18.ワタシノ、タカラモノ
筒井と瑛が預けられた乳児院は、陰で「井戸」と呼ばれていた。
残酷な話だが、いらない子供を投げ込む所、という意味だ。
一度預けられると死んだも同然で、その後の成長を気に掛ける者などいない。
施設の運営は親たちのいわば手切れ金と、乳児を秘密裏に欲しがる子供のいない夫婦との契約金で賄われていた。
ただし、もし良質のバース特性に好転した場合のために預け主の正確な記録だけは必ず取るのが決まりで、めでたくアルファになれた筒井は自分の出生を知ることができた。
そして意気揚々と実家の門を叩いたが、ベータと大差ない程度のブロンズということで全く相手にされず、屈辱を味わうだけで終わった。
そんななか、子どもを欲しがっている夏川夫妻と出会う。
夫人は特に長年の不妊治療で心身ともに限界で、向上心を支えに生きていた。
だから、持ち掛けた。
バース特性の卵を育てて、世間を見返してやらないか、と。
彼女はあっさり陥落した。
そして気の弱い夫を説き伏せ、月齢の低い男の子を引き取り戸籍上は実子として届けた。
その赤ん坊は、シルバーの父親に捨てられた。
母親はオメガだか行方不明。
そう記載されていたという。
「それで・・・。その、父親は・・・」
次々と聞かされる信じがたい話に、目が回りそうだった。
それでも、知りたい。
意を決して尋ねると、そばにいた蜂谷がやんわりと手を触れてきた。
「瑛を預けて数年後、残念ながら他界してる。旅先で、客死だって」
宮坂は簡潔に答えてくれた。
蜂谷から励ますように指先を強く握りこまれ、息をつく。
「・・・そう、か・・・」
生まれた瞬間に自分を否定した人。
だけど。
「・・・瑛は、優しいな」
「そんなんじゃない」
問いかけたいだけだ。
どうして、と。
「で、産みの母親なんだけどね・・・」
浅利は、ひと呼吸置いた。
「その人も多分亡くなってる。おそらく出国後まもなく」
彼女にしては珍しく持って回った言い方をする。
「出国後・・・とは」
「本当に、詳しいことがわからないの。特権階級経由で調べてもらったんだけどね」
タブレット端末をいくつか捜査して、瑛に手渡す。
画面には写真が添付された書類が映し出されてた。
「・・・これは」
白黒の写真だが、一目瞭然だった。
全面に刺繍が施され、どこかの遊牧民を思わせる独特の衣装。
そしてアジアやヨーロッパの血が入り交じっていることを思わせる顔立ち。
「・・・もしかして」
「パスポート名はアリヤ・スユンシャリナ。これが本名なのかはちょっと怪しいらしいんだけど、日本に来て出産した事実が記録に残ってる」
ふう、と息をつく。
「出身は中央アジアの少数民族。二十六年前、政変と迫害に遭って彼女の生まれ育った地域はめちゃくちゃになった。古くからの住人はもう誰もいない」
目の前が真っ暗になる。
「そんな・・・ことが」
「今でもそうだけど、その頃日本のオメガバースは血が濃くなりすぎたのか飽和状態になって、顕現率も低くなったし、パートナーがなかなか見つからない人が増えたの。そこで、あなたの父親は海外に目を向けた」
いわゆる花嫁探しの旅だ。
しかし、それはなかなかうまくいかなかった。
オメガバースもアジア系の社会的地位は低い。流れ流れていくうちに、中央アジアにたどり着いた。とある集落に、オメガがいるらしいという情報を掴んだからだ。
「おそらく、オメガであるないにしても年頃の女性の家に求婚者は詰めかけたでしょう。その時、日本の円は強かった」
アリヤという少女はおよそ十八歳で、刺繍の腕前は上々で働き者。そして周辺でも評判の美人だった。
ただ僻地ということで詳しい身体検査はされておらず、一族の血統として女性はたいていオメガだからそうに違いないという話だが、周囲にアルファがいないためベータと婚姻するしかないという噂が流れた。
それを聞きつけてはせ参じたアルファは十人ほど。
先祖が草原の民でないのは、日本からきた男一人だった。
結局、婿選びの決め手は金につきる。
その地域では考えられないほどの破格の婚姻費用を彼は提示した。
しかし実際のところ、貨幣価値の違いから日本の一般的な結納と比べるとはした金だった。
安い買い物をして、オメガを連れた男は胸を張って帰国することになる。
交渉成立の翌日に初夜を迎えた新妻は、すぐに妊娠した。
それは何よりも喜ばしく、夫の家族も喜んだ。
しかし、草原で暮らした少女にとって、日本での暮らしは地獄の始まりだった。
嫁ぎ先は没落して平均的な庶民の暮らしだが、些細なことが彼女には考え付かないことの連続だ。
日常生活の基本がまず違う。
食事一つにしても、食材、味付け、すべて初めてだ。
何よりも気候がまるで違う。梅雨時の湿度には苦しめられた。
しかも、家族のだれも嫁の言語を理解できない。そして彼女ももちろん日本語が全くわからない。片言で喋れるのはロシア語とモンゴル語。
英語ですらおぼつかない家族はお手上げだ。
夫婦間の会話は手ぶり身振りが主で、あとは二人の特殊能力に少しだけテレキネスのようなものがあったため、手を握り合って念じるのみだった。
だが、そんなやりとりも彼は途中で面倒になり放棄した。
出産までの数か月。
苦難の連続だった。
籠の中の鳥のような生活。
そんな毎日に終止符が打たれたのは、赤ん坊が生まれた瞬間だ。
生まれてきた子供は男子で、とても綺麗だった。
しかし、医師から告げられた一言で空気は一変した。
この子は、アルファでもオメガでもない。
ベータだと。
男と両親は落胆した。
あれほど労力と金をかけて連れて来た女は、ベータしか産めないのか。
その場で責めた。
日本語で罵ったにもかかわらず、彼女は彼らの言いたいことをきちんと理解した。
そして、出産に立ち会ったロシア語の通訳を介して二つのことを告げた。
離婚して、帰りたい。
今、国では大変なことが起きているらしいので、子どもは連れて行けない。
彼らは引き留めなかった。
むしろ、助かったと胸をなでおろし、渡航費及び多少の慰謝料を渡すと即座に約束した。
そして産後三か月ほど一室で乳児と暮らした外国人妻は、身一つで出て行った。
成田空港を出立するまでは通訳が付き添い、見送った。
その後、何か国かを乗り継いでいるうちに、彼女の足取りは消える。
異国の女が家を出てすぐに、彼らは家の中を片付けて痕跡を消し去り、赤ん坊を『井戸』に投げ込んだ。
薄い色の髪と瞳の子どもは、日本では目立ちすぎて、面倒が起きるのは目にみえている。
雑に書類を作り、母親の縫った産着一枚着せたきり、あとは仲介者に任せた。
なんら、迷うことなく。
「・・・瑛。大丈夫か」
蜂谷が腕を回して瑛を抱きしめる。
なんとなくそれが自然な気がして、瑛はおとなしく彼の肩に頬を寄せた。
ぽん、ぽん、とあやすように背中を叩かれて、今まで呼吸も忘れて浅利の話を聞いていたことに気付く。
「これは、あくまでも私の推測でしかないけど」
浅利はつづけた。
「彼女は何もかも承知だったのではないかと思うの。日本へ渡って瑛を産むことも、そばにいられないことも・・・」
「どういう意味ですか」
「見送りをした通訳への聞き取りでは、彼女には先読みの能力があったのではないかと報告があるの。成田で別れる時に夫家族は人でなしだと憤慨していたら、片言で『だいじょうぶ。うみのむこうのひとのこどもをうむの、しってたから』と笑ったらしいわ」
彼女には、何の未来が見えてたのだろう。
「それとね。もう一つあるわ」
後ろからそっと浅利の手が瑛の頭をなでた。
「最後に、『わたしのぼうや、しあわせになる。だいじょうぶ。わたしの、たからもの』って」
ワタシノ、タカラモノ
どっと、波のようなものが押し寄せてくる。
草原の草のような髪、雪のように白い肌にバラ色の頬。
大きな瞳は、はちみつ色。
少し厚めの唇が朗らかに異国の音楽を歌う。
まだ少女のようなあどけない面差しで、柔らかくほほ笑んだ。
「かわいい、かわいい、わたしのぼうや、わたしのたからもの」
指先がからかうように頬をつっつく。
そしてなんどもなんども音を立てて口づけられた。
「かわいい、かわいい。なんてかわいいんだろう」
もみくちゃにされて、くすぐったい。
「だから、ここにいて」
いつのまにか、その人は泣いていた。
「どうかしあわせに」
ぽたりぽたりと雨のように涙が落ちる。
「さようなら」
やさしい香りが、薄れていった。
「・・・そんな・・・。そんなはずは・・・」
やさしい記憶。
覚えていられなかった思い出。
当たり前だ。
乳児で記憶がある方がおかしい。
でも今。
こうして脳裏に浮かぶ光景は、間違いなくあの時のもの。
別れの、朝。
「こんなことって・・・」
都合のいい妄想なんじゃないのか。
せめて誰かに愛されたかった自分の願望が、作り上げた夢。
「瑛」
蜂谷が囁く。
強く抱きしめられて、ますます胸の奥が熱くなる。
じわりじわりと広がる。
海の波がよせてはかえしよせてはかえしをくりかえすように、感情があとからあとから押し寄せてくる。
「う・・・」
もがくように蜂谷の背中に掴まった。
溺れそうだ。
心から何かがあふれて、溺れてしまう。
「うわーーーー。あああああ・・・」
叫んでいた。
叫ばないと、どうにかなってしまいそうだった。
「瑛」
わかってる。
わかってしまった。
あの、優しい人はもう死んだ。
産んでくれたのに。
愛してくれたのに。
あの香りがどこにもない。
土と、
草花と、
蜂蜜と、
風と、
空と、
太陽と。
月と。
暖かで優しい何もかも。
「瑛」
涙が、止まらない。
苦しい。
怖い。
どうして。
どうして。
どうして。
あなたが、ここにいない。