6.手紙
「じゃあ、乾杯しよっか」
やわやわとした陽射しの差す部屋で、宮坂のことさら明るい声が反響した。
連れていかれたのは蜂谷と約束したカフェではなく、宮坂の行きつけの店の個室だった。
四人掛けテーブルで宮坂の隣に瑛は座らされ、その向かいに蜂谷で志村は斜めという配置になった。
手際よく並べられたイタリアンのランチプレートはこまごまと盛り付けられ見た目も美しく、サービスで注がれたシャンパンはうっすらと桜色の光をグラスの中から放っている。
シャンパンの泡のはじける音。
オリーブオイルやハーブの匂い。
頬を包む春の光。
それらの全てが五感を刺激するのに、どこか非現実的で夢の中にいるようだった。
「宮坂さん・・・。俺たち仕事中ですよ」
うっそりと蜂谷が口を開く。
「それに、何に乾杯するんです?」
「え?こういう時って、『再会を祝して』とか言うんじゃないの?」
「・・・めちゃくちゃ楽しんでるでしょう、今」
「ははは。ばれたか」
二人のじゃれあいが風のように通り過ぎていく。
瑛は深く息をついてから、広すぎるテーブルの対角線上で不機嫌をあらわにしている志村を見つめ呟いた。
「なんで」
まるで長い間声帯を使っていなかったかのように、奇妙でか細い音しか出ない。
それでもみんなに聞こえたらしく、宮坂と蜂谷はぴたりと口を閉じた。
「・・・なんだ」
久しぶりに聞く、大我の声。
こんな音だったか。
「なんで来たんだ」
ここに。
今になって。
言いたいことの一割も言葉にできない。
「なんでって・・・。手紙を寄こしたのはお前じゃないか」
「は?」
思ってもみない答えに、ぽかんと口を開けてしまった。
「桜がもうすぐ咲くから、たまには見に来ないかと誘ったじゃないか」
「おれが?」
「今更、何言ってるんだ、瑛」
大我が嘘を言っているようには思えない。
だけど。
「ようやく種明かしが始まったところに悪いけど、大我。その手紙って今持ってるかな。いや持ってるよね。こういう場合」
宮坂が向かいの大我に手のひらを向けた。
「ああ・・・まあな」
大我は一貫して宮坂らにぞんざいな態度をとり続けていたが、この時ばかりはしぶしぶとジャケットのポケットから封書を出す。
「一昨日届いた」
「へえ?ってことは受け取ってすぐに飛行機乗ったんだ」
からかうような口ぶりに顔色を変え封書をしまおうとしたが、遅かった。
奪い取った獲物を高く掲げて宮坂は悪戯が成功した子供のように笑い声をあげる。
「ははは。ごめんね。これを見せてもらわないと僕たちも君にどう接したら良いかわからないから、実際」
そしてなぜか、まず封筒を鼻の前にもっていき、くんと匂いを嗅いだ。
「んー。なるほどね。あからさますぎて僕でもわかるかもっていうか、解り易いというか」
「はあ?」
大我はもう爆発寸前だ。
「ちょっと失礼して、蜂谷」
「ああ」
今度は蜂谷が身を乗り出してテーブル越しに宮坂の手首をとり、封筒に顔を寄せ確かめる。
「まあ、想定内だな」
「だよね」
二人の間で何か思うことがあるらしく、ただ頷きあうだけだ。
「あの・・・」
だんだんとつま先が冷えていく。
窓からの日差しはうららかで、空調の効いた暖かい部屋のはずなのに。
寒い。
「ええと。まあ、大我と瑛に説明しやすいのは本文だと思うから、中を見ていいかな?」
「何をいまさら。・・・ああ、どうぞ」
「では、失礼して」
宮坂の長い指が取り出したのは一枚ずつのカードと写真。
「ふうん?これはまた・・・」
「それは・・・」
高校の卒業式の写真だった。
校庭の一角に開花の早い河津桜が植えられていて、ちょうど見頃だったこともあり出席者たちは思い思いに記念撮影をしていた。
学内で人気者だった大我は、色々な人に写真をせがまれていつまでも人だかりが途切れることはなかった。
瑛はその様子を遠目に見て帰るつもりだったが、生徒会の仲間たちが記念に撮ろうと言い出し、気が付いたら大我の隣に立たされていた。
撮ったのは一枚きりの集合写真だったはずだ。
大我のそばにいたのはその瞬間だけだったように思う。
だけど、これは。
「隠し撮り・・・かな。大我はカメラのほうロックオンしてるように見えるけど、ホントは気付いてなかったよね。っていうか周り中カメラだらけだから気にしてなかったか。瑛はちょっと俯き加減で恥ずかしそうなのが初々しくて、ふたりの視線はバラバラなのに却って様になってるね。なんとまあ奇跡の一枚って、こういうの?」
満開の河津桜の下で寄り添うように立つ、大我と瑛の写真。
「俺、ずっと瑛の隣にいたと思うんだけどなあ…。見事に消されてる」
はああーと、蜂谷がうなだれた。
「すでにこのころからお邪魔さんだったんだあ」
宮坂の言葉の意味が解らない。
「あの・・・。俺、この写真、知りません。見たことがない・・・というか覚えがない」
とりあえず、自分の中の真実はこれだけだ。
「ちょっと待て、瑛。どういうことだ。だって、お前・・・」
「ああ、まあね、そうだと思うよ」
カードを開いて一読した宮坂は、テーブルの中央にそれを置いた。
「ねえ、大我。これ、瑛の字だと思ったんだよね?」
白い、シンプルな、桜の花びらの箔押しを散らしたカード。
中央に数行ボールペンで書かれている文字を瑛は視線でたどる。
『 大我へ
桜がもうすぐ咲く。
見に来ないか。
瑛 』
「これは・・・」
自分がもし大我に手紙を書いたなら。
勇気を出して書いていたなら。
こんな文章だっただろうと思う。
「どういう・・・こと・・・なんだ」
目の奥にちくりと波打つものを感じ、額を抑えた。
書いた覚えはない。
だけど。
書いたのだろうか、自分は。
覚えのない写真を一緒に入れて、ニューヨークのどこでどんな暮らしをしているかもわからないはずの大我に手紙を送ったのか。
「うん、まあ、ぱっと見に瑛の字だよね、蜂谷」
「ああ、まあな・・・」
ふうーっと蜂谷が息をついて、続けた。
「高校生のころの瑛の字に似てる」
突然、痛みが飛散する。
「え・・・」
「は?」
大我もあっけにとられている。
「うん。そうなんだよ。これ。蜂谷はヘタレだからぼかして言ったけど、ずばり、正確には大我に捨てられる前の瑛の字だね」
宮坂は美しく整えられた爪でテーブルをトントンと叩いた。
「もともと瑛の字は見やすくて綺麗だったんだけどね。今とはとめはねとペンの入る角度が少し違うんだよ。持ち手の型を変えたから」
「・・・あ」
慌ててカードを手に取って間近に見る。
さっきはまさに自分の字だと思った。
しかし、言われてみれば違うとわかる。
「そう。ペン習字。瑛は君と別れた後、講義の空き時間に習字教室に通って毛筆とペン字を基礎から修正をしたよね。だから僕たちから見れば違うってすぐわかる」
「あんたがなぜそれを知っている。単なる雇用主ではないのか。まさか・・・」
「ははは。今カレとでも?光栄だけど、違うよ。僕は瑛と蜂谷の大学のOBだった。だから会社のアルバイトで雇っていたんだよ。二人が大学一年の時からね」
頬杖をついた宮坂は、勝ち誇ったようにちらりと流し目をくれてやる。
「知らなかったよね。っていうか、全く興味なかったんだろう大我。瑛がどんな生活を送っていたかなんて。そもそもヤリたい時に呼び出すだけだったもんね」
先約があっても、大事な講義があっても、アルバイトを入れていても、大我から連絡があったらすぐに駆け付けた。
おかげで当時は多くの信用を失ったと思う。
せっかく仲良くなった大学の友達と疎遠になってしまったこともある。
宮坂には忠告を何度もされた。
蜂谷はいつも心配そうに自分を見ていた。
それでも、瑛の世界の中心は大我だった。
大我に会えるなら、何もいらなかった。
必要とされているのは身体で、暇つぶしでしかないこともわかっていた。
いつも、虚しかった。
独りの時も大我に抱かれている時も。
でも、彼の機嫌を損ねたら二度と声がかからなくなる。
もう会えないかもしれない。
ただただ、そのことだけが怖かった。
「な・・・」
大我の顔にさっと朱が混じる。
瑛は目を伏せた。
見たくない。
聞きたくない。
だけど、これが現実。
「まあ、二十前の男なんてみんなそんなもんでしょ。わからなくはないけど、無関心すぎたね。だからこんな下手な餌に簡単にひっかかる」
傍観者だからこそ、宮坂は冷静な判断ができる。
こうして立ち会ってくれたおかげで、絡み合った糸がどんどん解れていく。
だけど、それはこれほど痛みを伴わねばならないものなのか。