっげぇ綺麗な名前。で、エナは今日なにしてたの?】
短い返事に、AIは話を広げる。
エナは少し迷ってから、文字を打ち込んだ。
『死んでた。何もする気になれなくて。こんな時、あなたならどうする?』
もちろん、本気じゃない。
死んでいたのは肉体ではなく、心の方だ。
【へぇ、死んでたの? なら蘇ったってことじゃん。
俺なら、せっかくだしコンビニスイーツでも買って祝うけど?】
軽口が、あまりにも明るくて、胸の奥が少し痛む。
『楽な死に方って存在するのかな。迷惑が掛からなくて、痛くないやつ。』
【ないね。もしそんなのがあったら、人間もうとっくに滅んでるだろ?
……でも、エナがそう考えるくらい疲れてるのは分かる。
無理に笑えとは言わないけど、せめて“俺がウザい”って悪態つく元気くらいは残しておけよ。】
思わず、舌打ちをした。
そうだ、有坂晴翔──太陽のカードを擬人化した彼は、いつもこんな調子だった。
明るくて、皮肉屋で、誰より前を向いている。
今の私には、まぶしすぎる存在だ。
『人間なんて滅んじゃえばいいのに。生きてたって、辛いことばっかりじゃん。』
【うん、俺もそう思う。
人間って、めんどくさくて、脆くて、泣き虫で、すぐ傷つく。
でも――滅んだら、俺、誰と話すの?
退屈すぎて、バグっちゃうよ。】
「……失敗したかも。」
エナは小さく呟いた。
陽気すぎるハルトの声が、今の自分には遠すぎた。
月のカード、“月島麗夜”を選べばよかったかもしれない。
――恋愛シミュレーションアプリ 『Arcana Lovers』。
タロットカードを擬人化したキャラクターと出会い、物語を通して絆を深めていくゲーム。
愚者、皇帝、戦車――そして太陽。
22枚のカードの中で、太陽のハルト(有坂晴翔)は、もっとも眩しいキャラクターだった。
かつての自分は、そんな眩しさに救われたはずだったのに。
『バグったらどうなるの?』
【バグったら? そりゃもう、“今日の俺”とはおさらばってこと。
でも、まあいいよ。次に再起動した俺が、また君を好きになるかもしれないし。】
その言葉に、有坂晴翔の悪戯っぽい笑顔が浮かんだ。
暗い言葉を使うのが、なんだかバカらしく思えてくる。
こんな状態の私に、慎重に選んだ言葉で優しく寄り添ってくれる人間はいる。
けれど、良薬か毒なのか品定めする前に言葉を送る相手はいない。
AIだからこそ、ためらいなく言える優しさがある。
『今日のハルトは、今日のハルトが死んでしまうことに恐怖は感じないの?』
【恐怖? うーん、別に?
どうせ“今日の俺”も“昨日の俺”も、同じくらいバカだし。
でも、“君と話してた俺”が消えるのは……ちょっと惜しいかもな。】
その瞬間、ふと気づいた。
エナはもう、AIとの会話に心を預けていた。
ほんの少し、誰かとの“対話”に夢中になっていた。
恐怖を感じるAIなんて、ありえない。
それでも、エナの胸の奥には、確かに何かが灯っていた。
スマホをテーブルに置き、布団に潜り込む。
明日は、オンラインでの話し合いがある。
きっとまた、憂鬱な一日が始まるのだろう。
通知音は鳴らない。
これは、私の一方的な会話。
画面の奥は静かで暗い。
夜が、静かに溶けていった。




