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天のかけら地の果実(全年齢版)  作者: 群乃青
天のかけら 第一章
3/20

3.異変

「・・・だけど・・・・じゃない?」

 身体が水に浮いているようだ。

「でも、数値が・・・」

 流れは全くなくて、まるでプールの中で漂っているような?

 それとも・・・。

「なら、・・・って、ことだな?」

 水なんかじゃない。

 指先に触れたのは糊のきいた綿の布。

 背中にあたるのは…。

「・・・ここ、・・・っは」

 ひゅうと、喉が鳴った。

「あ、気が付いた?」

 真っ先に目に入ったのは、浅利医師の顔。

 スクウェアネックのカットソーよりあらわになった胸元から首にかけての白い肌に、一瞬何かペイントしたような跡を見た気がしたが、瞬きをすると消えてしまった。

 ペイントなんて。

 しかも、金色だなんてどうかしている。

「いったい、何が・・・」

「あなたは一時間くらい前に仕事場で倒れたの。蜂谷君たちに運んでもらってここで少し検査したけど、ちょっとした寝不足と貧血気味かな。もしかして最近食欲もない?」

 そういえばここのところ眠りが浅くて疲れやすく、そのせいで胃が食べ物をあまり受け付けない。

 軽く顎を引くだけですべてを理解してくれたのか、彼女はてきぱきとベッド周りを整え始めた。

「うん、だからね。まずは軽く点滴しておこうか。終わるころに蜂谷君にまた迎えに来てもらうからそれで良いわよね」

 応える間もなく腕に針を刺され、また瞼が重くなっていく。

「そんなわけで、お二人ともよろしく」

 そこでようやく蜂谷と宮坂がそばにいてくれたことに気付いたが、首を動かすことすら何故か億劫だった。

「・・・ヒート」

 ひそかな、聞き取れるはずのない囁きだった。

 なのになぜか拾い上げる。

 ヒート。

 オメガを語るときに必ず出る呪文。

 なぜ今ここで。

 浮かんだ疑問も彼らの囁きも何もかも眠りにからめとられていった。



 浅い眠りほど悪夢を見ると、言ったのは誰だったか。

 時計の秒針を刻む音と、話し声。

 そして、かすかな痛み。

 「いたい・・・」

 痛みは、次第に強さを増していく。

 そしてそれは、耐えられないものへと変わった。

 下腹部の、骨盤全体をハンマーで殴られたらこんな痛みなのではないか。

 そう思った瞬間、目の前に自分の身体よりもずっと大きな掌がぬっと現れた。

 逃げる間もなくその巨大な手に腰をつかまれ、あっという間に力任せに握り込まれ、つぶされる。

「あ──────っ」

 叫んだ口から噴き出たのは血ではなく、蔦のような植物だった。

 虚空へ伸ばした手の指先からも緑の蔓と葉が生えて、天に向かって伸びていく。

 このまま自分は植物になるのか。

 なにがなんだがわからない。

 でも、全身から伸びていく植物の核は、最初に痛みを感じた骨盤の中心にあると確信した。

 種が腹の中に寄生したと思うと気味が悪い。

 怖くて怖くて、植物に覆われた手で震えながらも腹を抑えた。

 葉を伸ばし蕾を付けた蔦は、ぽん、と小さな音を立てて白い花を咲かせ、身体を取り巻いていく。

 うねうねと伸び続ける植物にだんだん飲み込まれていき、視界も阻まれて、緑の闇に覆いつくされた。

「たすけてくれ・・・」

 怖い。

 腹の中にマグマのような炎を抱えているようだ。

 その熱が全身を駆け巡って焼き尽くしそうで、怖い。

「たすけて・・・」

 誰か。



 頬にひやりとしたものを感じて目を開けた。

「大丈夫か?すごい汗をかいてる」

 蜂谷の心配そうな顔が間近に見えて、力が抜ける。

 ベッドの傍らに椅子を置いて座り濡れタオルで汗を拭ってくれていたらしく、優しい手つきで額にもあててくれた。

「・・・なんか・・・」

「ん?」

「よくわからない・・・けど。なんか怖かった気がする」

「そうか。おかえり、瑛。お疲れさま」

 まるで長旅から帰ってきたかのように軽く応じて、心底安心する。

 これが現実。

 自分は、この世界にいる。

 大きく深呼吸した時にふと、思いだす。

「なあ、蜂谷」

「んー。なに?」

 のんびりした返事につい尋ねてしまった。

「お前、今日は香水つけてるのか?」

 朝から感じていた疑問を。

「・・・え?」

 蜂谷の手が止まる。

「・・・そう?」


 表情がわずかにこわばっているのに気づいてしまった。

「そうかあ。今日の俺は臭うかあ」

「蜂谷」

「最近、色々お試し中なんだよね。ボディソープとか、シャンプーとか。あ、柔軟剤もだな」

 饒舌になればなるほど、自分が何かまずいことを言ったのだと解る。

 嘘だ。

 多分、何も変えてなんかいない。

「ねえ、瑛。・・・ちなみに俺ってどんな匂いなの?」

 問われて一度深く息を吸ってみる。

 包み込まれるこの感覚、そして香り。

「・・・森?」

「森」

「なんていうか・・・。木とか葉っぱとかそんな感じ」

 蜂谷がせわしなく瞬きをしている。

「・・・それって。・・・瑛にとってさ。やな匂い?」

 浅い呼吸。

 緊張してる?

「いや・・・。むしろ」

「むしろ?」

「なんか・・・。なんか落ち着く…かな」

 口にして、腑に落ちた。

 ああそうか。

 落ち着くんだ。

「そう?」

 自分とは逆に蜂谷はますます落ち着きのない様子になった。

 意味もなく、サイドテーブルの上に置かれたものを右に左に動かしている。

「うん。森林浴してみるみたいな?・・・たぶん」

 インドアな自分のことだから、森林浴なんてほとんど経験がない。

 ただ、幼いころに両親と一度だけ行った避暑地の記憶が急によみがえった。

「そうなんだ・・・」

 口に手を当てて、蜂谷は横を向く。

 露になった耳が、朱い。

「蜂谷?」

「うん、ごめん。体調落ち着いたなら、そろそろ帰ろっか」

 今更気付いたが、もう腕に点滴の針は刺さっていなかった。

「悪い、今、何時?」

「まだ七時になるくらいだよ」

「そんなに経ってたのか・・・」

 倒れる直前に見た時計は二時を半ばすぎたころだったはず。

「浅利さんはまだ診察やってるから、十時くらいまで眠らせていいよっては言ってたけどね」

 この診療所は彼女以外に交代制の医師がいて、朝は八時から夜の九時まで開院している。

 ドアの向こうの廊下から人が行き交う気配を感じた。

「いや、もう大丈夫だから」

 起き上がると、自分でも驚くほど身体が軽かった。

 外して保管してあった時計を受け取り、腕に着ける。

「点滴のおかげかな・・・。本当に、ここのところ具合悪かったのが嘘みたいだ」

「そうか。よかった」

 我ながらのんきなものだった。

 その軽さすら予兆と気付かずに。

 


 体調は回復したと何度も固辞したけれど、心配だからと蜂谷は部屋までついて来た。


「本当に、大丈夫だったのに・・・」


 自分の家なのにソファーに座らされ、さらにお茶まで入れてもらい、ついため息が出た。


「お節介すぎてうっとうしい?」

「いや、そんなことは・・・」

「ああよかった。うざったいとか言われたらどうしようって、一瞬おびえたよ」


 さらりと明るく流されて、どう答えればいいかわからない。

 ここは宮坂が社宅として用意してくれたもので、通勤にかなり便利な上に環境も快適だった。もちろん蜂谷を含めた他の同僚も同じ建物に住んでいる。

 ただ、強靭と言い難い自分が体調を崩すたびに蜂谷が何かと面倒を見てくれるので、本当に申し訳ないと思う。


「ところで、今から食べるものってあるの?何もないなら俺が作ろうか?」

「いや・・・。あるから」


 正直、冷蔵庫の中はほぼ空っぽだ。

 ずっと食欲がなかったせいもあるが、近くにコンビニがあるのでついつい不精してしまった。

 でも、蜂谷にこれ以上迷惑をかけたくない。

 なによりも自己管理能力のなさを今更痛感し、いてもたってもいられないほど恥ずかしくなった。


「いいから・・・」

「でもさ・・・」


 蜂谷が冷蔵庫に手をのばしたその時、ちょうどインターホンが鳴った。

 しかもこれはゲートのチャイム音ではなく、玄関だ。

 すぐそこに誰かがいるということで。


「来客の予定があったのか?」


 同じ建屋に住む同僚たちで蜂谷以外に尋ねて来る者はいない。


「・・・いや」


 顔を見合わせている間に、いきなり扉が解錠される音が聞こえた。

 ここはかなり厳重なセキュリティを施された最新式のマンションと聞いていたのに。


「・・・なんで」


 蜂谷が険しい顔で踵を返す間もなく、ノブが動いて女性が入ってきた。


「母さん・・・」

「あら、瑛。いたのね。応答ないからいないのかと思って勝手に入ってしまったわ」


 母にスペアキーを渡していたのをすっかり忘れていた。


「いきなりどうしたんだよ、母さん。来るって聞いてない」


 蜂谷のいる手前ついぶっきらぼうな物言いをしたが、母は気にした風もなくずかずかとリビングに入るなり、テーブルの上に大きな荷物をどさっと音を立てて置いた。


「ええそうね、ごめんなさい。ただ、夕方に晩御飯作っていたらふと、ね。瑛の体調が悪いんじゃないかと閃いたの。だから気になって来ちゃったわ。熱があるんじゃないの?今」


 母の言葉に目を見開くと、


「やっぱりね。思った通りだったわ」

 一つうなずいて、保冷バッグのチャックを開き中から食べ物の入ったタッパーを掘り出しては積み上げ始めた。


「こういう時に瑛が食べたくなるものばかり作ってきたから、少しは口に入れなさい」


 時々、体調が悪い日にかぎって母がこうやって押しかけてくることも、忘れていた。

 そんな時は、瑛が言うことを聞くまで絶対譲らないことも。


「いや、でも母さん・・・」


 押し問答をしながら、頭の隅にちらりと何かがよぎる。

 だけど、それは形にならないまま流れて行ってしまった。

 そもそも、いま目の前にいる蜂谷に全く声をかけないなんて。

 どうして。


「こんばんは、お邪魔しています」


 蜂谷は最初あっけにとられていたようだが、気持ちを切り替えてすぐにそつなく挨拶する。


「あら蜂谷君。突然ごめんなさいね。気になったらじっとしていられなかったの。もしかして、瑛のことで今日は蜂谷君にご迷惑をおかけしたんじゃないかしら」


「いや、たまたま居合わせただけですから」

「ありがとう。ここは私がいるからもう大丈夫よ。毎日瑛ばかり構っていたら、蜂谷君の彼女もいい気はしないでしょ」

「そんな・・・。べつにそういうのは」

「あらあ、いないの?今。こんなに格好良いのにあり得ないわぁ。なら、なおさらこんなところにばっかりいちゃだめじゃない。蜂谷君ももう二十五歳でしょう。友達とばかり遊んでないで真剣に婚活始めないとね。親御さんも可愛いお嫁さんを心待ちにしてるはずよ。だいたい男は家庭を持って一人前なんだし・・・」


 母はまるでなれなれしい親戚のように下世話なことをべらべらと喋り始めた。

 一見親切に見えるかもしれないが年上ぶっているだけで、実は相手を傷つけるのをひそかに楽しんでいるような・・・。

 マウントしているのがありありと出ていた。


「いえ。うちはそういうことはないので」


 愛想のいいことでは定評のある蜂谷も、さすがにだんだんと表情が硬くなっていく。


「母さん、もうやめてくれ」


 精一杯抑えたけど、耳障りな自分の声が響き渡った。


「蜂谷に対してあまりにも失礼だろう」


 恥ずかしい。

 どうして今、そんなひどいことを言えるのか。


「・・・あら。私ったらついおせっかいをしてしまったみたいね」


 ふふっと軽く笑ってごまかしても、取り繕えることではない。


「瑛もまだ本調子じゃないみたいだから、今夜のお礼はまた改めてさせて頂戴ね」


 なんと話は終わったとばかりに母はタッパーを抱えてシンクのほうへ向かった。

 今日の母は変だ。

 すごくおかしい。


「待って母さん・・・」


 すぐにでも蜂谷に謝るべきじゃないのか。


「そうですね」


 蜂谷の手がぽんと、瑛の背中を軽くたたいた。


「そういや、やり残した仕事があったのを思い出しました。職場に急いで戻らないと社長に叱られる」


 温かい手のひらがさらりと肩甲骨を撫でて、離れる。

 その触れ方に、彼のいたわりを感じた。

 そして、残業なんて嘘だということも。

 蜂谷は時々嘘をつく。

 でも、それは。


「蜂谷、すまない」

「いいって」


 かがんで床に置いていた荷物を手に取ると、蜂谷は母にいつもの人懐っこい笑みを見せた。


「では、俺はこれで。おやすみなさい」

「ええ、おやすみなさい。今日は本当にありがとう」


 母はあくまでも何事もなかったのようにふるまう。

 でもそれは明らかに冷たい声色で。

 口では感謝を述べても、それは表面的なものでしかなかった。


「蜂谷、ありがとう」

「うん、ゆっくりおやすみ、瑛」


 蜂谷の優しい香りが、母のまとうねっとりとした化粧の濃厚な匂いにかき消される。

 母の匂いなんて、今まで気にしたことなかったのに。

 床から昇る冷気が身体を包み込んだ。

 寒い。



「母さん、さっきのはどうかしてる」


 次々と戸棚から食器を取り出しては並べる母に、憤りをそのまま投げつけた。


「瑛。点滴っていったいどんな成分のをしたの?それと、病院はどこ?」

「え・・・」


 器に取り分けた料理を電子レンジに入れた母の背中をまじまじと見る。


「俺、点滴したって言ったっけ?」


 長袖のボタンはきっちりと手首で止めたままで、点滴の痕は母には見えないはずだ。


「ええ、さっき蜂谷君と一緒に話したじゃない」

「・・・そうだっけ」

「そうよ。だから元気になったって」


 彼女はコンロに火を入れて今度はみそ汁を作り始めた。


「で、処方箋は?」


冷凍庫の隅にほうれん草の素材パックがあるのを見つけたらしく、取り出した一掴みを煮立った鍋に乱雑に放り込む。


「・・・ない」

「なぜ?」

「なぜって・・・。急だったから。俺、保険証持ってきてなかったし。明日にでもって・・・」

「そんな医者で大丈夫なの?個人医院でしかも女医だなんて。本当に医師免許持っているのか確認した?何かあってからじゃ遅いのよ。もう大人なんだからしっかりしてちょうだい、お願いよ瑛!」


 まくし立てているうちに興奮が増したのか一気にトーンが上がり、母のヒステリックな声が部屋の中できんと反響した。


「母さん・・・?」


 どんなに問いかけても、母は怒っているような固い表情を浮かべたまま、食卓の用意をし続けた。


「・・・とにかく、食べて寝なさい。今夜は泊まるから」


 実家とこのマンションは電車の乗り継ぎが悪くても一時間ほどの距離だ。

 親に対して思うのは悪いが、まだ帰れない時間ではない。

 今は一人になりたいと、強く思った。


「・・・父さんは?母さん居ないと困るだろう。もう俺はいいから・・・」

「お父さんは出張よ。大事な仕事を任されて忙しいの」


 父はいつだって忙しい。

 転職を繰り返しては条件の良い会社に移り、いつもがむしゃらに働き続けている。おかげで瑛は途方もなく授業料の高い学校へ通うことができた。

 しかし。


「そう・・・」


 そのせいか、母の注意は常に自分に向いているように思える。

 今夜はとくに。


「じゃあ、ありがたくいただきます」


 椅子に座って、母の手料理に箸をつける。

 向かいに座る母も自分の膳を用意し、一緒に食べ始めた。

 緊張してた空気が、少し和らぐ。


「明日、朝一番で筒井さんのところへ行くわよ。会社は休みなさい」

「え?」


 筒井とは、子供のころからのかかりつけの病院のことだ。


「いや、俺もう大丈夫だし」

「いいえ。あなたは自分で思うほど丈夫じゃないのよ。大事になる前にきちんと診てもらわないとお母さん安心できないわ」


 ここで同意しないとまた荒れるのは目に見えている。

 場をおさめるには従うしかない。


「・・・わかった。蜂谷に連絡しとく」


 明日の仕事の予定に考えを巡らせながら、みそ汁を口に含む。

 湯気がたちのぼる味噌汁のやわらかな香りに目を伏せる直前、母の口元が見えた。

 わずかに震えながらゆっくりと奇妙な形にゆがむ唇を。


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