12.アリアドネの糸
最上級の人間には、最上級のもてなしを。
そうでない者にはそれなりに。
財力次第で、人はいくらでも変わる。
自分も、他人も。
それを目の当たりにしたのはいつのことだったか。
「なかなかの眺めだろう」
満足げな声を背に受けながら、窓の外を見つめた。
下界を見下ろす天界人の気分はこんな感じだろうか。
はるか下に広がる東京の街、そして海。
「そうね」
世界的に指折りの高級ホテルの、貴賓室ともいえる部屋。
値段なんて見当もつかない。
最高のしつらえのこの場所で、私たちのたくらみは着々と進んでいく。
「う・・・」
小さいうめき声が聞こえた。
振り向くと、ベッドの真ん中に転がされた青年の身体に男たちが群がり、何事か処置しているのが目に入る。
血を抜いてみたり、何かの液体を注入してみたり。
最新鋭の機器でなんらかの数値を検出してみたり。
「予定通り終わりました」
大掛かりで無粋な機材を片付けて、男たちは退室し始めた。
「ああ、ご苦労さま。これからが本番だ。しっかり頼むよ」
「はい、我々も楽しみにしています」
いちいち何をしているかなんて聞かない。
最初から、知ろうとしなかった。
いや、深入りしないと決めたのだ。
この子を、養子として斡旋されたその時から。
「・・・で、うまくいきそうなの?」
息のかかる距離まで顔を寄せて来た男に尋ねた。
「そうだな。幸運なことにあと一押しと言ったところにこぎつけた」
彼の手からシャンパングラスを受け取る。
「あの、御曹司のおかげね」
「ああ。シルバーは実に扱いやすくて助かる」
畜産家は生まれてきた子豚に名前なんて付けない。
なぜなら、いずれ生きる糧にするからだ。
家畜は屠られる運命。
生まれ落ちたその瞬間から、決まっていたこと。
「さあ、乾杯しよう」
「ええ」
グラスを合わせ飲み干した後、顔を寄せてシャンパンの吐息を絡めあう。
これは、契約の印。
「成功を祈りましょう」
勝利の予感に、笑いが止まらない。
出会って二十五年。
私たちは最高のパートナーだ。
ずっと、薄い布に守られていたような気がする。
大事に、大事にくるまれて。
やわらかな声が耳に残る。
「かわいい、かわいい、わたしのぼうや、わたしのたからもの」
撫でられて、口づけされて。
くすぐったくてわらった。
「どうかしあわせに」
やすらかな匂い。
そして、一滴の涙。
「さようなら」
白い世界に取り残された。
とろとろと夢とうつつの間をさまよう。
ほんの少し前までは幸せだったような気がする。
白くて、柔らかで温かかった。
だけど、今は違う。
どす黒い膜に閉ざされている。
重くて、臭くて。
まるでヘドロの中にいるようだ。
たくさんの、不快な感触。
気持ち悪くて、背筋が冷たくなる。
払いのけたいのに身体が動かない。
腐った何かのような匂いに囲まれて、吐き気がした。
そして、とぎれとぎれに聞こえる声。
「・・・で、うまく・・・なの?」
「ああ、シルバーは・・・」
かあさん。
そばにいるならなぜ。
そして。
「乾杯しよう」
なぜ。
なぜ、あなたたちは。
叫ぼうとすると、強い力に引っ張られた。
悲鳴すら呑み込まれ、息もできない。
身体を支えていたはずの空間がいきなりなくなった。
落ちる、落ちる。
ただただ、落ちていくという感覚に襲われた。
もがいても、もがいても、どうにもならない。
ぽっかりと開いた奈落の底めがけて、真っ逆さまに落ちていく。
「・・・っ」
底なしの、暗闇。
何も見えない。
自分と周囲の境目さえも分からない。
闇の中に取り込まれる恐怖に、ひたすらおびえる。
自分は、人なのだろうか。
自分は、生き物なのだろうか。
これは現実なのか。
夢?
ゆめなら、自分はいったい、何なのか。
狂ってしまったのだろうか。
正常ってなに?
息をしているのか。
もう死んだのか。
そもそも、自分は生きていたのか。
自分って?
怖い。
とても怖い。
何もかも怖い。
どうすれば、この恐怖から逃れられる。
「うわああああーっ!」
声の限りに叫んだ。
その瞬間、まるで雷が落ちたかのような強い光がすべてを照らし尽くす。
「は・・・・」
とても、眼を開けてはいられない。
真っ黒な奈落が光の空間に変わっただけだ。
だけど。
喉を震わせて音を作れたし、耳の鼓膜に響いた。
生きている。
まだ、生きている。
安心した途端に、力が抜ける。
そして、光りの中に溶けていった。
身体も、意識も。
遠くから歌が聞こえた。
ゆったりとした旋律。
かすかな声。
ひとつひとつに愛情がこめられているであろう歌詞は、不可思議な音の羅列だった。
一つの音が耳に届くたび、薄い布が一枚。
また届くと、また一枚。
やわらかな守りが全身を包んでいく。
「オシマイ」
旋律が途切れ、呟きが落ちた。
それは不自然な響きで。
そして。
「サ・・・カ、サマ?」
扉が閉まる。
かちりと錠が施された音が頭の奥に響いた。
熱い。
身体の奥が熱い。
最初は腹の中心の、深い深い奥底にまるで小さな焼石を呑み込まされたように感じた。
だけど、それがだんだんと広がっていく。
まるでそれは全身に枝を伸ばしていくように。
風に揺られながらも蔓を伸ばす蔦が脳裏に浮かんだ瞬間、思い出す。
前に見た悪夢を。
腹の中心から植物が伸びて、やがて・・・。
じぶんは、ひとではないのか。
ひとでないなら、なんなのか。
目から涙が流れ落ちる。
頬を伝うそれさえも芽吹いて葉を開く感覚に、恐ろしさと絶望で震える。
なぜこのようなことに。
どうしてじぶんは。
思い惑うなか、そよ、と風が優しく吹いて身体を包み込む。
息を吸い込むと、かすかなにおいを感じた。
木の幹。
青々とした葉の、生きた香り。
まるでそれは、土に根を張り、陽の光を糧とするものの香り。
乱れていた胸の内がだんだんとなだらかになっていく。
怯えるしかないのか。
嘆くしかないのか。
いや、ちがう。
見上げた先に広がるのは白い光に満ちた天。
何もない、虚空。
害をなすわけでも、守ってくれているわけでもなく、ただあるだけのいま。
考えろ。
これからの先を。
今を受け入れて、進め。
目を閉じると、気の流れを感じた。
そして、あの香りも。
深呼吸を一つ、二つ、三つ。
焼けつくような感覚はまだ残っているけれど、もう怖くはない。
思い出すのは、旋律。
そして、やわらかな、たどたどしい言葉。
オシマイ。
サカサマ。
「さかさま?」
これはアリアドネの糸だ。
この、迷宮を出るための。
音を辿って、出口を探す。
最後の音は・・・。
それから、次は。