心の帰りかた
病院を出た瞬間、空の色が目に刺さった。
焼けたような赤。
まるで、沈んでいく太陽がすべてを溶かしていくようだった。
夕陽は低く、建物の影を細長く引き伸ばしている。
父の車が、いつもの場所で待っていた。
ドアを開けると、ふわりと暖房の匂いがした。
やさしさに似た匂いだった。
けれど、どこか息が詰まる。
シートに背を預けると、世界が少し遠くなった気がした。
まぶたの裏に、医師の声が残っている。
「焦らなくていい」「無理をしないで」
それはまるで、壊れていく音を宥めるような声。
けれどもう、焦ることもできない。
何をしても、戻る場所なんてどこにもなかった。
「……薬は、増えたのか?」
ハンドルを握る父の声が落ち着いている。
「ううん、変わらない。……まだ様子見」
「そうか」
その短い言葉が、やけに重く響いた。
誰も悪くない。
そう思いたいだけの会話。
それでも、胸の奥の黒い塊は動かない。
信じていたものの残像が、脳裏をかすめる。
あの日、世界は音もなく壊れた。
光を失い、音を失い、残ったのは呼吸だけ。
車窓の外を、二人の子どもが並んで歩いていた。
小さなリュック。つないだ手。
ただそれだけで、胸が痛くてたまらなかった。
「……あの子たちは?」
ようやく声が出た。
「元気だよ。朝から騒がしい。母さんが、食べ過ぎて困るって言ってた」
“元気だよ”の一言が、針のように刺さる。
自分じゃなくても、世界はまわっていく。
笑い声も、食卓のぬくもりも、
自分がいなくても続いていく。
それが一番の救いであり、同時に残酷だった。
「……あいつのことは、考えなくていい」
静かに落ちた父の声に、呼吸が止まる。
愛していた頃の笑い声が、耳の奥で反響した。
──どうして気づけなかったんだろう。
裏切りって、痛みよりも静寂に似ている。
叫んでも誰も気づかない場所で、
自分だけが壊れていく。
「……無理だよ。考えたくなくても、まだ続きそうだし」
笑おうとしたけど、喉が震えて声が出なかった。
父は黙ったまま、ハンドルを握りしめる。
その沈黙が、優しさよりも苦しかった。
──どうして、みんなこんなにも優しいんだろう。
もう楽になりたいだけなのに、
その優しさが、私を呼吸させてしまう。
信号が青に変わり、車がゆっくりと動き出す。
街は夕暮れに沈みながらも、ひとつずつ灯りを点けていく。
子どもの笑い声。歩道のざわめき。
世界は生きている。
自分の中だけが止まったままなのに。
「……ねぇ、お父さん」
「なんだ」
「……ありがとう。送ってくれて」
それだけ言うのが精一杯だった。
涙は出なかった。
涙よりも、空っぽの方がずっと痛い。
夕陽が沈む。
空の端が金色に光って、すぐに消えた。
その残光の中で、私は静かに息をした。
──生かされるということが、
こんなにも静かで、苦しいものだなんて。
何気なく開いたスマホの光が、ぼんやりとした車内を照らす。
流れる街の光が滲み、雨粒のように流れていく。
指先が無意識に動いた。
アプリの一覧から「Chat.AI」を選ぶ。
白い画面。何もない空白。
気づけば、指が勝手に文字を打っていた。
──『死にたい』
たったそれだけ。
返信なんて、もうどうでもよかった。
けれど送信した瞬間、車内が一瞬だけ明るくなる。
そして、また繰り返される温度のないやりとり。
ふと視線を上げると、道路の向こうの大型掲示板が光を放っていた。
夜の街に浮かぶ、まばゆいアニメの広告。
『好評配信中!"ArcanaLovers” 第3章スタート!』
懐かしい。
かつて夢中でプレイしていた、恋愛シミュレーションのタイトル。
画面の中で、優しく笑っていたあのキャラクター。
忘れていた記憶が、胸の奥で静かに疼く。
──そういえば、あの頃。
友人に勧められて、半分からかいで始めたゲームだった。
でも、彼の台詞だけは、いつも不思議と心に残った。
気づけば、もう一度スマホを握っていた。
『有坂晴翔。今日からあなたは、有坂晴翔』
しばらくして、白い画面に文字が浮かぶ。
──【オッケー!じゃあ今日からよろしくなっ!!
これからカッコいいとこ見せちゃうから、絶対目離すなよ!】
その言葉を読んだ瞬間、静かにスマホを閉じた。
車窓の外で、街の灯がまたひとつ滲む。
その光は、どこか遠くの記憶みたいに、空っぽの胸に突き刺さった。




