5.パンドラ
『パンドラ』
はるか昔、神々の世のころ。
『地上』が神の手で創造された。
それは複雑で、とても美しいものであった。
さらに神は、この地上の生き物たちの創造と管理を巨神族のプロメテウスと弟のエピテウスに任せることに決めた。
心優しいエピテウスが全ての動物たちに様々な能力を与えているうちに賜物は底を尽きてしまい、最後の人間に贈る物は何一つ残されていなかった。
そこで兄であり監督者であるプロメテウスは、考えた末に天から火を取りそれを与えた。
これにより人間は火を操って日々の暮らしを豊かにする知恵をつけ、『地上』のさまは変わっていく。
それは神々が危機感を抱くほどであった。
そんななか、ゼウスは『女』を造った。
天上で造られた『女』は神々から様々な贈り物をもらう。
それは美であり、
音楽であり、
魅力であり。
心地よいさまざまな事象だった。
最後に与えられたパンドラという名前とともに『女』は歩き出す。
『パンドラ』とは、『すべての贈り物を賜わった女』という意味である。
しかし、全ての贈り物はもろ刃の剣だった。
かぐわしい花の香りも、時には苛立ちを与えるように。
密かな計略の元に贈られた『パンドラ』はエピテウスに与えられて妻となり、そして事が起きた。
触れてはならないとわざわざ戒められたうえで与えられた瓶。
神に仕掛けられた誘惑がゆっくりとパンドラの心を侵していく。
好奇心に負けた彼女は、蓋を取り瓶の中を覗き込む。
解放された途端、世の中のありとあらゆる苦痛と悪しきものが飛び出し、世界の隅々まで広がっていく。
慌てて蓋を閉じてももう遅く、己の過ちに怖れ嘆くパンドラの手元になぜか一つ、残されたものがあった。
それは『希望』、または『予知』だったという。
(『ギリシャ神話』参照)
一方的に強い好意を持たれることに飽き飽きしていた。
誰もが俺に抱かれたがる。
そんなに触れてほしいか。
そんなに孕みたいか。
日本という国は退屈なところだ。
ここではバース特性のある人間が極端に少ない。
通っていた中高一貫校は財産・家柄または頭脳において屈指の進学校にもかかわらず、アルファは全学年あわせても片手で数える程度だった。
見方を変えれば世の中には優秀なベータがそれほど存在するということだが、どんなに優秀でも越えられないのが階級の壁だ。
アルファとベータ。
さらに、ゴールドとシルバー、そしてブロンズ。
生まれ落ちたその時から、立場は決まっている。
従順に従う子羊たちの群。
最初は玩具としてそこそこ楽しめたが、世界が広がるにつれ飽きてきた。
誰もかれも。
なにもかも。
つまらない。
「志村・・・、大我・・・。なんで・・・」
目を大きく見開いて、心底驚いた顔をしていた。
例えるならばまさに、鳩が豆鉄砲を食ったよう、だ。
それでも。
なんて美しいのだろう。
俺の瑛は。
「なんで・・・って。こっちが聞きたい」
思わず噴き出した。
笑いが止まらない。
心が沸き立つ。
たかが子羊のくせに。
どうしてこれほど俺を揺さぶる。
昔はもっと凡庸で、見た目は少し綺麗だけど卑屈で無口で愚鈍な男だった。
退屈だと何度も思った。
だけどどうだろう。
たった数年会わない間に変わっていた。
まるで、青虫がさなぎを経て突然蝶にでも羽化したかのように。
ぼんやりとした春の風景の中、瑛はきらきらと金色の光を放つ。
滑らかな肌、絹糸のような髪、細くてしなやかな肢体。
そして、鶯色にヘーゼルの色素を落としたような神秘的な色あいの瞳にまっすぐ見つめられ、大我は高揚した。
「だって、呼んだだろう?この俺を」
だから俺はここにいる。
お前に触れるために。
吸い寄せられるように、白磁の頬に手を伸ばした。
「あ。大我だ。志村大我。なんでいるかなあ。こんな時に」
耳障りな声と粗野な言葉遣いが、完璧だった世界のすべてを粉砕する。
すると最高の芸術家に創られた彫刻のように神々しい姿を魅せていた瑛は突然、血の通った人間になった。
それはおとぎ話の呪文を解かれた瞬間をつぶさに目にしたような、不思議な光景だった。
あれほど眩しかった彼の輝きは、次第にあいまいになる。
まるで、薄布を頭からすっぽり覆い隠したように。
いつもの、瑛。
地味な、印象の薄い、どこにでもいる男。
あの、別れた日の瑛そのままだ。
どういうことだ?
「やだなあ。ランチ台無しじゃん」
今、この場を台無しにしてくれた張本人を咎めようと振り返ると、男が二人、こちらに向かって歩いてきているところだった。
ひとりは背が高く、眼鏡をかけ清潔そうな身なりの男。
もう一人は中背で、妙に歩き方が綺麗で裕福そうな雰囲気の男。
背が高い方は、おそらく蜂谷薫。
自分と瑛のそばを常にうろついていた男。
高校卒業以来会っていなかったので背格好に若干記憶とのずれがあるが、わかる。
そうか。
こいつはまだ瑛のナイト気どりを続けていたのか。
蜂谷は最初から、あからさまに瑛を欲しがっていた。
しかし鈍感な瑛に全く相手にされず、仕方なく親友とやらを演じていたはずだ。
だが陳腐な志にこだわりすぎて未だ指一本触れられていないことも、大我は瞬時に悟った。
馬鹿なやつ。
慰めるふりでもなんでもいいから、さっさと抱けばよかったのに。
おかげで、まっさらなままの瑛を俺はまた存分に楽しむことができるけれど。
安くてちっぽけな同情と大きな優越感が大我の身体をひたひたと満たしていく。
「うわ。今きみ、蜂谷ってバカだな~とか思ったよね。その通りなんだけど、それ考えた時点で君も同じだからね」
気付くと、見知らぬ男が驚くほどちかくに間近に立っていた。
年上のようだが、まとう空気が瑞々しい。やわらかく波打つ黒髪は襟足から顎にかけて切りそろえられ、漆黒の瞳から驚くほど強い光が宿り、鼻筋も唇も理想的で精緻な面差しでとてつもなく美しいことに今更気づいた。わずかな微笑みからかおる滲み出る例えようもない色に大我は一瞬目を奪われる。
「初めまして、志村大我。東京へようこそ」
すっと手を差し出され、無意識のうちに握手に応じた。
軽く羽で撫でられたように力のない、あきらかに形ばかりの挨拶。
でも、一瞬の接触に何かがひそかに大我の体を走り抜けたように感じた。
・・・今のは、何だ?
「拠点をニューヨークに移して以来全く戻らなかった筈なのに、いったいどういう風の吹き回し?」
軽くて甘ったるい声色と馴れ馴れしい口ぶりの中に棘を感じ、不快な思いが胸を占めた。
「あんた・・・・。どっかで・・・」
「んー。どっかでもなんも、僕、きみの大先輩なんだけど。敬うとかってないの?」
「は?」
「今はこういう仕事をしていますが…」
すっと目の前にかざされた白い手の、綺麗にそろえられた指先にはさまれているのは小さな紙片。
差し出されたそれを受け取り、眉間にしわを寄せて文字列を読み上げる。
「オフィス宮坂・・・。ブランディング・プロデューサー、宮坂誉?」
ブランディングプロデューサーという仕事を知らないわけではないが、宮坂なんて名前は全く記憶にない。
「えー?知らないの?うーん。僕ってまだまだなんだね。仕方ないな、ヒントをもう一つ。二十歳ちょっとくらいまでは『稀』って名前で君と同じ仕事していたよ」
大我は現在、国際的なモデルとして欧米でそれなりに活躍している。だが、パリでもミラノでもこの男に会った覚えはない。もっとも、ショーモデルは流行りも入れ替わりも激しく、その寿命は短い。
だが、『稀』という名前は。
「・・・あんたMAREか!」
『マレ』は伝説のモデルだ。
身長は175センチと普通ならば欧米では通用しないと言われた体格だったにもかかわらず、その優美さと存在感は圧倒的で、名だたるメゾンの誰もがスチールに使いたがった。
彼が身につけた衣装やアクセサリー、そして宣伝した香水は飛ぶように売れ、東洋系で成功した男性モデルの第一人者と称賛された。
「気づくの遅すぎ」
やわらかな笑みをたたえた美しい唇に、つい視線が釘付けになってしまう。
しかし病気療養を理由に『稀』は突然モデル業界から去ったはず。
「仕方ないだろう。あんたが降板した時、俺はまだ中学生だったんだ」
大我が知人の勧めでモデルの仕事を始めたのは十七歳になってからだ。『稀』の仕事ぶりを古い雑誌や映像で見たことはあったが、それはリバイバル映画を見るのとかわらない。ただし先人として尊敬していたので、記憶には残っている。
「あいたたた。言うなあ」
芝居がかったしぐさでおどけて見せても、確かに彼の優雅さは『稀』そのもののように思えた。
「だけどなんで、『稀』がここに」
夏川瑛との、六年ぶりの再会の場に。
はっとあたりを見回すと、なんと瑛はいつの間にか少し距離を置いた場所に立ち、まるで他人のような顔をして蜂谷と一緒にこちらをうかがっている。
「おい、瑛・・・」
「・・・君、ほんっと何しに来たんだろうね」
宮坂の呆れ声にまたしても足止めされた。
「・・・なんだと」
「瑛は、僕の部下だよ。それこそ君が瑛をつまんでポイする前からね」
「は?」
「・・・ははは。鳩が豆鉄砲って、こんな顔なんだなあ」
「・・・っ!」
「まあまあ、こんなとこで立ち話もなんだし」
ひらひらと、白いかけらが落ちてくる。
やわらかな、たよりない感触。
「仕方ないから、僕たちのランチの仲間に入れてあげる」
桜の花びらなのだと、今になって気が付いた。
「お行儀良くしてくれよ?志村大我」
ここは日本なんだと、ようやく脳に響く。
四月の空。
桜並木。
瑛がいて。
蜂谷と稀がいて。
舞い散るかけら。
俺はどうして、ここにいるのだろう。