32. 夜神くんのフルネーム
剣の練習を終えてシャワーを浴びてから、カロンはリリムの部屋に向かった。
今日は一緒にランチをする約束をしている。
「はい、お疲れさまでした」
扉を開けて中に入ると、リリムがカロンを抱きしめた。
頬と額に軽いキスをして、カロンの手を引く。
ベッドの上に乗って、向かい合って座った。
「ランチに行く前に午前中の成果を整理しよう。カデルは無事に『五感の護り』として覚醒し……」
「待って、ちょっと待って、夜神くん!」
ぼんやりして、うっかり流しそうになった。
抱き締めたりキスしたりといったスキンシップは一昨日もあったが、今のが何の意味かを知りたい。
「今のキスって」
「はい、それ」
びしっと指さされて、カロンは言葉を止めた。
「それって、どれ?」
「今後、僕を夜神と呼ぶのは禁止する。僕もカロンを神木とは呼ばない」
「ぇ……、なんで?」
しょんぼりした声が出た。
(夜神くんの名前を呼べるのも、神木って呼んでもらうのも、俺だけの特権って感じで、嬉しかったのに)
二人きりの時しか呼ばないのだし、いい気がする。
「レアンとシェーンに、僕が目覚めた時のカロンとの会話について聞かれたんだ。起き抜けでよく覚えていないが、僕はカロンを神木と呼んだらしい。それについても質問された」
どうやらリリムも、同じような質問をされたらしい。
レアンとシェーンは動きが早い。
「元の世界の名前について聞かれても説明ができない。今はお互い、二人きりの時にしか呼ばないが、癖とは咄嗟の時に出るものだ。普段から、今の名前を呼ぶのがいいと思う」
あまりにも真っ当な意見を言われて、反論のしようもない。
「そうだね。気を付ける。ちなみに、なんて答えたの?」
「呪文だと言っておいた。お互いを『神実』と『魔実』と認識するための呪文だ」
「呪文か……」
その返答でレアンとシェーンが納得したかは、わからないと思った。
「さらに、知り合いかと聞かれた。夢でなら何度も会っていると答えたら、カロンも同じ話をしていたと言っていた」
「へ? 凄いね、俺と同じ嘘ついたの?」
口裏合わせはしていない。
偶然にしては、出来過ぎた重なり具合だ。
「この世界に来てから、僕は何度も神木……、カロンの夢を見ていたから、嘘でもない」
「俺の、夢を? 夜神く……、リリムが?」
リリムが少しだけ目を伏した。
「思い出せなかったんだ。顔も、名前も。ただ、君の存在だけは、ずっと頭の中にあって。アンドラスに名を呼べと言われて、やっと思い出せた。名前を呼んだら、神木がカロンになった」
「え……えぇ⁉」
それはつまり、リリム夜神がカロンの中に神木陽向を召喚したのだろうか。
「俺を呼んだのって、リリムだったの?」
「正確には、女神アメリア様だ。僕は、知っている名を呼べと言われただけだ。だから、呼びたい名前を呼んだ」
唖然として、言葉が出てこない。
「だから少し、申し訳なかったと思っている」
「ん? 何が?」
リリムが俯いた。
「カロンは、神木陽向として元の世界に帰りたいんだろう? 僕が無責任に、この世界に巻き込んだ。既に変わっているこの世界は、神木が好きな『魅惑の果実』の物語じゃなくなってる。君の名を呼ぶべきじゃなかった。ごめん」
リリムが深々と頭を下げた。
カロンは慌ててリリムの肩を起こした。
「謝らないでよ。確かに、この世界は俺が知ってる『魅惑の果実』じゃないけど。別にどうしても帰りたいって訳じゃないよ。ただ、帰れるなら、二人で帰れたらいいなって程度で。俺もそれなりに楽しんでるし」
折角、好きな小説世界に異世界転生したのだから、できる限り楽しみたい。
現実と違って魔法がある世界にも興味がある。
(俺が帰りたい理由は、夜神くんを闇堕ちラスボスにさせたくないからだし)
夜神が夜神のままでいてくれるなら、もっと色々経験してみたい。
「本当に? 嫌じゃないのか?」
「驚くことばっかりだけど、嫌ではないよ」
イレギュラー連発の事態に脳が付いていけないだけだ。
「むしろ、なんでそう思うの。俺、嫌そうに見える?」
リリムが目を逸らして言い淀んだ。
「……笑わない、から」
「え?」
「元の世界にいた時の君は、この小説の話をする時、いつも笑っていた。だけど、この世界に来てからの君は、笑わない。違い過ぎる世界に、落胆したのかと、思って」
カロンの脳に、元の世界の光景が浮かんだ。
(そうかもしれない。『魅惑の果実』の話ができる相手なんか、いなかったから。夜神くんが小説、読んでくれて、夜神くんと共通の話ができるの、嬉しくて)
笑っていたのは、夜神と話せて楽しかったからだ。
好きな小説の話を、好きな友人と出来る時間が、とても楽しかったから。
「やっぱり、神木って呼んでよ。陽向でもいいから。二人きりの時は俺の名前、呼んでよ」
「でも、その名前は多分……、カロン、僕たちはきっと」
「どうでもいいよ! 元の世界の俺たちはもう死んでて、あれは前世で、俺たちはこの世界のカロンとリリムに生まれ変わってて、帰れないんだとしても!」
同じ可能性に、リリム夜神も気が付いていた。
全く持って感覚的な話だが、自分たちはきっと、前世を思い出したに過ぎない。
最初から、カロンとリリムだった。
「夜神くんだけが呼んでくれる名前、一個でいいから欲しいよ」
「……陽向」
小さな声が優しく、名前を呼んだ。
「なら、陽向が良い。ニックネームとでも、しておこう」
リリムがカロンの手を握って、微笑んだ。
『温くて、良い名前だ』
名前を教えた時の夜神の反応を思い出した。
何故だか、目が潤んだ。
きっともう、リリム夜神以外は誰も呼ばない名前だ。
「俺も、名前呼びたい。夜神くんの名前って……」
「リム」
「ん? いや、元の世界の名前……ぁ」
不意に夜神のフルネームを思い出した。
「僕の名前は利睦だ。夜神利睦がフルネームだ」
思い出した上、はっきり言われて、カロンは口を開けた。
(本名が転生先の名前と、大差ねぇ!)
「……じゃぁ、利睦って呼ぶのは問題なさそうだね」
「そうだな。それこそ愛称っぽくて、疑われなそうだ」
可笑しくなって、笑いが込み上げた。
「夜神くんは、どこにいても夜神くんだね。あ、利睦って呼ばなきゃ」
リリムの手が伸びて来て、カロンの頬を撫でた。
「やっと笑った。僕は、陽向が笑う顔が、見たかったんだ。名前を呼んで笑ってくれるなら、二人きりの時は陽向と呼ぶ」
頬を指が滑るだけで、ドキリとする。
鼓動が静かに速くなっていく。
(俺、夜神くんに触れられるの、好きだ。もっとずっと、触れていて欲しい)
「夜神く……、利睦……が、傍にいてくれたら、笑えるよ。俺も利睦に会いたかったんだ。利睦がいるなら、この世界も楽しいよ」
ある程度のイレギュラーには遭遇したはずだ。
これ以上、何があっても、そうそう驚かない。
触れるリリムの指に、自分の指を絡めた。
「陽向に名前を呼ばれるのは、思った以上に、嬉しい」
リリムが自分から、カロンの絡まった指を深めた。
「帰る方法がないと、決まった訳じゃない。アメリア様に確認できるよう、アンドラスに語り掛けてみる。だから一緒に、探してみよう」
「ん、俺も、まだ諦めない」
とはいえ、気が付いてしまった可能性は、絶望的なほど正しいと、本能が感じている。
「陽向が笑ってくれるなら、傍に居るし、帰る方法も僕が見付けてみせる」
微笑んだリリムがカロンの頬に口付けた。
あまりにも自然にされたから、一瞬、わからなかった。
「利睦、スキンシップ、自然だね」
そんな言葉が口から、するりと零れ落ちた。
「一月で、慣れたのかもしれない。陽向には、スキンシップしたくなる」
リリムの指がカロンの頬や耳をなぞる。
ゾワゾワしてくすぐったいのに、嫌じゃない。
(俺だって夜神くんの、利睦の笑顔を守りたい。戻れないなら、利睦をラスボスにしない方法を、考えなきゃ)
カロン神木の新たな目標が定まった。




