19.オメガバース
「ほら、温まるから」
蜂谷に渡されたマグカップを両手で受け取る。
「これは・・・」
「即席だけど生姜湯みたいなもの」
おろしたての生姜の香りと苦みが口の中に広がった。
甘露だ。
少しぬるめに作ってあったそれを一気に飲み干し、ほっと、瑛は息を吐きだす。
「うん、いつも俺が体調崩すと作ってくれるよな」
カップをサイドテーブルに置いて、蜂谷を見上げた。
「・・・だな。それしか思いつかないから」
だが、蜂谷は少し視線を外して笑うだけで、こちらを見ようとしない。
「蜂谷?」
「うん、俺はさ。あっちのソファーで寝るから瑛はここを使って」
今、瑛が座っているのは、蜂谷の寝室にあるベッドだ。
瑛の部屋は入れないからと宮坂に言われてそんなことになった。
「え・・・だって、ここは蜂谷の家じゃないか。俺がソファーに行く」
「いや、今日は瑛も色々あったからさ。ゆっくり寝て。俺の匂いがするだろうけど」
「蜂谷の匂い・・・」
言われて初めて、気が付いた。
そして、急に鼻腔が仕事を始める。
蜂谷の匂い。
木の幹と、針葉樹の葉っぱと、それと・・・。
かあっと、頬が熱くなった。
「え・・・?瑛?俺の使い古しのベッド、駄目だった?消臭剤かけようか?シーツは替えたんだけど、やっぱ嫌?」
蜂谷はおろおろして、部屋の外と中を行ったり来たり熊のように歩き回りはじめた。
「いや・・・、そうじゃなくて」
「え?寝心地悪そう?やっぱり、今からホテルとろうか」
「そうじゃなくて!」
つい、大きな声を出してしまい、蜂谷からまじまじと見つめられた。
「あのさ・・・」
蜂谷の視線が耐えられない。
そのままぼすっと横に倒れ、両手で顔を隠す。
ああ、駄目だ。
ますます駄目だ。
ますます、強くなる。
「あのさ・・・。ここって。蜂谷で、いっぱいだな・・・」
「え・・・」
蜂谷の声が、また駄目にする。
「俺、もう・・・」
吐き出した息が、熱い。
手を落として視線を上げたら、蜂谷の手が見えた。
手の甲に向かって、青い線がのびていく。
線から線へ。
見えない筆が蜂谷の手を丁寧に装飾していく。
それを見るのが、たまらなく、嬉しい。
「なあ、蜂谷・・・」
「抑制剤」
蜂谷の胸元が大きく上下して、彼が何度も深く呼吸を繰り返しているのがわかる。
「抑制剤、飲んだよな、瑛」
「飲んだ。でも、そんなの多分関係ない」
恥ずかしくていたたまれない。
でも、言う。
恥ずかしいけど。
でも、顔は隠す。
恥ずかしいから。
突っ伏して言う。
恥ずかしいから。
「蜂谷がいるのに、蜂谷の匂いがするのに、そんなの関係ないだろ」
歯がゆくて、歯ぎしりしたくなる。
「・・・なんで、来ないんだよ」
言い終えた瞬間、どすっと蜂谷が落ちてきた。
「うわ」
痛い。
重い。
熱い。
「参った。ほんっと、参る。俺、今日は絶対我慢するって決めていたのに」
首元に息がかかって、背中に蜂谷の身体を感じて、くらくらする。
「蜂谷」
「もうさ。俺、ずっと我慢してきたんだよ。わかる?中学の入学式に一目ぼれしてからずっと!」
蜂谷が何を言っているか、脳が言葉を解読してくれない。
腹の下に手を突っ込まれ、さらに両腕でぎゅうぎゅうと抱きしめられ、肺の空気が全部絞り出されるかと思った。
でもそれすら、身体が喜んでいる。
だって、蜂谷だから。
「蜂谷」
苦しくて、喉まで止められたボタンに指を押し当てる。
手が震える。
だけど、苦しいから。
「はちや・・・」
ボタンを、頑張って外す。
ひとつ、ふたつ、みっつ・・・。
その間、蜂谷が何か言ってる。
熱が乗ってる。
でも、わからない。
いくつ外したら、楽になるだろう。
五つ目を数えたら、腹のあたりで交差する蜂谷の強い腕にたどり着いた。
「はちや、俺、もう無理」
「瑛・・・?」
ちゅ、とうなじを吸われた。
背中に甘いものが走る。
「これ、外してくれ」
彼の手を導いて、ゆだねた。
「・・・っ。俺もむり」
蜂谷はいきなり体を起こし、瑛の肩に手をかけてくるりと仰向けにした。
「蜂谷、恥ずかしいって」
慌てて両腕で顔を隠す。
馬乗りになってきた蜂谷に腕を取られたが払いのける。
それをまた開かれて、また払いのけるの小競り合いを繰り返し、最後に瑛が根負けした。
「・・・あんま、見るなよ、俺の顔」
「いや、もうわけわからない。だから、ごめん!」
言うなり、蜂谷は瑛のシャツを思いっきり開いた。
「わ・・・」
ボタンが飛んだ。
なんだか、楽しい。
いつもと違う蜂谷が、嬉しい。
空気にさらされた胸が、解放感と期待に膨らむのを感じた。
「ほんっと、わけわからない」
唸りながら自らの眼鏡をむしり取って、どこかに投げた。
がしゃんと、硬いものに当たったような音がする。
「蜂谷、眼鏡・・・」
「いいんだよ。あれ、瑛のためだったから」
「は?」
「度はたいしたことない。まじないみたいなもんなんだよ。俺が瑛を襲わないように」
「そんなんなんだ」
「そうだよ、そんなんなんだよ。もう、なんなんだよ、瑛。こんな綺麗な身体、反則だろう」
蜂谷は怒ったり、喋ったりで忙しい。
でも。
「なんか、うれしいもんだな」
「は?」
「俺のこと綺麗って、蜂谷が言った」
「そんなん、毎日言ってただろう!毎日毎日」
「そうだっけ」
「瑛!」
蜂谷が怒れば怒るほど、身体の中がうれしさでいっぱいになる。
うれしくて、幸せで、ふわふわと笑いたくなった。
「あーもう」
一度天を仰いで盛大なため息をついた後、着ていたカットソーを脱ぎ始める。
現れたのは大我のように魅せるために作り上げられたものとは違うが、すっきりと無駄のない筋肉がつき、すらりとした身体が枝を伸ばした木を思わせて好ましい。
そして、その身体の上には青い太めの線がびっしりと現れていた。
「蜂谷のしるしって・・・」
筒井はせいぜい胸板どまりだったのに、蜂谷の絵柄は広範囲に及んでいる。
鎖骨のあたりから指の先まで自由奔放ながら一定の規則性を持った線が描かれていた。
「・・・ああ、これ?えらい素朴だなって、兄弟たちから言われる」
「でも、なんか産みの親の服の刺繍に似てる。かっこいいな・・・」
ヴァイキング、ケルト、ベドウィン、タタール…。
自然と生きる人々の暮らしが思い浮かべられるような、そんな文様。
触ってみたくて手を伸ばしたら、そのまま指を握り込まれ、蜂谷が覆いかぶさってきた。
「瑛。ありがとう」
鼻と鼻が付くほどの近さで囁く。
「なに・・・が」
心臓の音とか、まつ毛をしばたく音とか、呼吸とか。
互いの何もかもが聞こえそうなくらいに近い。
「なにもかも。生まれてきてくれてありがとう、同じ学校に入学してくれてありがとう。大学も会社も一緒になっても嫌がらなくてありがとう、他にもいっぱいいっぱいあるけど、今はちょっとはしょって」
吐息がかかるたび、唇が震えた。
蜂谷の、熱だ。
「うん」
「無事に、生きて戻ってきてくれてありがとう」
瑛は、息をのんだ。
ああ。
なんて男なんだろう。
負けた。
もう、すっかりやられた。
「はちや」
絡められた指を握り返して、蜂谷の目を覗き込んだ。
いつもは明るめの瞳がしっとりと深みを帯びて見える。
「うん?」
たった一言で、こんなに俺を揺さぶるなんて。
「それで、いつキスするんだ」
睨みつけてやったら、ふっと息を吹いて、破顔した。
「キスしていいの?」
「今この状況で、しないつもりか」
「いや、するよ、させてください」
いきなり、ちゅっと音を立てて瑛の唇の表面を吸い、すぐに離れた。
あまりに唐突すぎて、何が起きたかわからなかった。
「・・・てめ、ふざけんな」
子供だましのキス。
からかわれているとしか思えない。
両手をはがそうとすると、最初は笑っていた男の表情が真剣なものへとゆっくりと変わっていった。
「ごめん、ふざけてないよ。これからが本番」
蜂谷の匂いが増していく。
「ねえ、瑛」
こんな、顔をするなんて。
「薫って、呼んで」
蜂谷のすべてに、圧倒された。
心臓が、これ以上はないくらい早鐘を打つ。
ほら、とメープルシロップのような甘い色の瞳で促され、なんとか喉を震わせた。
「か・・・。かお・・・」
唇が塞がれる。
蜂谷の唇が触れた瞬間、電流のようなものが通り、足の裏がしびれた。
そして、腹の底から沸き上がる欲求。
ああそうか。
こういうことか。
一度触れてしまったら、もう離れられない。
「ん・・・っ。か・・・」
何度も何度も、角度を変えて求められ、求める術を覚えていく。
「・・・えい」
「か・・・おる」
唇が触れて。
息を絡めて。
そして、二つが一になる。
「も・・・溶ける・・・」
ベッドの上で瑛は嘆く。
「これ以上、むり・・・」
全身、汗にまみれてもう息も絶え絶えになっていた。
いったいどれだけの時間を抱き合っていたのかわからない。
「えい、駄目だよ・・・」
もう力が入らずくたくたなのに、蜂谷は器用に瑛を抱き起し、胡坐の上に向かい合わせに座らせる。
「瑛ってさ、ほんと綺麗だね」
「だから、それ、やめろって…」
ちゅっと鼻先に軽く口づけされただけなのに、気持ちよくて震えてしまった。
「かわいいな」
「くそ。はちやっ…」
「かおる、だろ」
瑛の背中を両腕でしっかり抱え込まれて、揺さぶられて、感じて。
「あっ、まって」
「待たないよ」
言葉でじゃれ合いながら触れ合う。
求められて嬉しいのに、憎らしくなる。
二人ともセックス自体は初めてではない。
瑛は長い間大我に抱かれていたし、蜂谷も一時期色々な人と関係を持っていたことはわかってる。
だけどそんな経験が今は何の関係もないことを、キスをした瞬間に思い知った。
自分たちは、お互いのことをまだ何もわかっていなかった。
アルファとオメガ。
ブロンズとゴールド。
パートナー、つがい、伴侶。
色々な言葉がオメガバースのことを語るけれど、身体をあわせて初めて知ることがたくさんある。
指先からはじまって、唇、腕、足、胸、そして。
触れ合うたびに、未知の扉を開いていく。
よくてよくて、すごくよくて。
もっと気持ちよくなりたくて。
果てがない。
「はちや・・・」
蜂谷の頭を両手でとらえて、手のひらで、指で彼の艶やかな黒髪を感じる。
こんなことすら気持ちいいなんて、知らなかった。
指先で触れるだけで、こんなに愛おしくなるなんて、知らなかった。
胸の奥がうずく。
この一晩でさんざん抱かれた。
それなのに、まだ欲しいと身体が訴えていて、もう疲れ果てているのに続きを求めている。
「なあ・・・はちや・・・」
「かおる」
蜂谷が、めちゃくちゃ感じているのがわかる。
すごくうれしい。
蜂谷が感じて、自分が感じて。
感じさせて。
もっともっとと、求める。
これは自分たちのバース性のせいなのか、それとも心が貪欲になったのか。
わからないけれど、それはこれから知ればいい。
ただ今は。
感じるだけでいい。
「うん…。かおる…」
「よく、できました」
喘ぎすぎてすっかりかすれた声でねだる。
「なあ…」
果てのない欲の凄さを初めて味わう。
荒い息の中、汗だくの蜂谷が笑う。
気持ちいい。
すごくいい。
気持ちよすぎてがくがくと震える自分を、蜂谷が抱き留めた。
二人の匂いが混ざり合い、巣を作る。
「か・・・おる」
こんなに自分が欲張りだなんて、知らなかった。
でもそれは。
「えい・・・」
お望み通りに。
それが、俺の望みだから。
と、言われた気がした。