1. 穴に落ちたら異世界の始まり【LY】
ネット小説を読みながら歩いていたら、穴に落ちた。
狭くて暗くて長い穴をひたすら落ちる。
あまりにも、いつまでも落ちるので、意識が遠のいた。
〇●〇●〇
何気ない、いつもの学校で。
誰もいない空き教室に隠れて授業をサボってるクラスメイトを見付けたから、後ろから覗き込んだ。
スマホに顔が食い込むんじゃないかと思うくらい食い入る男子の肩を叩く。
こっちが驚くほど飛び跳ねて、真っ赤な顔で振り返った。
「いや、俺、別に腐男子とかではなくて、ゲイでもないっていうか、その……」
聞いてもいないし、責めてもいないのに、勝手に慌てだした。
性的嗜好も趣味も個人の自由なのだから、言い訳する必要も、慌てる必要もないのに。
むしろ授業をサボっているほうが問題だ。
「授業はまぁ、サボりだけど……。てか、夜神くんは何で、ここにいんの? 生徒会長もサボり?」
昼休みに生徒会の仕事をしていたら、時間が過ぎてしまっただけだ。
故にサボるのではなく、遅刻する予定だ。
「続き読めたし、俺も授業出よっかな。ん? これ? 流行のネット小説。今日の配信が十三時で、続きが気になってたから、どうしても読みたくてさ」
事情は分かったが、授業をサボってはいけない。
彼は連行して、共に遅刻で出席しよう。
それにしても、そこまで夢中になる小説は、少し気になる。
「異世界ファンタジーだよ。『魅惑の果実』ってタイトルの小説。だけど、……BLだから、人、選ぶよ。夜神くんは、そういうの、平気な人?」
控えめというか、言いづらそうに教えてくれた。
聞いてはいけなかったらしい。
セクシャリティについて、恋愛としても嗜好としても個人的な固定概念はないが。
BLは隠さなければいけないような趣味なのだろうか。
彼の態度を見ていたら、読んでみたくなった。
「え? 本当に? じゃぁ、読んでみてよ。ファンタジーとしても面白いからさ! 読んだら、教えて! 話そうよ!」
さっきまで気まずそうにしていた顔が、笑った。
その変化に酷く驚いた。
「この話はね、自分を平凡だと思っていた主人公が実は『神実』っていう特別な存在だったとわかって、そこから話が始まるんだけど……」
彼が、嬉しそうにプレゼンを始めた。
その顔が、とても楽しそうに笑うから、余計に興味が湧いた。
この小説を読んだら、また彼と話す機会が増える。
それは好ましい。
(そういえば、彼の名前は、何だったか。クラスメイトなのは知っているけど。以前は興味がなかったからな)
名前を聞いた気がする。
もう何度か一緒に、『魅惑の果実』の話をした気がするのに、思い出せない。
ぼんやりそんなことを思いながら、遠のく意識が闇に潰えた。
〇●〇●〇
突然、意識が浮上した。
浮上したのに、目を開けられない。
遠くで誰かの話し声がする。
「全然、起きないね。カデル、思いっきり振りかぶったんでしょ?」
「言いがかりはよせよ、ルカ。リリムが剣技苦手なのは知ってる。いつもの通り優しくやったよ」
誰かが言い合いをしているようだ。
人が寝ている傍で、迷惑な話だ。
別の場所で話してほしい。
「だよねぇ。怪我なんかさせたら、どんな文句つけられるか、わからないもんねぇ」
「シェーンの言う通りだ。いっそ、剣の授業なんか、とらなきゃいいんだ。どうせ使い物にならないんだからな」
迷惑そうに吐き捨てる言い方だ。
そもそも剣技の授業なんか、高校の教科にない。
何の話をしているのか。
「カデルのその発言も、聞こえていたら事だよ。リリムは闇魔術師だから、剣は必要ないんだよ」
「闇魔術師だって剣技が得意な奴はいるだろ。レアンの発言のほうが棘があるぞ」
どうにもリリムという生徒は彼らに好かれていないらしい。
更に、この場には男性が四人いるようだ。
(魔術……。そういえば、さっきまで読んでいた『魅惑の果実』にも、魔術が出てきたな。リリムって名は確か、闇魔術の名門貴族の子息。いわゆる、悪役令息と書かれていた)
知らなかったので、調べた。
主人公を虐めて陥れようと画策するのが悪役令息の役割らしい。
『魅惑の果実』に登場するリリム=ヴァンベルムも例に洩れず、主人公を虐めまくる。
(だが、僕に言わせればやり方がヌルイ。あれではただのかまってちゃん。虐めるなら、心身共に削り取るくらいの悪の所業で立ち直れないほど痛めつけなければ。真の悪役令息とは、呼べまい)
しかもリリムは最終的に闇堕ちして悪の竜と同化し、主人公パーティに立ちはだかるラスボスだ。
(ラスボスとは物語の中で最恐の悪。主人公たちが倒した瞬間に胸がすくような純然たる悪でなければ)
『魅惑の果実』は物語が終盤で、最終話がまだなので、ラストがどうなるかわからないが。
あの中途半端なかまってちゃんが、どれだけ気高い悪になれるのか、とても興味がある。
(ここにいる人たちも、同じネット小説を読んでいるのだろうか。だとしたら僕と同じように、悪としてのリリムに期待をかける読者なのかもしれない)
ちょっとだけ、話してみたくなった。
(次が配信になったら、彼ともまた話を……)
名前が浮かばないクラスメイトの顔を想いながら、目を開けた。
あまり見慣れない、というか初めて見る洋風の部屋が、眼前に広がる。
部屋の調度品も、自分が寝ているベッドも、どこか中世ゴシック調だ。
「リリム! 目が覚めた?」
細身の男性が、寄ってきた。
起き上がって周囲を見回す。
「どこか、痛むか? その、悪かったな。強く打った覚えはないんだが」
ガタイの良い筋肉質な体躯の男性が、気まずそうに目を逸らす。
「カデル、もっとちゃんと謝りなよ。許してもらえないよ」
可愛らしい顔をした小柄な男の子が、ガタイの良いカデルを突いている。
「やめろ、ルカ。謝っているだろ。振り切って悪かったよ。怪我はしてないだろ」
「怪我云々の問題でもないでしょう。要はリリムが許すか許さないかの問題ですから」
淡々と話す男性がリリムに冷めた目を向ける。
さっきは聞こえなかった声だ。
どうやら、男性は四人ではなく五人だったらしい。
「リリム? どうしたんだい? ぼんやりしているようだけど」
棘のある言葉を吐いていた声だろうか。
物腰柔らかな皇子風の男性が、声を掛けてきた。
(ここにいる全員、名前を知っている。聞こえた名は総て、『魅惑の果実』の登場人物。主人公『神実』の守人『五感の護り』だ)
どうやら自分は、流行のネット小説の世界に、流行の異世界転生というものを果たしたらしいと理解した。
しかも転生先の体は、中途半端なかまってちゃん悪役令息のようだ。
念のため、確認してみることにした。
「確認したいんだが。……僕は、リリム=ヴァンベルム、なのだろうか?」
零れた呟きを聞いて、その場にいる五人の表情が固まった。